今度は中々守護霊から返事が来ない。流石にロッカーでは特定は不可能だったかと深く考えることを投げかけていた俺と雑談する珊瑚、そして興味深そうに彼女の話を聞く阿柄の前に、突然彼女は現れた。
「やぁ。こんなところで何をしているんだい。板東に生徒会長」
 コインロッカーと俺たちの前にどこからともなく現れた制服姿の女子高生──俺らのクラスメイトにして学級委員を務めるポニー坂本は演技がかった口調でそう言った。演技がかったというか、こいつは言葉に淀みというものがない。
「何してるって、何もしてねぇよ。別に」
「そうかい? 私には、最近噂になっている怪しげな霊能力者に妙なことを吹き込まれて商売相手にされているように見えるんだけれどね」
「知ってるなら最初からそう言えよ。面倒くさいな」
 こいつは大体こんな感じの人間だ。人を食った物言いをするが、まぁ悪意はないのだし相手に不快だと感じさせない程度の匙加減を加えてくるから総じて誰とでも話しやすい。
 ポニーは珊瑚に目を留めると、落ち着いた声で
「初めまして。霊能力者さんかな、君が」
 と改めて尋ねた。
「え、えぇ」
 珊瑚は心なしか気圧されたように見えた。そういえばポニーは彼女に敬語を使わないな。まぁ先生に対しても俺らと同じように接する奴だから今更だが。
 ポニーはさりげなくロッカーを確かめるように触れながら言う。
「蓬麟を探しているんだけれど、見なかったかな、板東に阿柄」
「蓬麟? いいや?」
 それは俺らのクラスメイトの名だ。一度も話したことはないが。でも何故だろう。ポニーと蓬麟は別段仲がいいわけでもないだろうし、何かのつながりがあるという話も聞いたことがない。
「何でまた蓬麟を」
 そう聞くと、ポニーはやれやれと首を振って見せた。
「それがどうも最近荒れているようでね。少し変わった性癖を持った人だから、人に迷惑をかけているようであれば灸を据えてやろうと思ったのだけれど」
「性癖って……」
 何を言い出すんだ。
「変な意味じゃぁないよ。ただどうにも彼女は」
 ポニーは珊瑚に視線を向ける。今度はその視線を軽く受ける珊瑚は「何?」と小首を傾げて見せた。
「心霊現象やらオカルトやら、そういったものが大の苦手なのさ。苦手というだけならまだ可愛いものの、酷いときにはそういったものを自分の手で身の回りから排除しようとするんだ。迷惑極まりない話だろう?」
「まぁ、な。つーか聞いたこともなかったがな」
 蓬麟なぁ。俺は別段彼女とは接点があるわけではないし、あまり愛想が良くないクラスメイトの一人くらいとしか思っていないから、ポニーの言葉にはそうですかと頷くしかない。
「そうかい? それで、もしかすると最近噂になっている霊能力者のもとに現れて何か迷惑をかけるんじゃないかと思って来てみたんだ。そんなわけだから、君」
 ポニーは先ほどから腕組をして彼女の話を聞いている珊瑚に向かって忠告する。
「彼女を見かけたらあまり関わらないほうがいい。無駄な損害を被ることになるかもしれないからね。彼女はどうやら自分の理解の範囲を超えているものに対してひどく敏感なんだろう。そういうものと付き合っていくことが出来ない性質なのさ。それが身の回りにあると知ると、一種のパニック状態に陥ってしまう」

 このニュータウンは自然を身近に感じることが出来るというコンセプトのもとに開発された土地であり、そのため街のあちらこちらに緑が残されている。その場で生息を限定的に許された蝉の鳴き声が夕暮れの街を包み込んでいた。
 日が傾き、夏の重量のある雲が朱色に染まり始めた頃、神社の石段を登る小さな少女の姿があった。境内の石畳にその長い影が落ち、その先には小さな社が木立の中にひっそりと鎮座している。蝉の鳴き声に不快感を顔に表しながら、蓬麟は社へと近づいていく。
 社の前まで来たところで彼女は足を止め、周囲に誰もいないかを確認するように左右を見た。人気はないと判断したらしく、彼女は慎重な足取りで社の階段を上っていく。所々腐食して脆くなっている格子戸に触れ、深呼吸をする。彼女は真っ直ぐ社の奥を見据えると、一気に手に力を込めた。がり、と妙な音を立てて、扉は簡単に奥へ傾き、そして崩れるようにして倒れた。
 その衝撃で蓬麟はびくりと一歩後退する。が、気合を入れるように拳を握ると、
「……今から、そっちに行きます」
 と、誰に向けてでもなく呟いて一歩足を踏み入れた。

 さて、宇宙人はここへたどり着くのだろうか。
「もう少し詳しく教えたほうがよかったでしょうか」
 しばらく待ってみても宇宙人からの返信は来ず、阿柄は不安そうな顔をして珊瑚にそう言った。
「そうねー。もう一回送ってみる? 今どこにいるのーって」
「そうですね……あれっ」
 部屋にメールの受信を知らせる効果音が響く。また来たか。早く早く、と急かす二人を尻目に俺はメールを開いた。そこにはこう書かれていた。
『今から、そっちに行きます』
 全員が黙読し終えた直後、背後の自動扉が電子音を上げた。誰かが部屋に入ろうとしている。
「もう来たぁぁぁぁ!!」
 半ばパニックに陥りかける阿柄、
「宇宙人さんこんにちはー」
 軽いノリで宇宙人を出迎えようと身構える珊瑚、そして俺。ちらりと腕時計を見る。そろそろ交代の時間か。
 扉を開けて部屋に入ってきたのは、
「……何してるんですか」
 俺と同じ制服を着た情報管制室の職員、左蓬麟だった。彼女は元々ここの職員ではなく研究員をしており、それもかなり実績を上げていたらしいのだが、研究機関のほうで何かトラブルを起こしてこの職へと身を引いたのだそうだ。有り体に言えば、左遷された元エリートといったところだ。
 珊瑚と阿柄にあからさまに険しい視線を向け、出て行け、と無言で圧力をかける。阿柄はその視線に怯えて珊瑚の顔を見るが、珊瑚は意に介さず大きなため息をついた。
「あーあ。期待したのになぁ」
「何をですか」
 蓬麟の声色がすっと下がる。虫の居所が悪いらしい。そもそもこいつには冗談が通じないんだ。
「交代ですよね、左さん。お願いします」
 気を利かせて蓬麟に話しかける。蓬麟は細い息を吐くと俺のほうに向き直り、
「……お疲れ様」
 と軽く頭を下げた。そういうことをされると逆に緊張してしまう。
 とにかくこいつの神経を逆なでしないようにして今日は退散しよう。俺は立ち上がり、蓬麟に席を譲った。珊瑚たちも連れて行ったほうが良いだろう、全く余計な気を遣わせやがって。
「じゃ俺は休みますんで。珊瑚さんたちももういいでしょう、今日は──」
 これで、と言いかけたところで口を噤む。珊瑚と阿柄は蓬麟の目の前でメールの返信を書いていた。蓬麟の苛立ちも珊瑚は受け流してしまうようだ。
「じゃぁ、えっと……仕方ないか、『すみません、今日のところはお引取り願えませんか』って感じで書いとこっか」
 珊瑚に言われ、阿柄がキーボードを叩く。短い返信は宇宙のどこかにいる宇宙人へと送信された。

 社の中はがらんとしており、蓬麟が扉を倒したときに舞い上がった埃で薄暗かった。その社の中央には、古びた一基のポストが佇んでいた。塗料の赤と錆びの赤で斑に塗られたそのポストは明らかに現在使われているものではなく、形状も箱型ではなく円柱型だった。
 蓬麟は足元に転がっていた格子戸の残骸を踏みつけて折り、角材に分解して手に持つ。それをポストに向け、恐る恐るポストへと近づいていく。
 と、彼女の耳にどこからともなく囁くような声が届いた。
『すみません、今日のところはお引取り願えませんか』
「えっ……!?」
 蓬麟の表情が凍りつく。周囲を確認したくとも体が震えて言うことを聞かず、その瞳だけが忙しく左右に振れた。気配を窺ってもそこには彼女一人しかいない。しかし彼女の耳ははっきりと誰かの声を捉えたのだ。蓬麟は目の前のポストに目をやる。赤いポストは横長の口を開け、その奥から真っ直ぐに彼女を見据えている。
 うっ、と彼女の喉奥が鳴った。その表情が、十に満たない少女のものとは思えないほどに歪む。吐く息は荒く、額には大粒の汗が浮かんでいる。
 彼女は目の前のポストを睨みつけ、大きく息を吸った。
「この……っ!」
 角材を振り上げ、真横からポストを殴りつける。鈍い音と共に小さなその腕に衝撃が走った。

 突然エラー音が鳴り、モニターに警告の文字が表示された。何だ、今度は何をした。
「あれ? 何かバグった?」
 珊瑚も眉を寄せている。蓬麟が彼女を押しのけるようにしてコンソールの前に座り、素早く操作する。セキュリティを抜けてウイルスでも吸い込んでしまったのか、先ほどから画面の表示が断続的にぶれて安定しない。
 誰かの舌打ちが聞こえた。……蓬麟か。

 やっぱり!
 社に駆け込んだ俺が見たのは、倒れて床板にめり込んでいる古いポストと、嗚咽に似た声を漏らしながらポストを殴ったり蹴ったりしている蓬麟の姿だった。
「おい、ちょっと、や……落ち着けって! おい!」
 蓬麟は俺の声が聞こえていないのか、ポストを蹴り続ける。みし、みしとポストは少しずつ床に沈みこんでいく。小学生の癖に、何て力してんだこいつは!
 この間の怪しい人はまだいるかと思ってふらっと寄った神社だったが、社のほうから突然聞き覚えのある声が響いてきたのだ。不安になって駆けつけてみれば、ここにいたのは予想通り蓬麟だった。しかし何をしているんだ、こいつは?
 あまりの狂態に怯むが、しかし放っておくことも出来ない。
「蓬麟、おい! お前、こらっ!」
 俺は腕を伸ばして蓬麟の肩を掴み、揺さぶった。
 すると、ぴたり、と彼女は動きを止め、
「……うっ」
 と呻くと、ばっと飛び上がってポストから離れ、暗い隅のほうへと後退った。
「……どうしたんだよ、お前……。ってか、これ何だ……?」
 改めてポストに目をやる。俺の力ではとても立たせる事はできそうにない。というかそもそも何でこんなものがここに? 明らかに場違いのようにも思えるが、その古さとこの神社の様相は不思議と違和感なく溶け込んで見える。
 まぁ、いいか。蓬麟は今……話ができる状態だろうか。彼女は隅の方でぺたんと座り込み、項垂れて小刻みに震えている。
「……蓬麟、おい」
 呼びかけると彼女は意外にもすぐに反応した。
「何……?」
 顔を上げず、短い言葉を投げてくる。
「これ、何だ?」
 とりあえず、聞きたいことをそのまま聞いてみた。下手すれば彼女の心を逆なでしてしまうかも知れないが、他にどう会話を始めればいいのかわからなかった。
 蓬麟はやはり顔を上げず、
「……さぁ」
 とだけ応えた。
「さぁってお前……今、じゃぁ今何やってたんだ?」
 少し語調が強くなってしまったかもしれない。蓬麟は今度は少し間を置くと、
「……気持悪かったから」
「え?」
 気持悪いって、何がだ? そりゃ快適そうには見えなかったが。
 蓬麟は聞き返されて軽く苛立ちを覚えたのか、
「そこから声が聞こえてきて……気持悪かったから、壊さなきゃ」
 と吐き捨てるように言った。
 声……? もしかして、この前の女が言ってた、てかこの神社に伝わるあれか、神様の声が聞こえるっていう……?
「声なぁ……」
 困った。これはどう対応していいやらわからない。大体、気持悪かったら壊さなきゃっていう発想はおかしくないか? まぁ、今の状況、そういうことを言っていても仕方ないのかもしれないが……。
 頑張ってかける言葉を探すかそれとも立ち去るか決めかねて頭を掻いていたとき、その声は全く不意をついて聞こえてきた。
「あっ……あっ……! っ……駄目っ、そこ……あっ! ふぅん……!」
「え」
 思考が固まりかける。
 こ、これは……。断続的に繰り返される、甲高い女の声。
 社の外から聞こえてくるその声は、俺がその、悪友どもから聞きかじった知識によると所謂喘ぎ声ってやつで……いや詳しくは知らない。別に、そう、自分から興味を持って色々調べたわけじゃないがちょっと知っているだけだ。
「……えと……」
 ど、どうしよう。今外へ出て行ったら、……外で何か、俺には早すぎることをしてる誰か見つかってしまうんじゃないか。っていうか見てしまうんじゃないか。まぁ別に、いや、知らない振りをすればいいのか。俺まだ小学三年生だし……でも、これ……。

 バグったと思ったらまた着信があり、今度はモニターに謎の文面が映し出される。
『あっ……やっ! あぁーっ!』
 何だこれ。何か官能小説の嬌声の表現みたいなことになってんぞ。
「これ何でしょうか」
 阿柄は不安そうに珊瑚に尋ねた。珊瑚は首を傾げている。
「きっとこれが本来の宇宙語なんだよ。翻訳機もバグったのかな……?」
 どんなバグだよ……。
 いかん、だらだらとこんなことを続けているわけにも行かない。いい加減切り上げよう。俺はため息をつき、珊瑚と阿柄に向かって言う。
「もういいでしょう、何だか機械の調子も悪いみたいですし。左さん、すいませんが後よろしくお願いします。ほら、もう帰ってください、お二人も」
 えーっ、と珊瑚は口を尖らせる。
「折角いい感じに通信できてたのに、勿体無いなぁ」
「そうですよ」
 お前はどこまで追従するんだ。阿柄が珊瑚にくっついているとそのうち宇宙人と交信するための部署が作られそうで怖い。
 俺は「失礼します」と断り、珊瑚と阿柄の手首を掴むと強引に部屋の外へと連れ出した。

 と、いつの間にか蓬麟が顔を上げ、俺のほうを見ていた。
「……顔」
「は?」
 何のことだ? 蓬麟は眉間に皺を寄せて上目遣いにこちらを見ている。
「何で赤くなってんだ」
「えっ、は、あ」
 はっとして自分の頬に手を触れる。熱い。
 何だか急に恥ずかしくなり、
「い、いやー。暑いなって思って」
 意味不明の理由を口にしてしまう。落ち着け、俺。蓬麟はどうもそういうことには疎いらしいぞ。何か俺だけ舞い上がって馬鹿みたいじゃないか。
「何言ってんだ……?」
 不審げな蓬麟の視線が痛くて俺は彼女に背を向ける。その間にも誰かの嬌声は続いていた。
「……あっ、っ……くぅっ、やぁっ!……あっ……くっ……。……ふふっ……っくっくくく」
 ……何だ? 声が……笑っている?
「あっ……っはははは! かっ、かっわいい〜! きゃっははははは。ま、真っ赤になっちゃって……」
 この声、聞き覚えがある。そうだ、確か。
 慌てて振り返ると、やはりというか何というか社の入り口に見覚えのある女が立ち、腹を抱えて笑っていた。外から差し込む逆光で顔が陰になっているが、間違いない、この前ここにいたあの女だ。
「……珊瑚さん? あの」
 どういうことだ、からかわれたのか。無性にくやしくなって何か言おうとするが、
「うんうん、言わなくてもいい。お姉さんはぜーんぶわかってるから。にしてもおませさんだねー、ぼく」
 珊瑚に頭を撫でられて何も言い返せなくなってしまい、彼女にも背を向けた。今度は触らなくても顔が真っ赤になっているのがわかる。くそっ、何なんだよ……。
「でもねー。あ、板東君だっけ? こんなところで女の子に迫るのはまだ早いぞー? っていうか、彼女、傷ついてない? 何したの、ちょっと」
「べっ、別に何も……」
 慌てふためく俺の姿はまた珊瑚を喜ばせてしまったらしい。
「ふふっ、大丈夫わかってるって。私も聞いてたから、外で」
 じゃぁ変な芝居しないで普通に入って来いよ! 何だよあれ!
 俺は無性に腹が立ってきた。それに加え気恥ずかしさと謎の敗北感で居た堪れなくなり、珊瑚の横をすり抜けて外に出る。
「……じゃ、じゃぁ俺はもう行くから、な!」
「うん。またねー」
 にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべて俺に手を振る珊瑚を視界から外し、一応、ということで蓬麟に声をかける。
「蓬麟、お前……何か、もう変なことはするなよ」
 返事はない。俺の言葉は届いただろうか。
 板東君、と小声で呼びかけられ、俺は視線だけ珊瑚に向ける。彼女の顔からはまだ笑いが抜け切っていなかったが、彼女は俺に向かって軽く頷いて見せた。蓬麟のことは大丈夫だから、と言っているような気がした。何が大丈夫なのかわからないが、まぁ、兎にも角にも俺は退散したほうがよさそうだ。
 俺は縁から飛び降り、まだ日中の暑さの残る日暮れの境内を駆け抜けていった。

 ポニーは蓬麟を探すと言ってどこかへ去ってしまった。ほっとけばいいのにと思うのは無責任だろうか。普通ほっとくよなそういうのは。いくら学級委員でも。
「さてー。じゃ他に聞きたいこととかない?」
 珊瑚が仕切りなおすようにロッカーを小突いた。
「他にっつーか向こうから居場所聞かれただけじゃねぇか」
 空を見上げれば既に陽は落ちたようで、早くも小さな星がちらほら見え始めている。腕時計を見るともうじき六時だ。さすがにこれ以上こんな奴に付き合ってはいられない。
「なぁ阿柄、もう帰っていいか。そろそろサザエさんが始まるから帰りたいんだが。十分だろ、とにかく怪しい奴がいるってことはわかったんだし」
 言ってからサザエさんは学校がある日には放送していないということに気付く。
「ちょっとちょっと板東君。怪しい奴だなんて霊に失礼じゃない」
「お前だよお前。霊は見えねぇよ俺には」
 横目で阿柄の顔を伺うと何やら不服そうだが、まぁ俺が押し切ればこいつも強くは主張しないだろう。
「大体、中途半端なんだよ。霊能力者って言ってるくせにお前わざと似非っぽくやってるだろ。何がしたいんだ? ネタで押し通したいんならもっとサービスしろっての、色々と」
 珊瑚は何故かサービスという単語だけを拾い上げ、
「えー? なぁに、板東君。最初から私のサービスがお目当てだったの? なら恥ずかしがらずに早く言えばいいのにー」
 と急ににやにやしながらにじり寄ってくる。さ、さすがにきめぇ。
「でもこっちは結構高くつくよ?」
 彼女はそう言ってわざとローブの襟元を緩め、俺に顔を近づけてくる。

「……さてと」
 板東の後姿が鳥居の向こうに消えるのを確認すると、珊瑚は振り返って倒されたポストを見た。ふぅん、と手を腰に当てて表情を引き締める。
「年季物なんだから、こんな扱いしちゃ可哀想でしょ? ね、蓬麟ちゃん」
 窘めるような珊瑚の口調を省みず、蓬麟は隅にうずくまったまま
「……可哀想? 何が」
 とだけ言った。取り付く島もないといったところだった。珊瑚は、うーん、と困ったように唸ると、腰を落とし蓬麟に視線を合わせて宥めるように言う。
「ここの神様が。折角久しぶりに話し相手ができたのに」
「それは」
 蓬麟は顔を上げ、獣の威嚇のような険しい表情を珊瑚とポストに向けた。
「……それは、ただの、ポスト」
 珊瑚はふと口を閉ざす。彼女は蓬麟の顔に浮かんだ表情の震えに気付いたのだった。
 蓬麟は心の底から怯えていた。それは誰もが子どもの頃に持つ、例えば暗闇や幽霊、怪談のように、実体のないもの、理解できないものに対する恐れと本質的には同じ種類の感情なのだが、蓬麟は積極的にそういったものを排除しようという傾向が強かったのだ。
 どうしたものか、と珊瑚は蓬麟とポストを交互に見る。
「……そうねー……。そういう人も結構いるし、私も気持ちはわからなくはないけど……そういう存在と通じる身としては、このままスルーってわけにもいかないし……」
 仕方ない、と呟くと、珊瑚は蓬麟の手首を握った。咄嗟に逃れようとする蓬麟を無理矢理引き止め、自分のほうへ向き直らせるとその肩を両手で掴む。
「嫌かもしれないけどさ、ここは私の顔を立てると思って、一言でもいいから謝ってくれないかな」
「……誰に」
 蓬麟は胡散臭そうな目を珊瑚に向ける。相変わらず好意的ではなかったが、興奮は少しずつ治まっているようだった。
 珊瑚はくい、と親指で倒れたポストを示す。蓬麟は拒絶の意を表情に表した。
「ん、じゃぁ……そう、ちょっと頭のアレな人に捕まって、そこらにあるゴミに謝るなんていかれたことを強制されてると思ってさ。一言謝るだけで解放してあげるから。ね」
 両手を合わせ、頭を低くして頼み込む。
「……わかったよ、ったく……」
 蓬麟は鬱陶しそうに珊瑚に向かって手を払うと、倒れたポストの前に屈みこむ。小さく舌打ちをし、
「悪かったな」
 と吐き捨てるように謝罪した。ポストからは何の返事も返ってこない。
 はぁぁぁ、と後ろで珊瑚が長い息を吐く。蓬麟が顔だけそちらを振り向くと、珊瑚は肩の力が抜けたような表情を浮かべていた。
「これでよし、と。ごめんね、面倒な事やらせて」
 珊瑚は額の汗を拭いながら言った。
 蓬麟は何も言わずに珊瑚を一睨みすると、出し抜けに足を振り上げて倒れたポストを力任せに蹴りつけた。ポストは微動だにしなかったが籠った音が長い尾を引きながら響き渡る。うわ、と珊瑚が小声で呆れたような声を零した。
 珊瑚が次に何か言う前に、蓬麟は彼女の横をすり抜けて拝殿から出て行った。そのまま一度も立ち止まることなく、鳥居の向こうに走り去っていく。

 多少ペースを乱されてしまったが、もう変に合わせるのはやめよう。俺は珊瑚を避け、先ほどから彼女が通信に使っていたコインロッカーの扉を開けた。今、中には何も入っていない。
「大体守護霊がなんでこんな面倒なことすんだよ。見えてるなら直接声も聞けないのか?」
「それは……何か、色々ね、事情があるんでしょ」
 珊瑚は他人事のように言う。
「事情ってあんた」
「私と同じ言葉がしゃべれないのよ。だってギリシャの人なんだもん」
 ついに人とまで言ったか。グダグダにも程があるぞ。
「つーか日本語で手紙来てるじゃねぇか。日本語は話せないけど書けるってか、随分面倒な事情持った守護霊もいたもんだな」
 俺がそう言った時、かたん、とロッカーの中から音がした。何かの拍子に扉が鳴ったのかと思って何気なくロッカーの中を覗くと、
「あれ」
 ……その中に、一枚のルーズリーフが入っていた。
 そっと手を入れ、それを取り出す。そこには
『悪かったな』
 と書かれていた。
 俺の手からルーズリーフを取り上げ、珊瑚が読み上げる。確かにロッカーの中には何もなかったのに、こいつ今どうやって……。まぁ、手品のトリックなんて俺はほとんど知らないから、考えるだけ無駄なのかもしれないが。
「これはまずいんじゃない? 板東君」
「そうだよ板東、怒らせちゃったじゃん」
 珊瑚に同調する阿柄は素直に文面を受け取って焦っている。俺も変に意地を張らないでこいつみたいに状況を楽しめばよかったのか。もうよくわからん。
「……まずいって、じゃぁどうすんだよ」
「とりあえず謝っておいたほうがいいんじゃないかな。いいと思うよ」
 珊瑚は愛想のいい笑顔を浮かべてそう言った。
 はぁ。もういい、こっちが折れよう。俺は鞄から再び筆箱とルーズリーフを取り出す。
「なぁ、これ書いたらもう帰っていいか」
「別に私、引きとめてないんだけど。ここまで」
 そうだっけか。
「あ、でもお金は払っていってね」
「いくら?」
「初回だから千円でいいよ」
「いやいやいや高すぎだろ。これだけのことに」
 しかも初回だからって、次回からはいくらになるんだよ。二度と来ないだろうから知ってどうということはないが。
「もーっ、男のくせにじとじとしてるね板東君は」
「そんなこと言われたの初めてだよ。じとじとって何だよ」
 また険悪になってきた空気を和ませるように、阿柄がまぁまぁと二人の間に割って入る。
「今日は俺が来てって言ったんだし、俺が持つよ。千円くらいなら、ね、面白いもの見れたし、ためになったから」
「……そうか?」
 少なくともためになってはいないだろ。
 阿柄は突然、そういえば、と話を切り替えた。
「サザエさんって今日はやらないよね」
「それ今言わなきゃいけないことか?」
「え、でもさっき」
 不毛な会話に発展しそうだったから俺は阿柄の言葉を遮って謝罪文を考える振りをした。
 まぁこれで謎の謝罪文を書いたらもう帰っていいということになったのだから喜ぶべきだろう。元々オカルトはスルー対象だったがこれからは積極的に近寄らないようにすべきだ。その賢い決意が得られただけでもためになっているのかもしれない。逆説的にだが。
 俺はルーズリーフをコインロッカーの扉に押しつけながらこう返事を書いた。
『無礼をお許しください。私はあなたのことをよく知りませんでした。これからは皆さんのことをよく勉強し、失礼のないように気をつけます』

 蓬麟が蹴りつけていったポストを珊瑚は撫でさする。
「もう、ひどいよね、ちょっと」
 一人になった社の中で、珊瑚は小声で呟いた。ポストの投函口を掴んで引き起こそうとするが、床がぎしぎしと軋むだけでポストはびくともしない。珊瑚は、もう、と口を尖らせると、倒された格子扉から顔を出した。
「ちょっと、なっちー。もう私しかいないから出てきていいよ、ってか手伝って。これ起こさなきゃ」
 彼女がそう呼びかけると、しばらくして社の裏手から一人の若い男が現れた。年は珊瑚とさほど変わりなく、顔立ちの良い好青年といった風貌をしていた。が、今はその顔をしかめてしきりに腕や足を掻いている。
 それを見て珊瑚は眉を寄せた。
「あれ? どうかした?」
「どうかって、……虫に刺されまくったみたいなんだ。ったく、そりゃそうだよな……汗まみれでこんなところにじっとしてたら」
 男は肩を竦めて見せる。珊瑚はそんな男ににやにやと悪戯っぽい笑みを向けた。
「あれー、もしかしてお外でするのは初めてだった?」
 男はそれを軽く受け流し、
「はいはい、で、何だ? 手伝って欲しいって。……あ、そのポスト起こせばいいのか?」
 と言いながら社を覗き込んだ。
「そうそう。珍しいでしょ、ポストがご神体なんて。これでも神様まだいるんだよね、ここ」
 珊瑚はそう言いながら男の手を取って社へ引き上げる。男はポストに近づき、ふむ、と腰に手を当ててそれを見下ろす。
「考えてみたら罰当たりだよな、神の家のすぐ外でするなんて」
 珊瑚はくすくすと軽やかに笑い、ポストに向かって
「ごめんね」
 と短く謝罪した。

 珊瑚も阿柄も去り、管制室は火が消えたように静かになった。その静寂の中で蓬麟は先ほど奇妙な振る舞いを見せたメールボックスを検査していた。しかし、通信状態の確認やウイルスのチェックを行ってもシステムからは何ら以上は検出されない。
 蓬麟はシステムが正常に動作していることを示す画面を閉じ、通常の作業画面を開いた。膨大な量のメールボックスの一覧のあちことで通信があることを示すアイコンが明滅している。回線は正常にその役割を果たしていた。蓬麟はそれを確認すると、椅子の背もたれに体重を預け、腕を上げずに軽く伸びをした。
 そのときだった。突然メールの受信を告げる音が立て続けに鳴り響き、モニターにメールのアイコンが表示された。それらは、先ほどまで珊瑚たちが“宇宙人”との通信に使っていたメールボックスあてに届いていた。
 蓬麟は舌打ちし、素早くコンソールを操作してメールを開く。
 そのメールには、『無礼をお許しください。私はあなたのことをよく知りませんでした。これからは皆さんのことをよく勉強し、失礼のないように気をつけます。ごめんね』と、これまでで一番長い文章が記されていた。
 その文章を目で追ううちに蓬麟の動きが固まった。タッチパネルに触れるその指が小刻みに震えだし、モニター上のポインタが震動する。彼女の動揺は、先ほど珊瑚たちが戯れるようにメールのやり取りをしていたときには見られなかった、彼女自身実体の掴めない曖昧なものだった。
 何かの感情を振り払うように彼女は大きく頭を振り、メールを閉じる。すぐさまそれをメールボックス内から削除すした。空になったメールボックスを確認し、蓬麟は俯いた。その膝に彼女の顎から汗が滴り落ちる。
 だんっ、と大きな音が狭い情報管制室に鳴り響いた。それは蓬麟が拳で机を殴った音だった。荒い息を繰り返しながら、彼女はじっとりとした目をモニターのメールボックスに向ける。

 薄ぼんやりとしたダウンライトの灯りだけに照らされたその個室は、本来ある程度の地位のある基地の職員一人に与えられる寝室であり自室だった。そこにはテーブルや冷蔵庫、それに寝台など、一流とはいえないがそこそこサービスの整ったホテル程度の家具が備えられている。その部屋には今、二人の男女がいた。男はクローゼットを開け、鏡を見ながら服を着替えている。一方の女──神を解いた珊瑚は、裸で寝台に寝そべりシーツに包まっていた。
「眠いー。仕事行きたくないよー」
 珊瑚はそう零しながら子どものように寝台の上でじたばたと寝返りを繰り返した。シーツが彼女の体に巻きつき、解け、時折その白い素肌が露になる。
「ねぇなっちー。私の仕事代わりにやってきてくれない?」
 珊瑚は寝台の上でうつぶせになると、男にそう呼びかけた。なっちーと呼ばれた男は手を止めずに、はぁ? と聞き返す。
「知ってるだろ、今ちょっと忙しいんだ。ってか、珊瑚はそんなに忙しくないはずだろ? 今時分」
 えぇー、と珊瑚は不平の声を上げる。
「それはちょっと、あれですよ。人の苦労を知らなさすぎ。ほら私、本職以外にも色々やってるじゃない、教祖的なあれ」
「教祖、ねぇ。驚いたよ、自覚があったとはな」
「失礼な」
 珊瑚はぶすっとした声でそう言い、大きい枕に顔を埋める。
「教祖っていってもお金目当てにやってる変な宗教じゃないんだからいいんだよ。……お金は多少、ちょっとだけ寄付してもらってるけど……でもほら、故郷を離れて地球も離れて、こーんな辺鄙なところでせっせと働いて……あくせく働いてる、みんなにね。そう、夢を与える大事な仕事なんだから」
 珊瑚の声は少しずつ眠気を帯び始めていた。枕に顔を押し付けたままその動きが止まり、しばらくしてがばっと顔を上げ、大きく息を吸い込む。
「そういえば。珊瑚」
 男はネクタイを締め終わると、ふと思い出したように珊瑚のほうに向き直る。
「何?」
「……お前確か、端末じゃなくて情報管制室のメールシステム直接使ってたよな」
「あぁ、うん。それが?」
 男は渋い顔をして腕を組んだ。
「最近どうも情報管制室のシステムの動作が重いんだ。この前俺の端末からメールシステムにアクセスしてたら変なところで落ちてさ。……何か新しいプログラムでも組み込んだのかとも思ったけど、見た感じあんまり変わりもないし」
 珊瑚は怪訝そうに聞き返す。
「……新しいプログラム?」
「板東にも聞いてみたんだけど、知らないって言われて。もしまたあそこで変なこと企んでるんだったら釘を刺しておくぞ。別に珊瑚がどんな活動をしていても俺は口を出さないが、他の人の迷惑になるようなことは……」
「あーはいはい。わかったわかった。とりあえず私じゃないから安心して」
 男の説教じみた言葉を手で遮り、珊瑚はシーツを肩にかけて寝台から上体を起こした。手櫛で髪を簡単に整え、寝台の上で肘をつく。シーツに口元を押し付け、同室にいる男にも届かないような小声で呟く。
「……蓬麟かなぁ……」

 深夜、とっていも月面上で定められた時間だが、通常なら自動制御になっているはずの情報管制室に蓬麟の姿があった。彼女はプラスチックのカップに入ったコーヒーを傍らに置き、一人で黙々とキーを打ち込んでいた。画面には非常に入り組んだ英数字の羅列が表示されている。蓬麟のキータイプは些か乱暴で、彼女がキーを叩くたびにその英数字は増減を繰り返していた。
 手を休め、コーヒーを口に含みながら片手でタッチパネルを操作する。プログラムの実行を示す画面が表示され、ブザー音と共にシステムから警告が発される。彼女はその警告を無視し、プログラムの実行を続けさせた。彼女の目の下には薄らと隈が浮かんでいたが眼光の鋭さは失っておらず、彼女はプログラムの実行が進むのをじっと睨みつけていた。そっとコーヒーを机の上に戻す。
 突然背後で扉が電子音を発し、直後に空気の抜ける音と共に扉が開かれた。蓬麟はがたんと全身を大きく振るわせる。その手元でコーヒーが机の上に零れ落ちた。コーヒーを置きなおすと、蓬麟は椅子を回して背後を振り向く。
 部屋に駆け込んできたのは珊瑚だった。彼女は荒い息を抑えながら、情報管制室のモニターを見て言う。
「え、ちょ、何これ……。は……はぁ……あの、左さん?」
 珊瑚は壁に手をついて肩で息をしながら服装の乱れを直す。横目でモニターから蓬麟に視線を移し、彼女と目が合った。
 蓬麟は冷ややかな視線を珊瑚に送る。ようやく落ち着いてきた珊瑚は前髪を掻き上げると、
「あ……の、これ、何ですか? さっき、あの外で、端末で、メールが使えなくなってたから来てみたんですけど、もしかして」
 と不安そうに言った。
 蓬麟は椅子を戻し、画面を見て低い声で答える。
「……メールサーバーは一時的に落としているだけです。すぐに復旧しますので」
「あ、そうなんだ……。で、でもなんでこんな、夜遅くに?」
 蓬麟が答える前にシステムが再び警告を発した。それはアクセス権を越えたアクセスに警告を促すものだったが、蓬麟はその警告を強制的に閉じ、プログラムを少し書き換えてまた起動する。
「……あなたの……」
 蓬麟は固い声色で言った。
「え?」
「あなたのメールボックスを、ここから消去しています。通信先も、この基地からは永久にアクセスできないようにシステムを書き換えています。根幹から改変する大掛かりなアップデートなので、その間は一時的にサーバーを落とさざるを得ません」
 蓬麟の宣告に、珊瑚は暫しの間呆気に取られて固まっていた。
「え、えっと……」
 最早彼女のほうを見ようとしない蓬麟に、珊瑚はかける言葉を探しながら慎重に話す。
「あの、……とっ、りあえず、ごめんなさい。ちょっと、あなたの負担とか、考えなかったかなー、私。調子に乗ってたって言うか、その……」
 珊瑚の言葉が途切れると、管制室の中には奇妙に重苦しい沈黙が訪れる。それを払拭するように珊瑚は言葉を繋ぐ。
「や、だから、悪いとは思ってます、反省するから、でも通信路を断つっていうのは、できれば……許してもらえませんか? これからはできるだけ、迷惑かけないように……」
「迷惑……?」
 手元に視線を落としたまま、蓬麟はゆっくりと聞き返した。
「迷惑がどうとか、そういう問題じゃない」
「え……それは……」
 珊瑚はうろたえる。
 再びコーヒーを啜り、一息置いてから蓬麟は続ける。
「気持ちが悪い、どうしようもなく……宇宙人? そんなものはいません。いないものを、存在しないものを示唆するような……事象、証拠を引き出して持ち上げて崇めるなんて、どうかしている……。空の上に神がいなかったことはガガーリンが証言してくれた。だから私はここへ……月へ来たのです。人によって捏造された、不確かで気味が悪いもの……そういうものから離れたくて」
 長い独白を聞き、珊瑚は押し黙った。蓬麟から数歩距離を置いて壁際に立ち、彼女の後姿を見つめる。蓬麟は言葉を切り、ポケットからハンカチを取り出して零れたコーヒーを拭った。
 システムがブザー音を発し、処理が終了したという表示が出た。蓬麟は黙ってコンソールを操作し、画面を閉じる。
「あ、もう終わっちゃいましたか」
 珊瑚の問いかけに蓬麟は小さく頷いた。
 はぁ、と深いため息をついて珊瑚は壁にもたれかかる。先ほどまでの緊張や焦りは幾分か薄らいでいるようだった。その代わり今の彼女の表情に浮かんでいるのは少しの諦観と心残りだった。
「……オカルトがお嫌いですか。オカルトというか」
 ぼんやりと問いかけた。蓬麟は返事をしなかったが、珊瑚は話を続ける。
「確かに……そういう方もいますよね。そう……忘れてました、ごめんなさい、少し。でもこういう話、いや……宇宙人は確かにちょっとふざけてましたけど、夢があるとは思いませんか。大げさに言えばロマンです、ロマン。そこまで言わなくても、まだまだ知らないことがある、とか、科学では到達できない地点が、解明できない何かがあるっていうことって……面白いじゃないですか」
「……さぁ」
 蓬麟は素っ気無く返した。珊瑚はその返事に苦笑する。
「そう、ですか」
 珊瑚は徐に深呼吸し、両腕を前へ突き出して伸びをした。
「あなたは……」
 不意に蓬麟が言葉を紡いだ。珊瑚は伸びを止め、はい、と蓬麟の話を受ける。
「あなたは何者なんですか」
「何者って……」
 珊瑚は困ったようにうーんと唸って頬を掻く。
 蓬麟はそんな彼女を振り返って尋ねる。
「……こんなところまで来て、奇怪な噂を広めて小金を稼いで。何がしたいのか正直理解できない。何のために……」
「今言ったじゃないですか」
 翳りのない晴れやかな笑みを浮かべて珊瑚は応える。
「ロマンですよ。夢です、そういうものがあったほうが楽しいと思ったんですよ。こういう場所だからこそね。といっても宇宙人は……」
 言いかけた言葉を飲み込み、蓬麟の視界から逃れるようにして壁伝いに歩き始める。蓬麟の目が切れたところで、彼女は声に出さずに、本当にいるんですけど、と呟いた。
「……まるで子どもだ。悪戯を仕掛ける……そんなことのために色々手を打って」
 呆れたように言う蓬麟に対し、珊瑚はくすりと微笑んで言う。
「それが趣味ですから。……それでも今回は本当にすみませんでした。ちょっと度が過ぎました」
 珊瑚は頭を下げるが、蓬麟は何も応えずに手元のコンソールを操作し、システムを自動制御に切り替えた。空になったプラスチックのコーヒーカップをゴミ箱に放り込み、椅子から立ち上がって手すりにかけてあった上着を手に取る。
 そのまま何も省みることなく珊瑚の顔を見ることもなく出口である扉へ向かい、
「……おやすみなさい」
「あ、うん」
 珊瑚と擦れ違いざまに挨拶を交わした。
 足早に横を通り過ぎていく蓬麟に、珊瑚はやや憮然とした目を向ける。一人になった管制室の中で、彼女はぼそっと
「面倒な人ねぇ」
 と呟いた。

 俺はコインロッカーの前に置いてあった荷物を手に取ると、珊瑚と何やら会話を交わしている阿柄に声をかける。
「おい阿柄。俺もう行くぞ」
「あ、待って」
 阿柄は慌てて財布の中から千円を取り出し、珊瑚はそれをちゃっかりと受け取っていた。本当に払ってやがる。
 満面の笑顔を浮かべる珊瑚に阿柄は丁寧に礼をする。
「ありがとうございました」
「うん、また何かあったらいつでも来て。しばらくここにいるから」
「はい!」
 阿柄も物好きな奴だな。何がそんなに気に入ったのだろうか。細かいことを気にしないって点では意外と大物なのかもしれない。
 珊瑚は俺のほうにも手を振った。
「板東君もまたねー。ポセイドンさんによろしくー」
「ゼウスじゃなかったのか」
「そうだっけ?」
 珊瑚は惚けてみせる。今更だがこいつは確信犯だ。
 俺は薄暗いコインロッカー室に背を向け、家路につく人々の流れに紛れて歩き出した。今日はやけに疲れた。……帰ってゲームでもするか。



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