遠くで風が吹いている。水が跳ねる音が絶え間なく聞こえており、微かに湿気を含んだ空気は冷たい。
 凹凸の少ない平たい地面には疎らに草木が生えている。その小さな木立の土の上に、一人の女が眠っていた。眉の細い凛々しい顔立ちをしており、長い髪は首の後ろで一本に束ねている。仰向けになって瞳を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
 木の葉を散らすほどの風はないが、女にまだらな影を落とす木漏れ日はゆっくりと揺らいでいる。女の瞼の上を、光の斑点が行き来した。
「……ん……っ……」
 女の寝息が不意に途絶え、その唇の間から小さな声が漏れた。ゆっくりと女は瞼を開き、空を覆い隠す梢の枝葉をぼんやりと眺めた。
 しばらくの間女はとろんとした目で木立を見上げていたが、やがてそっと寝返りを打つと、片手をついて上体を起こした。背の下にあった長い髪から地面の土がぱらぱらと落ちる。手で軽く裾や袖を払い、座ったまま辺りを見回す。
 そこは閉ざされた巨大な箱のような形の空間だった。半分は高い天井に覆われており、それによってその空間は日のあたる部分と陰の部分に分けられていた。日の当たる部分は簡素な庭園のような構造をしており、そこには手入れされているようには見えないささやかな緑と水音を立てて流れる水路、そして古びた石の円柱などが点在している。屋根の下の陰の部分は上も下も石材で構成されており、何もない冷たい空間が広がっている。
 女はふと何かに気づき、首を伸ばして目を凝らす。屋根の下の石床に一人、庭園に二本並ぶ石柱の間にもう一人、横になって眠る人影が見える。

 屋根で日光が遮られ陰になっている、冷たい石の床の上に一人の男が眠っていた。長身痩躯で髪の色は白く、薄手の外套を着ている。
 遠くで鳥が羽ばたき、その音が天井と壁で反響して遠い唸りのように男の耳に届いた。その音に男ははっと目を覚まして体を起こした。床に座り込んだ状態で、彼は少しの間ぽかんとした顔をしていた。そのうち彼は身の回りを観察し出す。
 と、男は庭園の木立の中に、彼と同じように座り込んでじっとしている女の視線に気づいた。女は男と目が合うとさりげなく目を逸らした。彼女は石柱のほうへ視線を送る。男はそのとき初めて、石柱の近くにもう一人、紅い髪の少女が眠っているのに気づいた。

 少女は視線を感じてそっと目を開けた。覚醒と同時に気の抜けた声が口から零れる。
「はぁ……あ、あれ……?」
 緩慢な動きで首だけ寝返りを打ち、目の前にあった草むらに顔を突っ込んだ。そこでようやくはっきりと目が覚めたらしく、彼女は飛び起きるようにして体を起こし、同時に離れたところから自分を見つめる二つの視線に気がついた。二人の視線を受けて少女の動きがはたと止まる。
 少女は周りを確認した。石材で四角く区切られた土に根付く草木は手入れされているようには見えない。木立の下には倒れた枯れ木も見られる。数羽の鳥が羽ばたいて木々を揺らした。
 改めて自分以外の二人に向き直り、少女は一呼吸置いてから大きな声で話しかける。
「あ……あの……おはようございます……?」
 自然と言葉の端がすぼんだ。男と女からは何も返ってこない。少女はあたふたと手を動かしながら言葉を探す。
「あれだ、えーと、その……ここはあのー……どこなんだ一体」
 発声ははっきりとしていてよく通る声なのだが、変にたどたどしい口調だった。自分でも思ったように言葉が出てこないのか、少女は、む、と眉を顰めて口を噤む。
 女が首を振って少女に答える。
「……私……分からない。……何も頭に浮かんでこなくて」
 彼女は同じ質問を回すように男に視線を向けた。男は、え、と呟くと、
「俺に聞かれても知らねぇよ。ここがどことか……それ以前に俺は誰なんだ」
 と言って、頭を掻きながら視線を逸らした。
「そ、そうか……。私と同じだな……」
 少女が呟き、それきりまた皆黙り込む。
 そのとき、女はふと何かに気づいて後ろを振り返った。木立の後ろの壁には簡単な階段があり、その上は人が通れるような手すりのない通路になっていた。
「ん。どうかしたか、おい。お、おーい」
 不安そうに声をかけた少女を、女は静かにと制した。
 通路の上に四人目の人影が立っていた。ゆっくりとした足取りで階段を降りてくる。白い裸足が立てる足音は小さく、どことなく存在感が薄い。
 紅い髪の少女が恐る恐るといった様子で声をかける。
「あっ、えっ……おいお前……っ……」
 少女のほうを向いたその人影と目が合い、彼女の言葉はそこで途切れた。
 そこにいるのは、彼女よりも幼く見える小柄な少女だった。袖のない白い服を着ており、両肩と首を黒い布で覆っている。少しはねた金髪は肩に触れる程度の長さで、その前髪の合間から覗く青い瞳は大きくとても目立つ。
 その顔に表情はなく、その透き通るような両目で彼女は話しかけてきた少女のほうをじっと見つめていた。


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