○ ○ ○ ○

 階段を上り切った男は、振り返って庭園を見下ろした。庭園は広いが男がいる位置からほぼすべての場所が見渡せる。
 男は一人で白い服の少女が現れた階段の上の辺りを簡単に調べた。階段の上の通路は壁に沿って続いていたが、片方は壁、もう片方は滝に当たり男は仕方なく引き返す。その後も庭園や陰の下のすべての壁を一通り見て回ったが、大抵のところは壁に塞がれていてそれ以上別の場所へ行く道はないようだった。
「いやー。どうしたもんかねーまったく」
 ぼそっと呟き、男は石材に腰掛けて頬杖をついた。見ると、庭園の陽の当たる草の上で二人の少女が話をしている。
「えーと……何か知ってるか。例えば……あれだ。そう……えっと……」
 喋っているのは最初に眠っていた髪の紅いほうだけで、白い服を着た幼い少女は一度も言葉を口にしていない。
 質問の言葉が上手く纏まらない少女を見かねた女が腰を上げた。白い服の少女に近づくと、彼女の前に屈みこんで目線を合わせる。
「ねぇ、聞いていい? もし知っているなら教えて欲しいことがあるの」
 白い少女は頷いた。女も頷き返し、
「ええ。まず、ここはどこなの?」
 と柔らかい口調で尋ねた。だが白い少女は返答は勿論、頷くことも首を振ることもせず顔を背けた。女は眉を寄せる。
「じゃぁ……何か、私は誰? というより……何なの?」
 その質問に対して、少女はすっと片手を上げて女の背後を指差した。女が、え? と後ろを振り返ると、少女は半歩女に近づき、女の髪を束ねている留め具を指で指し示した。
「……何? ごめん、見てくれない?」
「え。ああ、あ、うん」
 女に頼まれた少女は、彼女の髪を束ねているリング状の留め具に目を凝らした。軽い金属で出来たそのリングはよく見ると淡い光を放っている。
「えーあの……その、輪っかだ、けど。何か光ってる」
 紅い髪の少女は見たままを伝えた。
「輪?」
 女は立ち上がり、自分の手でうなじの辺りにあるリングに触れた。
 白い少女は次に少女の前に膝をついて彼女の足首を指差した。そこにも女の留め具と同じような形をした金属のリングがはめ込まれている。少女は今まで気づかなかったらしく、草地に腰を下ろして自分のリングを見た。
「あっ……あ、何だこれ……取れない、か。取れないぞ、おい」
「……どういうこと?」
 女は紅い髪の少女のリングを手で触れながら調べた。発光していることを除いては普通の金属でできた、意匠も何もないただの輪だった。
 顔を上げ、白い少女に改めて問う。
「これが私たち、ってこと?」
 白い少女は無言でこくりと頷く。しかし喋らない彼女が何を言いたいのか二人には伝わらず、女はため息をついて腕を組み、紅い髪の少女は足首のリングを物珍しそうにいじり始めた。
 その様子を階段の上から遠巻きに見ていた男は、自分の体を改めて確認し、左の二の腕にやはり金属製の光るリングがはまっていることに気づいた。リングは腕の太さにぴったりと合っており、抜けないようになっている。
「……何だこりゃ」
 指で突付いてみるが当然何も反応はない。男は渋い顔をすると、階段を下りて再び庭園の細部を調べに行った。
「なるほど、な。私たちは輪っか……ということだな。よくわからないぞ……。これが私の、私……?」
 紅い髪の少女は重ねて白い少女を問いただそうとするが、首を傾げられるか、全く反応が返ってこないかのどちらかで一向に新しい事実は浮かび上がってこなかった。
 そういえば、と少女は数歩後退ると、改めて白い少女のつま先から頭までを見回した。彼女の体にはどこにもリングが見当たらない。
「君は、あ……君は輪っかがないんだな」
「もういいじゃない、一人くらい持ってなくたって」
 女はそう言って二人に背を向け、木立のほうへ歩き出す。
「あ、ちょっと……」
 紅い髪の少女は呼び止めようとしたが、女はすたすたと彼女から離れていってしまった。紅い髪の少女は少し寂しそうな顔になり、それから喋らない白い少女のほうを見た。仕方なく彼女に何を聞けばいいかまた考え始め、結局言葉を上手く纏められず一人唸る。

 時間が経つにつれ空の色は緩やかに暗くなり、やがて庭園に夜が訪れた。星と月の光を受ける庭園では石柱の輪郭が薄ぼんやりと浮かび上がっていたが、木立の中や屋根の下の部分などはもう殆ど何も見えない。その陰の下で、三人がそれぞれ身につけているリングが放つ仄かな明かりだけが点々と浮かんでいる。
 男はまだ庭園を調べて回っていた。もうそれほど熱心に見て回ることはせず、ただ繰り返し繰り返し庭園の構造を頭に入れているだけといった様子だった。
 彼が細い滝の近くで休んでいると、石柱の方から青白い光がひょこひょこと動いて近づいてきた。
「……んー。何だよ」
 そっけない言葉で迎えられた少女は、ああとかううとか言葉を濁した後で、
「いや、その……そう、何か、何か分かった……か?」
 と遠慮がちに尋ねた。男はやれやれと首を振る。
「別に。まいったねーまったく」
「あれだけ見てそこら、回って、あの、何も収穫なかったのか?」
 少女の物言いに男は、む、と顔をしかめる。
「そんなこと言ってもよー。……まぁ強いて言うならあそことか、よく見たら扉っぽい形してるなぁって思ったくらいだな」
 男は石柱群の近くにある壁の一部を示した。少女は近づいていって自分の足のリングで壁を照らし出す。壁にはアーチ状の凹凸があり、確かに石扉で封じられた通用門のような形をしている。
「こ、これか?」
「あー。鍵穴あるだろ」
「え? どこに? どこだよ」
 男は石扉の脇にある小さな菱形の穴を指し示した。それは丁度腰の高さにあり、男の言うように鍵穴のようにも見える。
「ほ、本当だ! 何だ、で鍵は?」
「あるわけねーだろ。んなもんあったら開けてるよ普通に」
「何だ、そうなのか……」
 少女は落胆して肩を落とした。
 そこで会話が途切れ、男はもういいだろうというふうに陰のほうへと歩いていってしまった。陰の暗闇へと男のリングの光が消えていく。少女は思わず追いかけようとしたが、数歩歩いただけで足が止まった。立ち止まったまましばらくおろおろしていたが、壁の近くに女のリングの光を見つけるとそっと彼女に近づいた。
 女はもう眠っていた。彼女に身を寄せるように、しかし直接触れない程度に間を置いて少女は座り込む。女は起きない。
「そういえば、そういえばあの子がいないぞ……」
 ふと気づいたように小声で呟いた。
 隣から女の規則正しい寝息が聞こえてくる。少女はゆっくりと地面に寝そべった。下は柔らかな草地だった。草が顔に触れないよう仰向けになり、目を閉じる。


 まだ陽が昇らないうちに紅い髪の少女は目覚めた。ぼうっとする頭を振って立ち上がる。寝ぼけ眼を擦りながら隣を見ると、昨晩そこに寝ていたはずの女の姿がなかった。
「あ、おい……? あれ……?」
 庭園はまだ薄暗く、場所によっては足元も覚束ない。少女は壁に沿って歩きながら他の者の姿を探した。男は屋根の下の、最初に彼が目覚めた場所の近くで横になって眠っていた。少女は彼を起こさないように足音を忍ばせて横を通り過ぎる。
 女は水路に架かる小さな石橋の近くにいた。半分に折れた石柱にもたれ掛かりじっとしている。少女が近づくと彼女は、おはよう、と小さな声で挨拶をした。
「ああ、……おはよう。……朝、早いな……あの……」
 どこか緊張している様子の少女は、堅い声で挨拶を返した。女はもう少女のほうを見ていない。
「いっ、今何してるんだ? 何してた?」
「何も。……ねぇ、あの子、昨日の夜どこにいたかわかる?」
 女は、水路の縁に座って木々を見上げている白い服の少女を遠目に眺めながら言った。
「あ……あのあれ、喋れない子……」
「そう。昨日は気がついたらいなくなっていた……。今朝起きてみたらあそこにいて、ずっとああしてる」
 白い服の少女は昨日と同じ無表情のままその場所を動かない。女はしばらく彼女をその場から観察していたが、彼女は二人がいる方を一瞥することもなかった。
 空は一層明るみを増していき、どこかで鳥が囀り始めた。紅い髪の少女は手持ち無沙汰に明ける空を見上げていたが、ふと何かを思い立って女の裾を引いた。
「なぁ」
「何?」
「……その、ちょっと上に行ってみないか。ほらあれだ、あの、日の出でも見に」
 少女は壁のほうを指差している。空の明るさの度合いからそちらの方角から陽が昇るのは分かるが、高い壁に遮られてその向こうの景色は見えない。壁の近くの階段を上れば外の景色が見られるかもしれない、と少女はたどたどしく説明した。女は始め遠慮の表情を浮かべていたが、少女が気落ちするのを見て仕方ないといった風に
「……そうね。少し行ってみましょうか」
 とため息混じりに承諾した。紅い髪の少女の顔がぱっと明るくなる。
 二人のそんなやりとりを、白い服の少女が離れたところからじっと見つめていた。二人が階段のほうへ向かうと彼女はその後に続いて歩き出した。二人に追いつこうとはせず、同じ歩調でついていく。
「んっ……。あの、あの子ついてきてるぞ。ほら」
 彼女に気づいた紅い髪の少女が振り返って立ち止まる。離れた位置で白い少女もまた立ち止まった。
「……放っておきなさい」
 女はそれだけ言ってすたすたと先へ行ってしまう。紅い髪の少女は戸惑いの表情を浮かべながらも早足で女の後を追った。
 階段はそれほど長くはなく、最初の踊り場で途切れたような形をしている。その踊り場の上に立って二人は東の空を眺めてみたが、見える空が少し広くなっただけで地平までを視界に入れることはできなかった。空の端に近い雲が日の光を受けて眩しく輝いている。
 跳んだり跳ねたりして壁の向こうを覗こうとする紅い髪の少女を尻目に、女は踊り場の構造を改めて確認した。踊り場はもう少し奥まで続いているようだった。白い服の少女が昨日現れたのはこの踊り場だった。彼女はその先へ行こうとして、足元に深い水溜りが出来ていることに気づいた。見ると、滝というほどの規模ではないが水が横の壁を伝って上から絶え間なく流れ落ちており、それが石材の窪みに水を張っているのだった。
 そのとき、階段の下で立ち止まり二人の様子を見上げていた白い服の少女が何かに反応して突然動き出した。階段をとてとてと駆け上がって少女の前を通り過ぎ、水溜りを超えて奥へと進もうとしている女の腕を掴んだ。
「っ……何よ……!」
 咄嗟に少女の腕を振り払い、女は彼女から距離をとる。それでも尚少女は無言のまま女に近づこうとした。思わず後退った女は水溜りの中へと片足を踏み入れる。
 途端、彼女の足に奇妙な変化が起こった。
「なっ……ああっ」
 肌の水に触れた部分がぐにゃりと変質し、瞬く間に水の中に溶けていく。土で固められた塊が水に浸されて泥に戻るように、彼女の片足は浅い水溜まりの水面に吸い込まれていく。体勢を崩して水の中へ倒れそうになった彼女は咄嗟に壁の突起を掴み、身を捩って水溜まりの外へと自分の体を投げ出した。
 床に倒れこむ彼女に、異変を察した紅い髪の少女が駆け寄る。
「だっ、おい大丈夫か!」
「何なの……? これ……」
 彼女の左足の足首から先、水に触れた部分が溶けてなくなっていた。彼女自身は痛みを感じていないらしく、呆気に取られた様子で自分の足を見つめていた。
「何だこれ、と……溶けたのか!? お前の足、う……んっ? どっ、どうしようぅ、ぅわ」
 紅い髪の少女が慌てふためいていると、白い少女が彼女を除けて女に近づき手を差し伸べた。動揺する女に、立てと言葉をかけることも無く何かを訴えるでもなく、ただ無表情に手を差し伸べている。女は少女の大きな瞳を覗き込んで固まっていたが、
「……何……?」
 と、恐る恐るその手を取った。
 そのまま立ち上がろうとするも上手くいかず、白い少女に寄りかかってしまう。小柄な少女は外見通り非力らしく、慌てて紅い髪の少女が女の体を支えなければ二人とも倒れていたところだった。

 庭園の中心近く、水路に囲まれた土の上に女は座っている。白い服の少女は庭園の乾いた土を盛って小さな山を作り、女の左足をその中に埋めた。湿っていて冷たい土の中に少女は白い両腕を突っ込み、中で何かもぞもぞと手を動かしている。どうやら土をこねているような様子だった。
「……何をしてるの?」
 相変わらず痛みを感じる様子のない女は、しかし気味の悪そうな視線を少女に向けている。
 二人から少し離れたところで、紅い髪の少女や騒ぎを聞いて起きてきた男が様子を見守っている。眠気の抜け切っていない目をしてぼんやりと立っている男に対し、隣の紅い髪の少女はそわそわとしており落ち着きがない。時々何か声をかけようと口を開いては、あの、ええと、と意味をなさない言葉を口にしている。
 やがて、白い服の少女は手を止めた。足の上の土を取り除いていく。
「あら……? 感覚が……」
 女は眉を寄せた。
「どっ、どうしたんだおいっ」
 紅い髪の少女は女の肩越しに彼女の足元を覗き込んだ。盛り土の下から現れた彼女の左足を見て、あっと声を上げる。水に溶けて崩れたはずの女の左足が元通りになっていた。白服の少女は無言で彼女の足に残った土を手で掃う。復元された自らの足を呆然と見ていた女は、少女の手に足先を撫でられて我に返ったように足を引っ込めた。
「何なの……?」
 女は青い顔をしてじりじりと白い少女から離れた。見た目には何の違和感もない新たな左足を、彼女は恐る恐るさすって感覚を確認する。その後ろで、紅い髪の少女は女の足と白い少女の顔を交互に見、素直に感激している様子だった。
「すっ、凄いな! なんだこれーっ……えぇ? ……魔法か? 魔法みたいだったっていうか、魔法だよな?」
 白い服の少女は首を傾げる。
「それ、どういう意味なんだ……分からないってことか……? まぁ、いいや。……なぁっ、魔法つかいって呼んでいいか?」
 今度は反応が返ってこない。大きな瞳で真っ直ぐに話し相手の目を見つめている。紅い髪の少女はやり辛そうに視線を逸らした。
「……ま、魔法つかい……。駄目か、でもいいよな。何かかっこいいし。……あっ、そういえば、私もそうなのか? 水に触ったら私も溶けるとか」
 白服の少女は頷いた。
「本当か……でも治してくれるんだよな? えっと、その魔法で!」
 二人の会話に興味がないらしい女はゆっくりと立ち上がると、そろりそろりとその場から離れていった。その足取りはしっかりしており、左足は何事もなかったかのように彼女の体を支えている。
「あ……」
 それに気づき、紅い髪の少女はふと熱が冷めたように口を閉ざした。思いつめた顔をした女は、他の者を拒むかのように屋根の下の柱の陰に消えた。
 一緒に彼女を見送っていた男がため息をつく。
「魔法つかいねー。なんつーか、似合わねーと思うけど」
「い、いいじゃないか……」
 男は、ん、と眉を上げて紅い髪の少女の顔を見た。彼女の声から、どことなく元気が失われていた。男は怪訝そうに彼女ともう一人の少女を見ていたが、やがて庭園の構造を調べにまた一人壁のほうへ歩いていった。

 日が中天を過ぎると庭園は途端に暗くなる。庭園からは東の空は見えるがそれ以外の方角は高い壁に阻まれているため日没は確認できない。雲が赤く染まることも無く、庭園から見上げる空は夜が近づくに連れて単調に光を失っていく。
「……ちょっといいか、ここ」
 紅い髪の少女は、石柱群の倒れた柱に背を預けて座っていた魔法つかいに声をかけた。その呼びかけに彼女は振り返って紅い髪の少女の顔を見上げる。どこか引け腰の少女は、じゃ、と断って魔法つかいの向かいに腰を下ろす。
「……うん……」
 少女はしばらくの間じっと黙りこくっていたが、やがてぽつりぽつりと話し出す。
「私……何ていうか、……駄目なのかな……。いけなかったか……」
 屋根の下でうずくまっている女や庭園を歩き回っている男を横目で追いながら、少女は独白めいた言葉を零す。
「朝日見たいとか言って……まぁその、あれだ、結構私なりに思い切って頑張って話しかけてみたんだ。話しかけてみたのに、あんなことになるなんてさ……」
 少女はいつになく暗い顔をしている。魔法つかいはそんな彼女を、感情の抜け落ちた澄んだ両目で見つめている。
「君は平気なのか? 私は……あ、ごめん、何か変だな、私」
 はは、と笑ってみるものの、依然として魔法つかいは動かず、少女の気落ちは少しずつ深くなっていくようだった。
 彼女は膝を抱え込んで俯いた。殆ど独り言と変らない程の小声で呟く。
「……私は嫌だな……一人は、何か……こう……」
 少女は自らの腕を抱きしめ、小さくなった。その肩が微かに震えている。
 魔法つかいはそれまでじっとしていたが、徐に少女の前で立ち上がった。時間を確認するように空を見上げると、少女を置いて無言でその場を去っていった。一人残された少女は膝と膝の間に顔を埋め、深い息をつく。

 夕刻からぱらぱらと小粒の雨が降り出した。紅い髪の少女たちは雨を逃れて陰の下へと移動した。互いにある程度距離をとりつつ、皆黙りこくってじっとしている。女は思いつめた顔で座り込んで動かず、男は眠っているのか起きているのか分からないような気だるい表情を浮かべて柱にもたれかかっている。
 少女は座ったまま体を少し前に倒し、立ち上がる途中のような姿勢で横目でちらちらと女の表情を窺っていた。彼女に声をかけるか迷っているような様子だったが、その視線に女は応えず少女の顔を見ようともしない。少女はその場で困ったような顔をしてうずくまっていたが、やがてのそのそと立ち上がって庭のほうへと歩き出した。足元に気をつけながら草地の手前に立ち、暗い庭園を見渡す。
「魔法つかい……どこ行ったんだろうな、あいつ……」
 小声で独り言を呟いた。庭園には死角がほとんどないはずだったが、彼女が魔法つかいと呼んだ白い服の少女の姿はどこにも見当たらなかった。
「危ないわよ」
 不意に背後から声をかけられ、少女ははっとして振り返った。庭園の奥の薄暗い片隅から女がこちらを見ていた。
 少女が女のほうを振り向いたまま立ち尽くしていると、女はやや声色を落として
「水がかかったら、あなたも溶けてしまうかもしれない」
 と言った。
「えっ……あっ、ぁぁ、う……」
 変な声を上げて少女は曖昧に頷く。踵を返して陰の端へと静かに戻っていく。
 女はまた俯いていた。少女は遠慮がちに足音を忍ばせながら、ゆっくりと女に近づいた。
「……あのっ! ええっと、そのあの……」
 妙に緊張気味な少女を女は手を上げて制し、
「……座ったら。そこ」
 と自分の隣を示した。少女は曖昧に頷くとそっと彼女の隣に腰を下ろす。そのまま女のほうを向かずしばらく口を開けたり閉じたりしていたが、やがて意を決したように彼女は言う。
「……あの、今朝のこと……なんだけど、あ、あれだ。ん」
「何?」
 俯いて口ごもる少女に、女は軽くため息混じりになりながらも先を促した。
「いや、ほら私が何か、ちょっと朝日を見に行こうとか言い出したから、君はその、私ごめんって言おうと思ったんだ。な……あ……」
 言葉の端が萎んでしまう。女はそんな少女の様子を見て半ば呆れたように、
「そんなに緊張しなくていいのに。それに私は今朝のことは、あなたに対しては何とも思ってないから」
 と言葉を返した。
「うん……。そうか、ごめん……」
「だから、謝らなくていいって。もう」
「……分かった。ごめ……あ、いや、そうか、分かった」
 少女の声色が少しだけ和らいだ。目線を上げて、女と目を合わせる。女はやわらかく微笑みかける。どことなくぎこちなさの残る、しかし安心と安堵を滲ませた微笑を少女は返した。
「私たちは何なんだろうな」
 ぽつりと少女が零した。女はちらりと少女の横顔を見る。
「分からない。でも体が全部、土でできてるのは確かみたい」
「土、って……私もか……?」
 少女は手で自分の頬を撫でて確かめる。
「ああ……私たちは、なら土人間、泥人間なのか。私は」
「そうね」
 女は眉を顰める。
「いいえ、人間というよりは人形なのかも。壊れても、何の痛みも感じなかったもの」
「土人形……」
 少女は女の言葉を繰り返した。その言葉が自分に沁み込むのを待つように、声に出さず口の中で反芻する。
 いつのまにか日没を過ぎ、庭園に夜の帳が降り始めていた。雨は止まず、しとしとと控えめな音を庭園に響かせている。
 男は完全に眠りについたらしく、石柱の下で動く気配を絶った。少女は膝を抱えて座り込んでいる。徐々に眠気が訪れ彼女はうつらうつらし始めた。
「……なぁ、その」
 隣にいる女に、彼女は眠そうに声をかけた。
「何?」
「あの……ここで寝ていいか。私、今日」
 闇の中で女がそっと動いて床の上に横になった。
「私は気にしない」
「そうか。あの、ありがとうな」
 そう言って少女もまた地面に寝そべる。頬に冷たい石の感触を感じながら、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
 そのうち寝息を立て始めた少女を、女はしばらく見つめていた。少女の肩にそっと手を伸ばして触れる。少女はもう寝付いてしまったらしく反応しなかった。女は壁にもたれかかった。目を閉じると体の力が抜けていく。
 彼女の首の後ろでは長い髪をまとめるリングが光を放っていた。だがその光は、隣にいる少女の足首のリングのそれよりも少しだけ弱かった。


 木立の上のほうから小鳥の囀りが聞こえてくる。背の高い木々の枝は所々に実をつけており、朝になるとそれを啄ばみに鳥たちが集まっているのだった。
「おーい。お前、降りて来い、この」
 少女が木の下から鳥たちに向かって声をかけていた。鳥たちは枝を移りはするが、なかなか下へは降りてこない。少女は木の幹に手をかけて揺らそうとしたが、
「いやそれはないか。んん、そうだな。あの、あれだ。食事中に迷惑だな、私」
 と一人ぼそぼそと呟いて木立から離れる。
 するとそのとき、一羽の小鳥が枝を離れて空を滑り土の上に舞い降りた。何羽かその後に続いて石柱や倒れた木の幹などに留まる。土の上に落ちた木の実を啄ばむ者もいれば、ただ降り立ってひょこひょこと土の上を飛び歩いている者もいた。
 少女はしゃがんで面白そうに鳥を眺める。
「ふふ。来い、来い。来ないか。あ、来た。素直だなお前」
 近づいてきた鳥に手を差し伸べると、鳥はすぐに飛び立って地面を離れてしまう。少女はそれでも微笑みながら飛んでいった鳥を目で追った。
「鳥を見てるの?」
 女が現れ、少女の肩を叩いた。少女は、ああ、と言うと振り返って立ち上がる。
「その、可愛いなと思って。可愛いなぁ。はは。まぁそこに泳いでる魚も可愛いけど」
 彼女の言うように、そこまで深くもない水路の水の下を、魚の影が通り過ぎることがあった。女はそのことに言われて初めて気がついたらしく、感心したように少女を見て言う。
「凄いのね。あなた」
「そうか?」
 女は頷く。
「少し羨ましい」
「は? 何が?」
 ぽかんとする少女に女は微笑みかけた。
「あなたは、いつまでもここで生きていけそうだから」
「……え? え?」
 女の言葉に少女は混乱した様子だった。
「あの、君は生きていけないの、……か……? ここじゃ……」
「さあ。でもどことなく不安なところもあって、そんなにのんびりとは構えていられない。多分、彼も同じ……」
 女の視線の先には何度も同じところを見て回る男の姿があった。もう既にそれが日課になっているのか、あるいはまだ新たな道の発見を諦めていないのか、彼は今日も庭園の壁を丹念に調べて回っている。
 少女は手を振って大声を張り上げる。
「お、おーい! そこのー! あの……」
 呼ばれた男は足を止め、何だよ、という風に少女のほうを向いた。特に非難めいた目線ではなかったが、彼と目が合うと少女は変に肩に力が入ってしまい、
「い、や、その……特に用はない」
 と慌てて手を下ろした。
 男は変な顔をして二人のほうを見ていたが、すぐにそっぽを向いて歩き出した。
「飽きないな、あいつも」
「そうね」
 二人は顔を合わせて笑い合う。魚が水面を跳ねる音がして、少女はそちらに興味を牽かれたらしく水路を見に行った。

 水路のほうで女と少女が何か話している。時折少女の楽しそうな笑い声と女の落ち着いた相槌が聞こえてくるが、その内容までは彼のところへは届かない。彼自身、そちらにはさして興味を払っていない様子だった。
 彼が見ているのは壁や石材の段差の陰ではなかった。魔法つかいと呼ばれている白い服の少女の様子を、彼は歩きながらさりげなく観察していた。この日は魔法つかいは男が目覚めたとき既に庭園に姿を現していた。それから彼女は屋根の下に下がって段差に腰を下ろしじっとしている。時折思い出したように立ち上がっては移動するが、屋根の下からは出なかった。
 一度紅い髪の少女が魔法つかいに恐る恐る近づいたが、言葉を話さない上に相手の言ったことを理解しているかどうかも定かではない彼女に話を続けられずに引き下がった。少女はその後も度々魔法つかいのほうへ視線を送ったが、その回数も次第に減っていき、彼女は主に女と一緒にいた。
 男が石柱群のうちの一本にもたれかかって足を休めているときだった。魔法つかいが立ち上がり、屋根の陰の下から出て階段を上っていった。女や少女は水路を覗き込んでいて気づいていない。
 階段を上ると、魔法つかいは木立の向こう側へ入ったため男のいる位置からその姿が隠れてしまった。男は慌ててその場を離れて彼女の姿を追う。
 魔法つかいは階段を上った先の中二階にいた。その横を落ちる滝に近づくと、その裏へと姿を消した。
「あっ! おいおい、あそこかよ……」
 思わす男は感嘆の声を漏らした。
 滝はそれほど太くはなく、水量も少ない。水は垂直より僅かに傾斜した壁面を流れ落ちているのだが、その横の僅かな壁面、木の影と水しぶきで見えにくくなっているその隙間に、細い通用路が口を開けていた。
 男が庭園の反対側からしばらく観察していると、そのうち少女がまたその中から現れた。階段を下りると、女や少女、そして男の姿をそれぞれ確認し、またてくてくと屋根の下へ行って段差の上に座り込む。
 そのうち、少女がまたそろそろと魔法つかいに近づいていった。何やら一緒に遊ぼうと誘っているらしい。当然のように魔法つかいは無反応だった。それでもめげずに意思を伝えようとする少女の数歩後ろで、女が消極的に様子を窺っている。
 男は魔法つかいと自分の間に少女がいることを確認し、足音を抑えて庭園を回り込むと、階段を上って滝の裏の門へと身を滑り込ませた。

 滝から水を身に受けないように頭に被った外套を脱ぐと、男は確認のため背後を振り返った。入り口の門の遥か彼方に見える魔法つかいはまだ少女たちと一緒におり、彼のことには気づいていないようだった。通路は二人の人間が行き交えないほど狭かったが、同時に短く男はすぐにその先の部屋に出た。
 無闇に巨大な庭園に比べると、そこは遥かに小さな小部屋だった。古びた木の机が窓際に一つと部屋の中央に一つあり、高い本棚が一方の壁を覆っている。机の上は比較的整理されており、何かの木箱や筆立てなどが並んでいる。しかし壁には複雑な図形や細かな文字などが書かれた紙がそこかしこに貼り付けてあり、非常に雑然としていた。部屋の隅には土嚢が積み上げられており、床には何に使われるのかよく分からない工具や割れたガラス器具などが転がっている。酷く散らかってはいたが、どこか落ち着いた生活感のある部屋だった。
 男が一歩足を踏み出すと床で埃が舞う。
「……掃除しろよ、まったく」
 男は顔をしかめながらも部屋の調査へ乗り出した。
 本棚はどの段もびっしりと本で埋め尽くされていた。古くて文字が判別できないものもあれば、紙が丈夫でそれほど日焼けしていないものもある。男は適当に数冊手にとって頁を捲ってみたが、そのたびに首をかしげて元の場所に戻した。
「そうか、っていうか俺字読めないんだな。今更だけど」
 彼は腕を組んで考える仕草をしながらぼやいた。彼の目の前には膨大な資料があったが、その内容を知ることができない彼は恨めしそうに本棚を見上げる。
 男はふと壁に張ってある紙の一枚に視線を移した。壁の紙は誰かが直接書き留めたものが殆どのようだったが、その中に手書きの図面のようなものがあった。表面に細かい溝が彫られた輪のような道具の三面図と、その横に粘土で簡単に人の形を象ったような雑な人体の図が書き添えられている。二つの図は何かの書き留めや説明、数式などで取り囲まれていた。
 男はしばらくその図を凝視していたが、はっとして自らの腕にはまったリングに触れた。
「……これのことか?」
 自分の腕にはまったものと図のものとを見比べてみると、細かい凹凸は異なるもののほぼ同じもののようだった。よく見るとリングには二つに割ることができそうな切れ目が入っていたが、よく調べても男にそれを外すことはできなかった。
 そのとき、男の背後で裸足が床を踏む音がした。男が振り向くと、部屋の入り口に魔法つかいが立っていた。何も言わず男の顔を見上げている。
「あー……何? 何だよ」
 男はばつが悪そうに視線を泳がせる。
 魔法つかいは床に転がった器具などを軽やかに避けながら男を通り越して部屋の奥に進むと、窓際の前に立った。机の上にあった小さな木箱をそっと自らの陰に隠した。振り返って男の顔を一度見、視線を伏せる。
 男は何だよ、え、と呟くと、すごすごと部屋の出口へと向かった。部屋を出る前に一度だけ立ち止まり、振り返って部屋と魔法つかいを見る。
「しかしなんというか……魔法つかいっていうより科学者っていったほうがしっくりくるんじゃねーの? この部屋とかよー」
 男の言葉に魔法つかいは首を振った。彼女から反応が返ってきたことに男は少し驚いた。魔法つかいは机の椅子を引いてそこに腰掛ける。木箱を抱え込み軽く頬杖をついて、頭上の窓から空を眺める。
 男は憮然顔のまま部屋を後にした。再び外套を頭に被り、滝を抜ける。
 木漏れ日を抜けて下へ降りる階段へ足をかけたとき、水路のほうから
「あぁっ、おい! そこの、し、白髪っ!」
 と彼を呼ぶ声がした。少女が何やら慌てふためいた様子で彼の元に駆け寄ってくる。
「おいちょっとお前。人の髪の毛つかまえて名前みたいに呼ぶんじゃねーよ」
「あ、え? あの……ごめん、悪かった、男」
 少女は男の前でおろおろと地面に視線を這わせている。男はやれやれと肩を落として、
「で何。何かあったの」
 と尋ねた。少女は、あぁ、その、と口ごもりながらも答える。
「さ、魔法つかいどこにいったか知らないか? 実はその、何だ、このちょっと指がその」
「ん」
 男は腰を少し落として少女の手を見る。彼女の右手の人差し指が、根元からなくなっていた。断面は泥のように変色し、まだ水気を含んでいるようだった。
「げぇ……お前もかよ。何したの」
「何って、え……あの、あれだ。いや……」
 言葉に詰まる少女に階段の下へやってきた女から助け舟が出される。
「その子、自分で水路に指を突っ込んだの。試してみるって」
「はぁ?」
 男が顔を覗き込むと、少女はあははときまり悪そうに笑った。男はため息をつくと、親指で滝の裏の通用路を示した。
「あそこに通れるところがあって、その先の部屋にいる」
「あっ、ありがとう!」
 少女はそう言うや否や階段を駆け上って滝のところまで走り、そこへ行って初めて狭い門に気づいたらしく驚いて変な声を上げた。
「なんだこれ、こんなところに何かあるぞ! うぉ、え……?」
「いいから早く行けよ」
 男は独り言のような小さな声でそう呟いたが少女は聞こえていたらしく、水しぶきを気にせず門の中へと消えていった。

「あの……すまなかったな。私、自分も水に触ったら溶けるのか知りたくて……いや、駄目だけど。とっ、とりあえずとにかくあのもうやらないから。ごめんな」
 目の前の魔法つかいに少女は繰り返し謝るが、魔法つかいは澄ました顔で少女の右手の上に盛った土の中で黙々と手を動かしている。水路に囲まれた庭園の草地に座る二人を、残りの二人は遠巻きに見ていた。女は木立の陰にある倒木の上に座り込み、男は階段に腰を下ろして壁にもたれかかっていた。
 少女はしばらく黙って魔法つかいの治療を眺めていたが、やがて伏目がちに彼女の顔を窺いながら、
「……あの、さっきの……部屋、なんだけど……」
 言いにくそうにそう切り出した。魔法つかいは手を止めて少女の目を見つめ返し、何? と言うような感じで首を傾げた。その意思が通じている感触のある反応に少女は肩の力が抜けたらしく、その話し方が少し滑らかになる。
「あそこは、君の部屋なのか? あそこで君はその、私たちを作った……とか」
 魔法つかいは首を横に振る。その手は治療を再開していた。
「あ、違うのか。あれ、今どっちの質問に答えたんだ? えーと……まぁそのとにかくだな。じゃぁ、でも私たちは土でできているんだよな。君はその、ここの土から作ったんだよな? 私たちを。何で……」
 少女はふと言葉を切った。魔法つかいは相変わらず無言で土をいじっている。互いに向き合うと頭一つ分ほど低い彼女の顔を少女は見下ろしている。
「いや、あの……別に私はなんと言うか、無理に聞き出そうとかそんなんじゃ……ただ……」
 自然に言葉が途絶えてしまう。少女は魔法つかいの無表情で一貫した顔色をどこか遠慮がちに窺っていたが、そのうち俯いて自分の手を見つめるようになった。
 やがて魔法つかいは少女の腕を取り、周りの土を払った。土の下から現れた少女の右手は、解けた人差し指が完全に元通りになっていた。
「わぁ、すごいな! 本当に魔法なんだな、魔法つかい……」
 一気に顔を明るくした少女を置いて、魔法つかいは立ち上がって階段のほうへ歩き出した。背後で少女が礼を言うが、魔法つかいは気にせずてくてくと階段を上り、滝の裏へと消えていった。男の視線がその後を追うが、少女が木立のほうへ来ると男は腰を上げて一人屋根の下へ行ってしまった。
「よかった、元に戻った。あぁ怖かった。正直」
 女の前で少女は右手を握ったり開いたりして見せる。女はほっとしたような顔で、
「もうやらないでよ。あんな意味の無いこと」
 と念を押すように言った。
「大丈夫だ。痛くないけど気持ち悪いしな。何か」
「そう。そうね」
 女は軽く相槌を打つと、少し間を置いてから
「あの部屋、何だと思う? 私も少し覗いてみたんだけど」
 と目で滝の裏を示しながら少女に尋ねた。
「字が読めないからそんなに詳しくは分からないけど、私たちが作られた仕組みや理由みたいなものが置いてあるような気がした。きっとああいうのが魔法なのね」
「そう、かな。かもしれないけど。うんまぁ」
 少女の返事は曖昧なものだった。女が訝しげな目線を送ると、少女はぽつりぽつりと話し出す。
「いやその……あんまり見て欲しくないのかなって。あそこ、あの部屋……とか。魔法つかいが」
「え? あの子にそう聞いたの? 見ていいかって」
「そうじゃなくて、そうじゃないけど、何か……何となく、何となくな」
 女はまだ納得がいかないといった顔をしていたが、少女は、はは、と笑って話を打ち切った。
 木立から出て空を振り仰ぎ、深呼吸する。空を流れる雲はいつになく厚く、まだ昼間だというのに太陽の位置が分からずやや薄暗い。遥か頭上で鳥の群れが風に乗って空を渡っていく影が見え、少女はそれを追って走り出した。


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