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 近くで風の音が聞こえて、紅い髪の少女はぼんやりと目を覚ました。冷たい風が頬に触れる髪を揺らしている。彼女は眼前を覆う前髪を掻き上げると石の床の上で寝返りを打ち、また目を閉じた。
 月明かりのない闇夜だった。絶えず降り続けている雨は風に吹かれ、屋根の下の中ほどまで降り込むこともあった。三人は屋根の下の最も奥にあたる隅のほうに寄ってうずくまって寝ていた。魔法つかいの姿はやはりそこにはない。
 少女は寝返りを打ったまま少しの間じっとしていたが、やがて再び目を開けた。風雨の音が長い反響を伴って辺り響き渡っていた。少女は自分の肩を抱いて小さくなるが、なかなか寝付けないらしくまた寝返りを打つ。
「う……ん……」
 目を擦り、少女は半身を起こす。他の二人は完全に寝入っているらしく、小さな寝息が闇の向こうから聞こえてきていた。少女は手探りで壁に触れると、暗闇に浮かぶ小さな光点を道しるべに女が寝ているほうへと歩いていった。
 近くまで来ると、リングの仄かな明かりでうっすらと女の姿が見えてくる。彼女は壁と壁が接する狭いところに身を寄せるようにして横になっていた。少女はその近くに座り、壁にもたれかかろうとして不意に動きを止めた。すぐ近くから水が流れる音が聞こえてくる。
「え……? あ……おい……」
 そっと女の肩に手を添え、彼女を起こそうとする。そのときになって初めて彼女は女の体の異変に気づき、
「う、うわぁっ! おい、ちょっと、おい!!」
 と大きな声を上げた。
 壁と床との間の段差が丁度樋のようになり、庭園に溢れる雨水がそこを流れて女の近くまで来ている。偶然に出来た樋は女が身を寄せる壁の端で丁度終わり、そこから床の上へ流れ落ちて大きな水溜りを作っていた。女の腰がその水溜りに浸かっており、かなりの広さに亘って彼女の体は水の中へ溶解していた。
「おいっ、起きろ! おい!!」
 少女が女の肩を揺さぶると、彼女の体は腰を中心にぐにゃりと不自然な角度で曲がった。
「うぉっ!?」
 少女は慌てて手を離す。
 水溜りは彼女のわき腹辺りまでを濡らしていたが、服に沁み込んだ水分が溶ける範囲を広げていた。
「え……何……? 何か……あったの……?」
 ようやく女は目を覚まし、気だるそうな声を上げた。状況が掴めずぼんやりとしていたが、少女の只ならぬ様子を見て自分の体の異変に気づき悲鳴を上げる。すぐに立ち上がろうとするが足に上手く力が入らないらしく、彼女は手で無理矢理床を引っ掻いた。
 少女は女の上半身と下半身を同時に掴むと、力を込めて彼女の体を引きずって水溜りから引き上げた。床に泥の跡が残る。
「嫌っ、何っ、これぇ……っ!!」
 女は半ば恐慌状態に陥っている。少女はどうしていいのか分からずおたおたしていたが、自分の足首のリングの光で照らされた女の姿を改めて確認し、思わず息を呑んだ。
「これちょっと……まずいんじゃないか……」
 女の左半身の腰から脇腹にかけての部分が、服の上からでも分かるほどに失われていた。左足の付け根は彼女の手首よりも細くなっている。
「おい、どうしたってんだよ、こんな時間に」
 騒動を聞いて起きた男もその場へ駆けつけた。女の体と雨水を見て、状況を理解して絶句する。
「まさかっ……こりゃ、なんつー……」
「どっ、どうしよう!」
 少女は男に詰め寄るが、男は呆然とするだけで言葉を返せない。
「は、早く……逃げないと……!」
 自力で立ち上がろうとする女を、咄嗟に男が制する。
「よせ、足がもげちまうぞ! 落ち着いて寝てろ、そこで!」
「そうだ、そうだぞ、あの、わ……私、呼んで来るから! 魔法つかい、い、今すぐ! ここにっ」
 叫ぶようにそう言うと、少女は庭園のほうへ駆けだす。雨脚は全く弱まる気配を見せず、庭園を閉ざしていた。その中へ入っていけない少女は雨に濡れないぎりぎりのところで足を止めると、
「おーい、魔法つかいー! 大変、大変なんだ! 来て、来てくれ!! 頼む、大変なんだ、おいこら!」
 と闇雲に大声を張り上げた。降りしきる雨が彼女の声を瞬時に掻き消すが、彼女は諦めず闇に向かって魔法つかいの名を呼び続けた。しかし庭園に彼女が現れる気配は一向にない。
「……無理だろ。この雨じゃ、あの部屋まで聞こえるわけもねーし。さて」
 男はそう呟くと、放心状態で小刻みに震えている女の前に屈み込んだ。自分のリングで彼女の体を照らし出して観察する。腰の辺りが激しく陥没し、その周辺の服は泥で汚れている。水面から引き離したことでそれ以上浸食は進んでいないようだった。
 女は仰向けになり、呆けた顔で天井の暗闇を見上げている。
「土人形たーね……。……ん?」
 男はふと何かに気づくと、体勢を低くして女の後頭部を覗き込んだ。
「な、何?」
「ちょっといいか? 頭上げてもらって」
 そう断ると、男は女の頭を持ち上げて彼女の髪を束ねるリングを確認した。それを自分のリングと見比べる。女のリングが放つ光は、男のリングよりも弱く儚かった。
 腰を下ろして首をひねる。自分の二の腕のリングを事細かに調べ、男はその場で深く考え込んだ。
 背後では少女が未だに風雨に向かって魔法つかいを呼び続けている。雨はまだ弱まる気配を見せなかった。


 明け方になってからようやく雨は上がった。庭園の土はすっかりぬかるみ、水路は泥水で底が見えなくなっている。魔法つかいは現れず、結局なすすべの無かった少女たちはできるだけ水から遠いところへ女を移動させて休んだ。夜中に騒動があったせいで皆疲れ果て、日が昇ってからも三人は寝入っていた。
 日がかなり高くなり庭園の石畳の上の水があらかた乾いた頃だった。何か重いもので床を擦る音を聞いて、眠りの浅かった男は目を覚ました。
「何だ……? ……あっ」
 はっとして飛び起きる。
 魔法つかいが三人のいる屋根の下へと向かっていた。彼女の体と同じかそれよりも大きな土嚢を引きずっている。その動きは非常に遅く、一歩進むまでに五、六回は土嚢を引きずっていた。
「おーい、起きろお前ら」
 男は投げやりな口調で他の二人を呼び起こすと、魔法つかいを手伝いに行った。
 横になったまま動けない女のところへ男に土嚢を運んでもらうと、魔法つかいは乾いた土を床の上にあけ、それで破損した女の腰の上に土の山を作りはじめた。
「あの、て、手伝おうか? 私」
 少女はそう提案したが魔法つかいは首を振る。少女は、そうか、と少ししょげた顔をしたがすぐに笑顔になって女の顔を覗き込む。
「よ、やったな、これでこう何とかなりそうで」
「嫌……」
 しかし女の顔は暗く、少女はたじろいだ。
「ど、どうしたんだ、おい……」
「やめて……触らないで、気持ち悪い……っ!」
 彼女に土を被せる魔法つかいの手を叩き掃った。魔法つかいは手を止め、女の前で固まる。
「何言ってるんだこら、ちょっと。な……大丈夫か……?」
 少女が何を言っても女はどこか虚ろな目をして小刻みに震えていた。少女は困ったように魔法つかいを見るが、彼女から目立った反応は返って来ない。
 男は考え込むような目で女の様子を見ていたが、そのうちふらりとその場を離れて一人滝の裏の部屋へと消えて行った。
 時間が経つに連れ、次第に落ち着いてきたのか女は魔法つかいの治療を許すようになった。魔法つかいの治療は長く、昼を過ぎても終わらなかった。少女は黙って二人に付き添った。時折男が庭園に戻ってきて遠目に様子を確認したが、彼は声をかけることもせずすぐにまた小部屋へと戻っていった。

 辺りが暗くなってきた頃、魔法つかいはやっと女の体から土をどかし始めた。少女もそれを手伝う。女は疲れてしまったのか、横になったまま眠りに入っていた。
「あの……おい、終わったぞ。起きろ、ちょっと」
 少女に揺り起こされ、女は起き上がった。腰に手を当ててそこが元通りに復元されているのを確認し、
「……ああ、そう……」
 胡乱げにそう呟いた。
 立ち上がり、服を上から叩いて土を払う。確かに溶けた部分は治っていた。だが立ち上がって少しした後、女は急にふらっと体勢を崩して倒れそうになった。
「ちょっ、ちょっと!」
 慌てて少女が支え、ゆっくりと座らせる。女はようやくはっきり目が覚めたらしく、
「あっ、ごめん、ぼうっとしてて」
 と少女の手を借りて床に座り込んだ。その顔を少女が心配そうに覗き込む。
「……何か、変じゃないか、どこか苦しいとか何かそんな……?」
「え……いえ、分からない。けど……」
 女は自分でも何が何だか分からないといった顔をしていた。再び立ち上がろうとして、目の前に魔法つかいが立ちはだかっているのに気づく。魔法つかいは大きな瞳で彼女の顔を見下ろしていた。その視線に射抜かれたように女はうっと呻いて固まる。
 魔法つかいは彼女の肩に手を沿え、彼女を深く座らせた。立つな、と言っているようだった。しかし彼女の接触に対し女は過剰に反応して、
「やめてって言ってるでしょ……!」
 と這って魔法つかいから距離を取った。魔法つかいは俯き、とぼとぼと庭園のほうへと歩いていった。いつの間にか庭園に戻ってきていた男の隣を通り過ぎ、滝の裏の部屋へと消えていく。
 少女は些か憤慨したらしく、女の前に屈み込み目線を合わせる。
「君ちょっと何かおかしいぞやっぱり。っていうか、まぁ……あんなに魔法つかいをその、何ていうか、冷たくないか? いくら何でも」
「……ごめんなさい」
 妙に神妙な調子で女は謝った。少女は困ったように矛を収める。
「いや別に、その……いいんだけど。あの……あ、あれ?」
 少女はそのとき初めて女のリングの光が弱くなっていることに気づいた。薄暗い屋根の下では、少女の足首のリングの光と女の光との差がはっきりと分かる。
「何?」
「いやその、輪っかが……何かこう、暗いっていうか」
「暗い……?」
「あの……まぁいいや、うん、なんでもない」
「そう……」
 女はどこか眠そうな目をしていた。少女の言葉に対する反応も緩慢で、言葉をはっきりと口にできない様子だった。
 そのうち男が庭園から戻ってきて、
「今日はもう屋根の下から出るなよ。また降りそうだしな」
 とだけ告げると一人隅のほうへ行ってしまった。少女は女の容態が気にかかるらしく彼女のそばを離れない。
 辺りがすっかり暗くなると、昨晩ほど激しくはないが庭園に雨が降り出した。少女は立ち上がり、昨日女が水に浸かった辺りを調べに行く。水はまだ引いておらず、壁の近くには泥の塊が見られた。少女は顔をしかめてううと唸る。
 女は焦点の定まらない目を開けてじっと床に横たわっていた。少女はその横に膝をついて彼女を起こす。
「おい起きてくれ。ちょっと動こう、また水来るかもしれないし。な」
 反応の鈍い女の腕を取り、無理矢理立ち上がらせる。女は少しずつ意識が覚醒してきたようで、そのうち自分から歩き出した。二人は水溜りや壁から離れ、水溜りから遠くて雨の吹き込みそうにない位置へと移動した。
「ありがとう」
 腰を落ち着けると、女は幾分かはっきりとした言い方で少女に礼を言った。
「あの、いや……別に。私は、えーと」
 彼女の隣に腰を下ろしながらぼそぼそと言葉を返す少女を見て、女はくすりと小さく笑った。
「いいえ。それに……ごめんなさい。随分手をかけさせちゃって」
「いいよ、私は特に大変でもなかったし。君は私より軽かったしな。何か」
「……そう」
 女の声の調子が落ちる。少女は訝しそうにちらりと隣を窺った。
「どうした……?」
「昨日から今日、ふっと自分が分からなくなるときが時々あって、眠いわけでもないんだけど変に体から力が抜けたり……」
「ああ、うん……そうだな」
「あの子……魔法つかいさんはね」
「え?」
 女が突然白い服の少女の名を口にしたので、少女は聞き返すように女の顔を見た。
「あの子が嫌いな訳じゃない、ただ少し……気味が悪いって感じるところがあるだけなの。けど、意識が抜けかけてるときだと妙に神経質になって……私、あの子に酷いことを言ったかもしれない」
「あ、え、覚え……」
 覚えていないのか、と聞きそうになった口を少女は噤んだ。女はしかし少女の顔を見ずに軽く頷く。
「ただ、私の体を治すとき、あの子から何か、悪意や嫌な感じとか、そういうものを感じたことは無かった。きっとそれは確かだと思う。……結局、私が臆病なんでしょうね。私はあなたみたいにあの子に接することができない……」
「……は? あの……」
 少女は女の意図が掴めず聞き返そうとしたが、それきり彼女の言葉は途絶えてしまった。少ししても何も言って来ず、少女は彼女の顔をそっと覗き込む。女はどうやら意識を手放しているようだった。それは眠りについたといった趣とは少し違い、両目は閉じていたが体の力は抜けていなかった。意識を維持する時間の限界に達して自動的に昏睡してしまったかのようだった。
 少女は声をかけて起こそうともしたが、結局彼女をそっと仰向けに寝かせると、自分もその近くに横になった。


 よく晴れた昼下がりだった。二、三日の間繰り返し降っていた雨は完全に上がり、庭園の土はまだ少し水気が残るものの土人形たちが気にせず歩けるほどには乾いていた。増水した水路は中々水が引かず、雨が降る前より透明度の下がった水は流れる勢いも増したままだった。
 少女は木立の下をうろうろと歩き回っていた。鳥は来ていなかったため、彼女は軽く木々を揺らして木の葉が散るのをぼんやりと見上げるということを繰り返していた。
「よく、飽きないわね」
 草地の上に座って倒木の幹にもたれかかっていた女が言うと、少女はきょとんとした顔を彼女に向けて、
「飽きる? っていうか、まぁ、あの、何とも思ってないっていうか」
「……え?」
 聞き返され、少女はもっと正確な言葉を探して唸るが結局諦め、女の近くに寄ってきた。
「気分、どうだ? 今日はそんなに何か、あの、結構いいみたいかなって思うけど」
「ええ」
 女は僅かに頷いた。先ほどから少女との会話の中では彼女の口が動くだけで、体の他の部分は固まったように動かなかった。
「体は動かしづらいけど、意識は結構はっきりしてる。昨日の夜に比べたら、少しぼーっとしてるけど」
「そ、そうか。うん、よかった」
「ごめんなさいね。気を遣わせてしまって」
「もうやめろよ、その、そういう。私はこう、他にやることが無いんだから。……ん、何か私、今駄目なこと言ったな。あれ……やっぱり何か失礼だったぞ私」
 少し考えた後に申し訳なさそうに口を開きかける彼女を制して、女は
「そっちこそ気にしないでよ。……何だかキリがない気がしてきた」
 と薄く微笑んで見せた。少女は、そうか? と笑顔を取り戻す。倒木に腰を下ろし、横目で女の髪を留めるリングを見る。明暗の疎らな木漏れ日の下では、そのリングが光っているのかどうか判断することは難しかったが、少女のそれと比べると女のリングはまた一段と輝きを失っているように見えた。
「あっちに行こうか」
 少女はふと思い立ったようにそう言って立ち上がった。
「あっち?」
「日の当たるところ。ほら、あの人が何か昼寝してるところ」
 少女は石柱の上で横になっている男を指差した。
「あ、邪魔したら悪いか……えーと……うん……」
「いいじゃない、どうせ起きてるでしょうし」
「そうだよな、うん」
 頷くと、少女は女の前に手を差し伸べた。女はぎこちない動きで腕を上げてその手を取り、ゆっくりと腰を上げようとする。が、上手く体が動かず中途半端な姿勢のまま固まってしまう。
「だ、大丈夫か。無理なら……」
「平気。手、そのままにしておいて」
「ん、ああ」
 少し体がほぐれたのか、女の動きは幾分か滑らかになった。少女に支えられ、どうにか草地の上から立ち上がる。だが立ち上がった反動で目が眩んだらしく、急に体の力が抜けて彼女はよろめいた。
「きゃっ」
「わっ、危なっ、い!」
 少女は咄嗟に女の手を掴むが、思いのほか勢いよく彼女は転んでしまい、強く少女の手を引っ張った。少女は踏ん張るがその反動で彼女の腕に不自然な歪みが生じる。不穏な感触を覚えて少女は思わず手を離す。
 地面に倒れこんだ衝撃で脆くなっていた女の腕の肘から先が崩れ、彼女の体から離れてしまう。腕はごとごとと木立の落葉の上を転がった。乾いた土くれが腕の断面からぼろぼろと落ちる。
「ちょっ、しまっ! おいっ! ご、ごめん私、今っ……ごめんっ!」
 慌てて女に駆け寄った少女は繰り返し彼女に謝った。
「あ……。うう、しまった……っ」
 意識ははっきりしているらしい女は泣きそうな顔で彼女の顔を覗き込む少女を見上げ、彼女を安心させるよう無理に笑顔を浮かべる。
「だ、大丈夫よ。随分脆くなってたのね、私……。……悪いけど、魔法つかいさん呼んできてくれない? 今部屋にいるはず、だから」
「わ、わかった! ちょっと待ってて、な!」
 そう言うなり少女は階段のほうへと駆け出した。残された女はもう片方の手をついて自力で上体を起こした。外れた自らの腕を探して辺りを見回し、既に手の形を留めていない土の塊を見つける。思わずうっと呻いて目を逸らし、いつの間にか石柱の上で身を起こして彼女のほうを見ていた男に気づいた。
 二人は少しの間互いに様子を見ていた。二人の間ではあまり言葉を交わしたことがなかったためか、男と女はすんなりと言葉が出てこないようだった。
「困ったわね。水に近づいてなかったのに、私……」
 やがて女が少し大きな声で男に話しかけた。男はじっと彼女の姿を観察した後、低い声で応える。
「……もう大分限界が近いみてーだな。あんた」
「そうみたい……」
 女の声の調子が下がった。彼女は自分の崩れた腕の断面を見て、思いつめた顔をしていた。

 少女が部屋に駆け込むと、魔法つかいはやはりそこにいた。机の椅子に腰を下ろして窓の外を眺めている。
「いたっ、おい魔法つかい、来てくれ! あいつが、あの……何かあの女の人! あの人が腕がこうごとって取れて、その、とにかく治してくれ……っ」
 少女の言葉を聞くと魔法つかいはすっと立ち上がり、部屋の隅に置いてあった土嚢をその小さな手で掴んだ。相変わらずの調子で少しずつ少しずつそれを部屋の出口へ引きずっていく。
「え、あ……そうか、それ、使うのか」
 魔法つかいは頷く。少女は彼女に近寄り、彼女の代わりにそれを引きずる。
「ああ、もう、あの男連れてくるんだった……」
 文句を言いながらも、魔法つかいより遥かに早く彼女は土嚢を引きずっていく。魔法つかいはその後ろに続いた。
 部屋を出る直前、少女はふと壁に貼られた一枚の紙に目を留めた。走り書きのような字がびっしりと書き込まれていたが、土人形を作る過程を示したような図が載っている。
「あ……そうだ、あの、もっと根元から治してやれないのか? ええと」
 少女は立ち止まり、魔法つかいを振り返って尋ねる。
「何ていうか、あの人どんどん悪くなってるんだ、そうだろ?」
 魔法つかいは頷く。
「やっぱりか。その、私みたいに元気な状態にってのは……」
 魔法つかいはすぐに首を振った。少女はたじろぐ。が、すぐに何か思い立ったらしく、じゃぁ、と更に食い下がる。
「あの輪っかは替えはないのか? 他の新しいのとか」
 またしても魔法つかいは首を振る。
「そ、んな……あのままだと、あの人、ひょっとして死んじゃうんじゃないのか……」
 今度は、魔法つかいは即答はしなかった。視線を落として動きを止める。が、そのうち少女が引きずる土嚢を掴み、部屋の出口へ向かってそれを引きずり始めた。

 女は木の幹に片腕を回すようにして掴まり、渾身の力で自らの足で立ち上がった。
「何……出る……? ここを……?」
 彼女は男に睨むような視線を投げていた。男は石柱に座ったまま、ああ、と応える。
「どうやって……」
「一応何とか行けそうな道は見つけた。まーほとんど捨て身だけどね。もっと晴れの日が続いたら、俺は一つここから出てみることにする」
 男は庭園の高い壁を見上げて言った。出口はないが、空は大きく口を開けている。
「登る気……?」
「それ以外にねーだろうが。ずっとここにいてもいつか俺は、言っちゃ悪いがまぁお前みたいなことになるだろ。俺はこっから出たいんだ。外に出れば何か分かるかもしれないし、寿命が延びるって展開もあるかもしれん」
「そんな……」
 女の声は震えていた。彼女は自由にならない足を無理矢理動かして男のほうへ近寄ろうとする。男はそんな女の様子を見て彼女が言いたいことを察し、小さく舌打ちした。
「お前は無理だ、そこでじっとしてろ。なんつーか言いにくいけど、お前もう体あんま動かねーだろ。ここで待ってりゃ俺が外から道を開けられるかも知れねーし……」
「違うっ」
 女は男の言葉を遮った。水路の橋に足をかける。
「分かってる、私はもう無理……! もう、意識がない時間のほうが長いもの……。でもあの子は、あの子達はどうするの? 私は多分、もうすぐ……それであなたがいなくなったら、あの子達はここにたった二人残されて、片方は言葉が喋れないって言うのに……!」
 呂律が回っていない箇所も多いが女はまくしたてるように言った。
「仕方ねーよ。第一、……魔法つかいのことなんて問題外だし、あいつも別に俺が必要って訳じゃなねーだろ」
「違うっ……本当はもっと……」
 そこまで口にしたとき、女の顔から不意に表情が消えた。目が虚空を眺め、ゆっくりと姿勢が前傾になっていく。
 男の顔に、まずい、という表情が走った。駆け出して女の体を支えようとするが、それよりも早く彼女の体は石橋の上で倒れ、水しぶきを上げて水面に呑まれた。派手に飛び散った水しぶきを男は思わず後退って避ける。
 空を切り裂くような悲鳴が聞こえた。魔法つかいを連れて戻ってきた少女が階段の上にいた。彼女は水路へ飛び込む勢いで我武者羅に走り出す。男は少女に制止の声をかけようとするが、そのとき初めて女がまだ石橋に片腕でしがみついていることに気づいた。
「だぁっ……! こっ、ちょっ……つ、掴まれ! 何、何やってるんだおい!!」
 石橋に辿り着いた少女は無我夢中で女の腕を掴み、水面から引き上げようとする。水しぶきが少女の顔や体を溶かすが彼女は全く気づかない。
「は……なれ……て……」
「な、何言ってるんだよ……正気か!?」
 微かな声で少女に呼びかけた女に対し、少女は必死に彼女を引き戻そうとする。だが女の胸から下は既に水流を大いに濁して溶けてなくなっている。それに気づいた少女の顔が青ざめていく。辛うじて彼女の体を繋ぎとめている髪留めのリングは完全にその光を失っていた。
「あ、あなたは……」
 既に生気を失った唇で、女は言葉を搾り出した。
「あの子の……ためにもあなたは、もう少し……生きていなくちゃ……」
「馬鹿っ! 何がぁ……なんだこれ! 変だ……っ。おい、頼むっ」
 泣き叫ぶように女を呼び止める少女に、女は歯を食いしばって顔を近づけた。少女の耳に口を寄せ、
「……」
 か細い声で最期の言葉を残した。その言葉に、少女ははっとして手の力を一瞬緩める。
 次の瞬間、石橋を掴んでいた女の腕が外れ、女の全身は濁流の中へと瞬く間に消え失せた。少女は弾かれたように女のリングを掴もうと水中に手を伸ばす。だが流れにもまれるリングに届く前に、彼女の腕は水の中に解けていった。
「馬鹿、よせ……!」
 少女の体を男が無理矢理石橋から引き剥がす。茫然自失の少女を抱えて木立の中へと転げ込んだ。
 男も少し濡れたが、少女は全身の各所が欠損し、更に片腕を肩の近くから失っていた。しかし大急ぎで体を拭き始めた男とは違い、少女はその心を失ったかのようにその場に固まっていた。
 女のリングは水流に煽られて何度か水底で弾んだ後、水路の角を曲がって見えなくなっていった。一時酷く泥で濁った水路の水は、時間が経つに連れてまた元の透明度を取り戻していった。


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