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 その少女は一人の土人形が水路の中に消えていくのをただ黙って見ていた。少女は背が低く痩せている。袖のない白い服を着、黒い布で首と肩をすっぽりと覆っていた。大きな瞳は深く澄んだ青色だったが、そこに彼女の感情の片鱗が見え隠れすることはない。

 その日の庭園の日暮れは静寂に満たされていた。
 水路から離れた屋根の下で魔法つかいは少女の治療をしていた。盛り土の下で手を動かしながら、目の前に座る紅い髪の少女の顔をちらりと覗き見る。
「うっ……っ……」
 少女は、嗚咽とも慟哭とも取れそうな奇妙な声を繰り返し出していた。気が動転しているというよりは、既に興奮は収まった上で事実の重さに耐えかねてそれを拒んでいるかのようだった。
 そのうち彼女の声が途絶える。魔法つかいは手を止め、少女の顔を再び窺った。
 彼女はぼんやりと地面を見、呆けたように口を半分開けて動かなかった。酷く疲れたか、あるいは魂が抜けてしまったかのようだった。魔法つかいが治療している彼女の右腕以外にも多くの箇所を少女は失っていた。水面に近づきすぎたらしく、その頬や首筋も所々水に削り取られている。
 そのうち不意に少女の目に光が戻った。はっとして彼女は魔法つかいの顔を見る。
「あ、あぁ……え……」
 彼女は始め朦朧としている様子で戸惑いを見せたが、徐々にはっきりと意識を取り戻していき、その顔にやりきれないといった表情が浮かぶ。俯き、肩が小さく震えている。
 魔法つかいは土の中から治療し終えた少女の腕を持ち上げた。少女は何も言わず黙って腕を引っ込める。間を空けず魔法つかいの手が少女の崩れた頬に伸びる。
「やっ、ああっ……」
 魔法つかいの手が頬に触れたとき、少女はびくっと肩を震わせて変な声を出したが、
「あ……ごめん、その、何か……」
 とすぐさま謝った。魔法つかいは少し様子を窺っていたが、やがて少女を草地の上に横たわらせると彼女の顔など細かな欠損部分の治療を始めた。少女は黙って魔法つかいの顔を見上げている。意識はあるようだったが、彼女は顔や首を直接触る魔法つかいに対し警戒の色を浮かべていた。

『ここが私の部屋です』
 閑寂な小部屋に、白衣を身に纏った男が一人立っていた。丸眼鏡を掛け、所々に染みのついた白衣を身に纏い、若い科学者といった風体をしている。
『すみません、あなたが寝る場所はまだ用意してないんです』
 穏やかな微笑を浮かべながら、申し訳なさそうに科学者はそう言った。落ち着いた優しい話し方だった。
 部屋は科学者の言うように散らかっていたが、埃は見当たらず、全体的に汚くは無かった。背の高い本棚に並ぶ分厚い本はきれいに整頓されていた。一冊一冊が丁寧に管理されているためか綻びが少なく、また装丁の新しいものも多く見受けられる。
 科学者は窓際の木でできた丈夫そうな机の上に手を置いた。
『私はいつも、ここで寝ているんです。机の上で、本を枕にしています。夜は寒いから、庭のほうには出れません。あ、窓も閉めたほうがいいです』
 そう言って部屋に一つしかない窓を閉めた。
 科学者は、あ、そうです、と何かを思い出したように顔を上げる。白衣のポケットを探り、菱形をした青銅色の鍵を取り出した。
『私、ちょっと庭の鍵をかけてきます。こんなところですけど、たまに来る人いるんですね。たまに、ですけど』

 半開きの窓から差し込む月の光が、机に突っ伏して寝息を立てている魔法つかいの顔を仄かに照らしている。夜風が窓から入り、彼女の金色の髪を揺らした。
 魔法つかいはうっすらと目を開けた。枕代わりにしていた本から顔を上げる。椅子から腰を上げ、手を伸ばして窓を閉めた。古くなって曇った窓のガラスが外光を幾分か遮る。
 椅子を引いて立ち上がり、目を擦った。本棚から落ちた古い本が散らばる床を、足の踏み場を巧みに見極めながら通り抜ける。
 部屋から出ると滝の冷たい音が聞こえてくる。それに混ざって庭園のほうから人の話し声が聞こえた。魔法つかいは足を止めた。
「……お前も見ただろ。あの女、水を被るたびにリングの光が弱くなっていってた」
 屋根の下に二つの光点が見えた。土人形たちのリングだった。二つといっても、片方の光はもう片方に比べて光が非常に弱くか細かった。
「ああ、まぁ……そうだったな」
「このリングは多分、俺たちそのものっていうか、俺たちを動かしている元なんだろうな。有限の。しかも体が溶けるたびに、その動力源が減っていてるっつーな」
「……ああ……」
 少女の声には元気がない。それは単純に眠気からくるものというよりは、激しく運動した後の虚脱感に近いものだった。
「あの部屋調べて分かったのはそんくらいだね。あとはどれだけ探しても分からん」
「後? 分からないって、何がだ?」
「何がって、色々だろそんなの。何で魔法つかいが俺たちを作ったのかとかよー。そもそもあいつは何者なんだってのもあるし。……こっから出る方法だって」
 男は心なしか声を落とした。
「え? あの扉開ければいいんじゃないのか」
「どうやってだよ」
「さぁ」
 男の、やれやれといったため息が闇の中から伝わってくる。
「……とにかく、お前はもう無茶するな。今でも十分ぎりぎりなんだろ。次に水に触りでもしたら、どうなっても知らないからな」
「あ、ああ……。心配してくれてありがとうな。お前、いい奴だな」
 少女は少しだけ嬉しそうに言った。その殊勝な様子に男は一瞬言葉を失った後、
「……何か変だぞ、お前。リングが弱まってるからか」
 と気味悪がっている。少女は小さく笑った。
「かもな。あぁ、何だか落ち着いた。はは」
 それから二人は二言三言挨拶のような言葉を交わすと、それきり互いに黙り込んだ。
 魔法つかいは少しの間その場に立ってじっと二つの光点を眺めていたが、やがて足音を立てずに部屋へと戻っていった。
 夜が更けるに従って空の星が少しずつ雲に隠れ始める。やがて月が隠れ、庭園は本当の闇に包まれた。


 その日は朝から空に暗色の雲が立ち込めており、庭園の風景はどこか精彩を欠いていた。
 魔法つかいは庭園の隅に一人ぽつんと座っている。何もせず、ただ流れる水路の水の音を聞いている。
 少女は動くのが億劫なようで、石柱を背にしてずっと座り込んでいた。男は相変わらず庭園を歩き回っていたが、時折少女の下へとやってきては彼女と何か言葉を交わしていた。基本的にあまり動けない少女に男が付き合ってやっているといった形のようで、男はしばしば面倒くさそうな表情を浮かべることもあったが、それでも少女は楽しそうに笑っていた。
 魔法つかいはその二人を遠くから眺めていた。男は魔法つかいのそばへは近寄って来なかった。少女も、一人でいるときは目を閉じて休んでいる。魔法つかいの周りには変化が全く起きない。陽の光がないためおおよその時刻も分からず、長く怠慢な時間が過ぎていく。
 男が少女から離れているとき、魔法つかいは立ち上がってゆっくりと彼女に近づいていった。足音で魔法つかいに気づき、少女は目を開ける。
 二人の視線が交差する。
「あ……」
 少女は小さな声を出して、ふっと魔法つかいから目を逸らした。魔法つかいは少女から数歩離れたところで立ち止まり、無言で彼女を見下ろしている。
「……何か、用か? あの……」
 少女の問いかけに魔法つかいは反応しない。少女はやりにくそうに俯く。
「何か、……何なんだ? 一体……」
 少女はただ困惑するばかりで、魔法つかいから少しずつ身を引いていた。
 魔法つかいは結局何もせず、踵を返してその場を後にした。少女は黙って彼女を見送っている。
 水路の橋を渡ったところで、魔法つかいはふと顔を上げて立ち止まった。庭園に、男の姿が無かった。階段を登って高いところから見回してみるも、どこにも男は見当たらない。
 魔法つかいは早足で滝の裏の部屋へと向かった。通路を歩く足音を忍ばせ、部屋の中をそっと覗き込む。
 果たして、男はその部屋にいた。彼は魔法つかいに背を向けて机の前に立っている。魔法つかいの存在には気づいていないらしく、窓際の机を調べている様子だった。
 男は机の引き出しの一つに手をかけるが、そこは堅くて開かなかった。他の場所も順次試してみるが、文字で埋め尽くされた紙束や筆記具などが殆どで特にめぼしいものは見つからない。だが一番端にあった小さな引き出しを開けたところで男の手が止まった。
「これは……」
 その中には小さな木箱が入っていた。手に取り開けようとしてみるが蓋は堅くて開かない。古くて開かなくなっているということではなさそうだったが、一見して箱の外側には錠のようなものはかかっていない。
 男は首を傾げるも、その木箱を何気なくポケットに収めた。机の調査をそこで打ち切るつもりで振り返り、そこで初めて魔法つかいの存在に気づきびくりと肩を震わせる。
「うっ……おっ、驚かせるなよな……」
 魔法つかいはその場を動かない。棒のように立ったまま男に感情のない視線を送っている。男はその視線に耐え切れなくなったように、
「あーもう分かったよ。悪かった俺がー」
 と両手を挙げて見せた。さりげなく机の引き出しを元に戻し、部屋へ入ってきた魔法つかいと擦れ違う。
「これが最後だよ、俺が調べるのも。もう手出さねーから安心しろ」
 面倒そうにそういい残し、男は部屋を立ち去ろうとした。
 魔法つかいは机の一番端の引き出しを開けて、その中を確かめた。木箱がなくなっている。

 科学者は言う。
『その、それは駄目です、いけません』
 狭い部屋に詰め込むようにして入ってきた男たちの前で、科学者は困り顔を浮かべながらも必死に説明する。
『いわゆる土人形は外の世界に出してはいけないと思うんです。私の研究は、もしかしたらとてもよくないことなのかもしれないです。ここ、この部屋と外の庭園』
 科学者は手で机を軽く叩き、次に入り口のほうを指差した。
『この閉ざされた中でなら、問題ないと思ったんです。人間が、私たちが人間に限りなく近い何かを作ることができて、それが広がっていったら、皆さんのおっしゃるようなこと以外、よくないことにだってどんどん使われるでしょう』
 男たちはしかし科学者の言葉に異を唱え、やや声を荒げつつ彼を説得した。
 科学者は反論しながら、そっと彼のそばに立つ一人の少女の肩に触れた。彼女を男たちの目から遠ざけるように自らの体の陰に隠した。少女は科学者と男たちとのやりとりを黙って見上げている。
『とにかく……私から許可することはできません、土人形を外の世界に出してはいけません』
 科学者は何度もその言葉を繰り返した。

「うおっ!?」
 突然の衝撃に男はよろめいた。部屋を出ようとした男に、何の前触れも無く魔法つかいが体当たりをしてきたのだ。
「なっ、何すんだぁっ!」
 男は体勢を崩しながら部屋の外へ押し出される。魔法つかいはその小さな体で必死に男にしがみつき、そのポケットに手を伸ばす。その中にある木箱を、彼女は取り戻そうとしているようだった。
 ふらついた男は滝の水で濡れていた床に足を滑らせる。そこは丁度通路の出口であり、すぐ横には流れ落ちる滝があった。
「やべっ……!!」
 支えを求めた彼の手は空を掴む。一瞬彼と魔法つかいの目が合い、彼女の見ている前で男は滝の中に姿を消した。飛沫が上がり、魔法つかいは咄嗟にその場を離れる。僅かな間の後、鈍い音が下のほうから聞こえてきた。
 弾かれたように魔法つかいは走り出し、階段を駆け下りると滝つぼへと向かった。男は滝の水の外に投げ出されて倒れていた。その体が滝つぼへ入らなかったことは幸運だったが、頭から水を被ったため体中至るところが溶けている。
 魔法つかいは彼の体を見ていくうちにはっと目を見開いた。新たに水を被っているわけではないのにもかかわらず、彼の体は見る見るうちに土へと還っていく。見ると、男の左腕が落下の衝撃で根元から折れ、リングと共に彼の体から離れたところに転がっている。その左腕は正常な形を保っていた。魔法つかいは飛びつくようにしてそれを拾い、男の左腕のあった場所に強引に繋ぎ留める。
「ぐ……は……」
 男の、元は口だったところから呻き声のような音が聞こえてきた。
 左腕とリングが離れないよう周囲の湿った土で支えると、魔法つかいは庭園の乾いた土を手でかき集めてきて男の左腕の治療に取り掛かった。腕の付け根を乾いた土で覆ってしまうと男の体の腐食は止まったが、そのとき既に彼の体は元の形から酷く遠ざかっていた。
「なぁっ、ど、どうしたんだおいっ!」
 重い体を動かして少女が駆けつけた。地面に横たわる体中がどろどろになった男とそれをせっせと治している魔法つかいが目に入り、あまりの惨状に言葉を失う。
「俺……だ……」
 男が今にも息絶えそうな声で言った。
「うっかりしてて……滝……落ちちまった」
「う、うっかりじゃないだろ、馬鹿か! こん、こんな……」
 少女は地面にへたり込む。彼女もまた体調が悪く、長い時間立っていられないようだった。頭から水を被った男だったが、その右目はどうにか生き残っていた。その目で少女を見、彼女がもう意識を手放していることに気づく。
「やれやれ……あ」
 何度か庭園から乾いた土を運んできていた魔法つかいが、男の首から上を乾いた土で埋め始めた。男の口が土に埋められる。男は多少の不快感を右目に込めたが、そのとき土を盛る魔法つかいの手が小さく震えていることに気づいた。目線を上げ、魔法つかいの顔を窺い見る。無表情なのは相変わらずだったが、どこか視線が揺れている。それはこれまでの彼女の無感情とはどこか少し違っていた。
 全身が土に埋められるように男には土が被せられていく。だが男は不快感や焦りを忘れ、目の前の金髪の少女の顔を見つめていた。

 男の治療が終わったのはとうに日が暮れた後だった。
 土の下から出てきた男は感覚がはっきりしないのかしきりに頭を振っていた。白い髪の毛からぱらぱらと土片が零れ落ちた。
 彼のリングの光は、既に少女と同じくらいかそれよりも弱く感じられるほどになっていた。男は無言でそのリングを見やると、魔法つかいに短く礼を言ってその場を立ち去った。男は平然を装っていたが、その歩みには僅かにふらつきが見られた。
 魔法つかいは一人部屋に戻った。その晩は月に薄雲がかかっており、闇に薄ぼんやりと浮かび上がる窓を除いては殆ど何も見えなかった。魔法つかいは窓際の机の椅子を引き、とさっと崩れ込むようにそこに腰を落とした。全身の力を抜いて机に突っ伏し、肩を抱いて小さく縮こまる。
 彼女の眼の前に、先ほど男から取り返した木箱が置いてあった。そっと手を伸ばしてそれを手に取り引き寄せる。その箱には細工がしてあり、そうと知らない者には開けないような仕掛けで蓋を閉ざしていた。魔法つかいはぎこちない手つきで錠を外し、蓋を開けて中から一本の鍵を取り出す。窓の前にそれを翳して形を眺める。古そうな青銅色をした菱形の鍵だった。ぽとりとそれを机の上に落とす。真暗な部屋に金属の転がる高い音が響いた。
 机に置いた腕の間に顔を埋め、彼女は動かなくなった。魔法つかいは終始無表情だったがどこか物思わしげな身の動きだった。
 空はかき曇り、少しずつ夜光は失われていく。夜更けに小雨が通り過ぎたが、庭園にいる者は皆寝入っており誰一人としてそれに気付かなかった。


 部屋に駆け込んできた少女の切羽詰った声で魔法つかいは目を覚ました。
「たったた大変だ、おい魔法つかい! きっ、あの男が……来れっ、来てくれ!!」
 まだ立ち上がってもない魔法つかいの腕を少女はしきりに引っ張る。魔法つかいは体の陰でさっと鍵を木箱にしまうと、少女について部屋を駆け出た。
 庭園に出ても男は見当たらなかった。庭園の全てが見渡せる階段の上に立っても、男の姿は確認できない。しかし少女は大声で男を呼んだ。
「おーい! 何やってんだ馬鹿! 降りて来い……し、死んじゃうぞ、こら!」
 少女は、上へ向かってそう叫んでいた。魔法つかいははっと気がついて少女の視線を追い、そして男を見つける。
 男は垂直に切り立った庭園の壁の中腹辺りで、柱を支える装飾的な凹凸にしがみついていた。そこから下の二人が見ている前で壁を這う蔦に飛び移り、それをよじ登っていく。見ている少女が小さく悲鳴を上げた。
「や……やめろって! 無茶だって! 聞けおい!」
 少女の声に耳を貸さず、男は少しずつ壁を登っていく。魔法つかいは男の現在地から彼が登ってきた道を確認した。庭園の中で最も複雑な構造をしている階段付近の壁の蔦が一部千切れている。振り仰いで男の進む先を見ると、蔦はあまりないが壁の凹凸と柱を交互に垂直に登っていけば確かに壁の最上部まで辿り着くことはできそうだった。そこは天井が無く、乗り越えれば庭園から抜け出すことができる。
 だが男の息は今や完全に上がっているようだった。明らかに疲労で動きが鈍っている。壁の溝を度々掴み損ね、その度に少女がひっと悲鳴を上げた。
 どうにかこうにか壁の広い窪みまで到達し、男はそこに腰を下ろした。頂上まではまだ半分ほど距離が残っている。男は先を見上げて苦い顔をして唸った。下を見、彼を止めようと喚く少女に声をかける。
「もう戻れねーよ。ここまで来たら登るしかねー。分かったら静かにしててくれ、気が散るんだ、まったく」
「阿呆かっ、無理だ、もう……くたくたじゃないか、君は!」
 男はため息をついて苦笑いを浮かべる。
「……んなこたー分かってるよ。うっ……」
 急に眩暈がしたらしく、男の体はふらっと傾いた。すぐに我に返りずり落ちそうになるところを柱にしがみついて堪える。
 それを見ていた少女がびくりと飛び跳ねた。
「うぉっ……ほ、ほら! 落ちるぞ、絶対!」
「うるせー。仕方ねーだろ、今行かなかったらなー、俺はどうせ……」
 男はちらっと自分の左腕のリングを見た。事故の前と比べて遥かに光量を失ったそれは、既に光の下ではただの金属のリングと変らなく見える。
「もう時間ねーんだ。頼むからほっとけ、俺のことは」
「ばっ……」
 男は腰を上げてまた蔦に捕まり、少女は言いかけた言葉を飲み込む。男はもう下を見ることなく僅かな凹凸を繋ぎながら上を目指した。だがその動きは酷く鈍い。
 男にかける言葉が尽きたらしく、少女は救いを求めるような目で魔法つかいを見た。魔法つかいは少女からも男からも目を逸らした。行き場を失った彼女の視線が何気なく庭園の石畳の上を横切ったとき、その石の上にぽつっと小さな黒い染みが生じた。
 魔法つかいははっとして空を見上げた。少女も異変に気づいて固まる。暗く沈んだ灰色の雲から、ぽつりと魔法つかいの目の前に雨粒が落ちてきた。それは徐々に数を増し、大粒の雨が庭園に降り注ぐ。
 魔法つかいはさっと少女の手を掴んで彼女の体を引っ張った。彼女は屋根の下へ行こうとしているようだった。だが少女はそれに抗い、魔法つかいの手を振り解く。魔法つかいはよろめいたが、少女がその場を動く気がないと分かると一人で屋根の下へと走っていった。雨の中に、壁を登る男と一人の少女が残される。
「なっ、何だこれぇ……っ!」
 泣きそうな声で少女は叫んだ。
「見ろ、おい! 雨だぞ雨! 本当に死ぬぞ!」
 だが男は逆に怒鳴り返す。
「分かったからお前は離れろ! ここから降りられると思うか、あー? 水はお前のほうがやべーだろうが!」
「嫌だ、できるか! 頼む……戻ってこい! わ、私の前からいなくなるな!」
「……くそっ」
 男は力を振り絞って登る速度を上げた。だが雨で徐々に皮膚が溶け、蔦を握る手が滑り始める。
 雨はいよいよ勢いを増し、その下に体を晒す男と少女を容赦なく襲った。一人屋根の下からその様子を眺める魔法つかいは、雨と水を避けて少しずつ奥のほうへと下がっていった。
 そのとき、庭園のほうでどさっと音がした。魔法つかいは顔を上げる。雨の中で少女が倒れていた。既に意識がないらしく、ぴくりとも動かない。
 魔法つかいは彼女の元へ駆け寄ろうとした。が、その手に雨粒が落ちた途端反射的にその手を引っ込める。屋根の下へ引き戻した彼女の手は、水に濡れたところが土になって溶けていた。魔法つかいは服で溶けた部分を拭う。白い服が泥で汚れた。拭った手は雨に濡れた箇所だけ窪んでいる。
 魔法つかいはそろそろと後退りした。屋根のない庭園では、雨が容赦なく少女と男の上に降り注いでいた。少女の服の合間から泥水が流れ出ていく。その姿も、次第に濃くなる雨で霞んでいく。
「おい、魔法つかい!!」
 激しい雨音に紛れて、男の声が聞こえた。壁を見上げると、雨に耐えて柱にしがみついている男の姿があった。雨に降られているというのに彼は少しずつ柱を登っていく。
「早くそいつを屋根の下に入れろ! 死んじまうだろうが!!」
 頂上へ近づきつつある彼の姿はもうあまり見えなかったが、その声は魔法つかいの元まで届いていた。魔法つかいはしかし自分からは雨の中へ入れず、その場で足踏みをする。
 続けて男が叫ぶ。
「何やってる! 何のために俺たちを作ったのか知らねーが、このまま見殺しにする気かよ! なら最初から作んな、ずっと一人でいろってんだ、くそがぁ……!」
 男の叱咤に背を押されたのか、魔法つかいは走り出した。雨の中へではなく、屋根の下へと走る。その奥には女が浸水したとき治療に使った土嚢の袋がまだいくつか残っていた。その大きな袋を魔法つかいは頭から被り、そして庭園へと突っ込んでいく。雨が袋を打ったが、元々乾いた土を保存するための袋は外部からの水を遮断した。それでも彼女の裸足は雨水から守れず、細い足首が徐々に水に削られていく。
 魔法つかいは少女の下へと辿り着いた。少女は水が溢れる庭園の石畳の上に力なく横たわっていた。持ってきていたもう一つの袋を彼女に被せ、両腕で抱きかかえて引きずる。泥で抱える手が滑ったが魔法つかいは気にせず、必死になって彼女を屋根の下へと引っ張っていった。

 男はもう下を見なかった。魔法つかいが動く気配が感じられたが、庭園の状況を確認する余裕はもう彼には残されていなかった。
 次の蔦へ伸ばした手が泥で滑り、上手く掴めない。ともすれば意識を失いそうになるのを歯を食いしばって堪える。上を見れば雨が顔を打ったが、それでも頂上はもう目前に見えていた。逸る気持ちから壁の窪みにかけていた足を踏み外してしまう。体が一瞬壁を離れ、白い髪がふわりと浮かぶ。次の瞬間重力が彼の全身を鷲掴みにした。
「ぐぉっ……あ……!」
 辛うじて片手で掴んだ草に、彼の体は支えられた。荒い息を抑え、再び上を目指す。
 柱と柱を繋ぐ石材の上は休憩できそうだったが、男はその横を通り過ぎる。既に体はかなりの部分が溶けてしまっている。左腕のリングはもう殆ど光を発していない。
 最後の縁にようやく手がかかった。男は腹から低い声を出して全身を引き上げる。その壁の縁より上にはもう何もない。両腕で縁にしがみついて乗り上げる。その、彼の体の幅ほどしかない頂上に、男はどかっと座り込んだ。俯く彼の背に雨が降り注ぐ。男は肩で息をしながら、
「できるじゃねーか……。……もっと、早いうちに……挑戦するんだったよ……。……まったく……」
 と呟いた。その声は聞き取れないほど低くなっていた。
 既にどろどろになった顔を上げ、彼が辿り着いた場所からの景色をその目に入れた。無意識に、感嘆とも悲嘆ともとれる呻き声を上げる。
 彼の眼前には果てしない大地が広がっていた。森は少なく、岩山や砂地が大部分を占める物悲しい景色だった。彼らがいた庭園は塔のような建物の頂上に位置し、大きな陸橋によって雨に霞む山岳へと繋がっている。
 その山岳の山際に、青白い閃光が走った。陽光とも稲光とも違うその光は、鈍色の空に浮かぶ巨大な影を照らし出す。それは遥か地の果ての景色のはずだったが、男がいる庭園からでもその影の形ははっきりと見て取れた。
 それは黒い飛竜だった。大きな翼を広げ、牙を剥いて空を飛んでいる。閃光はその竜が発しているものではなかった。竜は閃光に打たれながら、大地の上を狂ったように舞っていた。
「何……だよ……。え……」
 男の唇の端から、ふっと小さな笑いが漏れた。リングの光は完全に消えていた。
 竜の戦いはまだ続いていたが、男はもうそれを見てはいなかった。雨は激しさを増し、風が彼の体に吹き付けた。彼の体はゆっくりと傾き、次の瞬間庭園の外の奈落へと男は消えていった。


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