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 そこは永い静寂に包まれた、小さな部屋だった。雑然と物が散らかったその部屋に、一人の科学者がいた。
 科学者は、広い机の上に横たわる少女を椅子に座ってじっと見守っていた。袖を捲った彼の白衣は土で酷く汚れている。やや目からずれた丸眼鏡もあまり良質のものではなかったが、そのレンズの奥にある瞳は穏やかで優しい。何かに対する期待と僅かな不安のこもった視線を、科学者は少女に向けていた。
 やがて、少女の瞼がぴくりと震えた。仰向けになったまま彼女は微かに身動きをとる。ややもせずその大きな目を開いた。金色の前髪の下から、空に溶けて滲んだような青い色の瞳が、ぼんやりと天井を見上げた。
 科学者は椅子に座ったまま、そっと彼女に声をかける。
「目が……えっと、目が覚めましたか? あ、おはようございます」
 少女は横になったまま科学者のほうを向いた。彼女と目が合い、科学者の身に一瞬緊張が走る。
「あの、初めまして。気分はどうですか? えーと……」
 少女はきょとんとした顔をしていた。科学者の言った意味を理解しているのかどうかどうか、その顔からは窺い知れない。科学者は反応が無いのを見て、ええと、と頭を掻きながら言葉を探した。
 少女はゆっくりと机の上に起き上がった。彼女の体から土片がぱらぱらと机の上に零れ落ちる。
「あ、起き上がって大丈夫でしたか? どこか上手く動かないところとか……」
 科学者は心配そうに言うが、少女は首を振った。言葉は通じているようだった。科学者はほっと胸を撫で下ろし、改めて少女に向き直った。
 小柄な少女だった。袖のない無地の真っ白なワンピースを身に纏い、その上から肩と首を隠す黒い布を羽織っている。肌の色も服に負けないほどに白く透き通っていた。
「……ナル」
 科学者は不意にその言葉を口にした。小首を傾げる少女に、科学者は微笑みかける。
「あなたの名前です。ナル。……あの……気に入らなかったらごめんなさい。私色々考えたんですけど」
 ナルと名づけられた少女は黙って視線を落とした。自分の体を確認するように、両手両足を眺める。その仕草を見て科学者の顔が自然と綻ぶ。
「私はここで土人形の研究をやっている者なんですね。一人ですけど……。これから、よろしくお願いします、ナルさん」
 ナルは返事をせず、黙ってじっと科学者の顔を見つめていた。科学者は、あれ、と中指で眼鏡を押し上げた。全く意思が通じていないわけではないようなのだが、ナルからは言葉や表情といった彼女の意思が一切返って来ない。

 本のページを捲る音が夜の小部屋に響いていた。窓際の机に腰掛け、琺瑯の燭皿の下で科学者は分厚い文献を紐解いている。閉ざされた窓の外は暗いが、透明な窓ガラスを通して星の光が夜空に瞬いているのが見えた。
 科学者はページを捲る手を休め、口に手を当てて考える仕草をする。難しい顔をしてほんの文面を目で追いながら呟く。
「……何でだ……? リングは最高純度のはずなのに……。やはり人形には……」
 ことり、と小さな音がした。科学者は顔を上げて振り向く。
 机の上で寝ていたナルが起き上がり、床に降り立った音だった。彼女は眠そうな目を擦りながら、てくてくと科学者に近づく。
「あ、起こしてしまいましたか……。ごめんなさい、もう寝ないとですよね」
 科学者は辟易して眼鏡を外した。疲れた目元を指で揉む。
 ナルはそんな科学者の顔をぼんやりと見上げていたが、ふと彼が読んでいるものを覗き込もうとした。だが背の高さが足りず、爪先立ちしてふらふらとよろめく。
 科学者はくすくすと笑って、近くにあった小さな椅子を引き寄せてナルをその上に座らせた。本を開き、彼女に見せる。
「これは本です、ここにあるのは全部、土人形を作るために私が集めた資料なんです。……あ、字は読めませんよね……これから少しずつ覚えていきましょう。ね?」
 ナルはこくりと頷いた。科学者も頷き返す。
 その難解な記述の羅列を科学者がナルに少しずつ読み聞かせる声は、夜更けまで絶えなかった。

 晴れた日の庭園は陽の光をよく受け、その緑と水を眩しく輝かせる。庭園に足を踏み出したナルの耳元を冷たい風が通り過ぎる。
 庭園には様々なものがあったが、彼女は多くには興味を示さなかった。草地の上に座ったり石柱に凭れかかったりしては空を見上げ、流れる雲を飽きることなく目で追い続ける。今は石橋近くの倒木に背を預けて座っていた。
 科学者はそんな彼女を、少し離れた木立の下から見ていた。膝の上に頬杖をつき、晴れない顔をしている。
 風が吹いて、科学者の目の前に数枚の木の葉が舞い落ちた。彼はふと思い出したように、
「あのっ……」
 とナルへ呼びかけた。ナルはゆっくりと科学者のほうを向いた。科学者は彼女に見つめられてやや戸惑いを見せる。彼は特に用も無く少女の名を呼んだらしく、慌てて言い繕う。
「あ……あの、水には気をつけてって、いつも言ってますけど……。雨が降りそうになったら、すぐ屋根の下か、それか部屋に戻ってきてくださいね」
 ナルは小さく頷くと、また空へと視線を戻した。科学者はそっとため息をつく。
 と、突然ナルの体がふらっと揺らいだかと思うと、彼女は土の上に倒れこんだ。とさっという軽い音がして、彼女はそのまま動かなくなる。科学者は顔色を豹変させた。立ち上がり、何もないところに蹴躓きながら彼女の元へと向かう。
「だっ、どうしたんですかっ?」
 彼が駆けつけてもナルは起き上がらなかった。科学者は彼女を揺り起こそうと手を伸ばしたが、直前で何かに気づいてその手を止める。柔らかな土の上に横になった彼女は、小さな寝息を立てていた。口を少しだけ開け、安らかな顔ですやすやと寝入っている。
 科学者は気が抜けたように肩を落とした。風で少女の顔にかかった彼女の前髪をそっと退けてやる。彼女から少し離れた場所に腰を下ろして、彼女がそうしていたように空を見上げた。陽の光を受けて輝く雲はゆっくりと北へ流れている。科学者は眩しそうに目を細めた。
 そのとき突然、どこかから堅い足音が聞こえた。科学者ははっとして立ち上がる。それは複数の馬の蹄の音だった。誰かが庭園へと近づいてきているようだった。やがてそれは庭園のすぐ外で止まり、扉の外で誰かが声を張り上げる。
 科学者は暗い顔で扉を真っ直ぐに見つめると、白衣のポケットから鍵を取り出して扉へと向かった。

 科学者の部屋にはいつになく多くの人間が入っていた。宗教的な装飾の目立つ武具を備えた神官たちが、科学者に威圧を与えるかのように部屋の戸口に三人ほど立っている。
「何度……何度来られても、私の返事は変らないです」
 科学者ははっきりとそう言った。ナルは科学者の背に隠れ、事の成り行きを無表情で見守っている。
「近頃の竜の話は聞いています、どれだけ被害が大きいかもよく分かっています、でも」
 科学者は一時言い淀み目線を横に流した。ナルがその透明な眼で彼を見上げている。棒のように佇む彼女を、科学者はその背に隠した。彼の白い背中を、ナルは無言で見つめている。
「私はそんな、竜退治の兵にするためにこの子……この研究を始めたのではないんです、どうか分かってもらえませんか。第一、土人形は姿かたちは自由に決められても、量産はできないんですよ。あの希少金属は、あれは純度を下げても、あとリング三つ分くらいしか残ってないです」
 しかし神官たちは引き下がらなかった。科学者以上に熱を込めてその主張を口にする。その要求を、額に汗を滲ませながら科学者は繰り返し拒んだ。その口ぶりにも次第に熱が篭っていく。
「駄目です駄目です、あなたたちが言っていることはこういうことです、誰か、自分以外の誰かが犠牲になるべきだっ……。……え、何ですか……。……いいえ、土人形なら、だから尚更いけません、死なせるために生み出すなんて、そんな勝手が許されますか! この子の、土人形の悲しみを……っ……いいえ、あります! そう、人形でもココロは持っているんです」
 科学者は歯を食いしばった。言葉を切って項垂れた彼の脳裏に閃きが走る。
「あ……うっ……」
 彼は急に思い詰めた顔で押し黙った。少し態度が変わった彼を神官たちがここぞとばかり畳み掛けようと口を開くが、科学者は手を上げてそれを押し止める。
「少し……考えさせてください。今日のところはこれで、これで帰ってください。すぐに返事は用意します、必ず用意します。ですから……」
 嘆願するようにそう言う科学者の顔は酷く暗い。彼は何を考えているのかその場では口にしなかった。丁度ナルの目の高さにある科学者の右手は、震えるほど強く握りしめられていた。

 普段ナルが寝台代わりにしている机の上に、その晩は様々な研究書が並べられていた。ランプを天井から吊るし、その明かりの下で科学者はページが開かれた本の山の前に立っていた。複数の書物を同時に参照しながら、時折本棚へ駆け寄っては大量に机の上の本と別の本を入れ替える。本棚の一番上の段からも何冊か取り出したせいで、部屋には埃が舞いランプの明かりが曇った。
 机の上に開いて並べられた本は、どれも紙の古いものだった。複雑な数式や呪文のような記号が羅列してあるものもあれば、中には巨大な獣の全身が描かれたものもあった。科学者はそれらをじっくりと読みつつ、何か考えついては壁に貼り付けてある紙に書き留めていった。
「……できるのかな……私に……」
 少し興奮気味の科学者の口から、吐息のような呟きが零れた。彼の額には汗が滲んでいる。
 彼のすぐ隣で、ナルは科学者がいつもそうしているように窓際の机に突っ伏して眠っていた。背の低い彼女は椅子に座ると足が床に届かず浮いていたが、彼女はその格好で熟睡しているようだった。顔のすぐ近くにある窓は、少しだけ開いていた。冷たい夜の空気がそこから部屋に流れ込み、ナルの髪が夜風に靡いている。
 本の山から顔を上げ、額の汗を拭って一息ついた科学者は、何気なくナルに目をやって開いている窓に気づいた。気配を忍ばせて近寄り、窓をそっと押した。小さな音を立てて窓は閉まり、夜気が遠ざかった。科学者は、ふう、と肩の力を抜き、椅子の上で眠るナルを見下ろした。
 すやすやと微かな寝息を立てて眠るナルの横顔をじっと見つめる。少女のあどけない寝顔は、科学者の気を少しずつ落ち着かせた。彼女の頭を撫でようと手を伸ばすが、思いとどまってやめる。大量の自筆の書留が貼り付けてある壁にもたれかかってひとりごちる。
「もう……」
 背を離し、再び本の山の前へと向かった。
「私が、やらなければ……」
 決意に満ちた眼差しで、彼は本のページを捲り始めた。見開きで、険しい山脈の上を悠々と飛ぶ竜の絵が現れた。

 開かれた庭園の門の前に科学者が立っている。白衣を脱ぎ、旅装束に身を包んだ彼は、不思議そうに彼を見つめるナルを見下ろして少しだけ上ずった声で言う。
「……そ、それじゃぁ少し、出かけてきます。帰りはちょっと分からないです、おそ……遅くなるかもしれません。竜は、竜は随分遠くにいるって聞いてますから」
 科学者の説明を聞いても彼を見上げるナルはぽかんとした顔をしていた。科学者は苦笑を浮かべると、そっとナルの頭を撫でようと手を伸ばす。が、彼女の髪に触れる寸前で手を止め、腕を下ろした。
「……一つ、お願いしてもいいですか」
 科学者の言葉にナルは素直にこくりと頷いた。科学者はしかしどこか浮かない顔で切り出す。
「私がいない間、ここの留守を預かっておいて貰えないでしょうか。いえ、できるだけ早く帰ってきます、頑張ります」
 科学者は懐から小さな木箱を取り出した。その仕掛けを少女の前で外して見せ、中から一本の鍵を取り出す。
「この庭園は、外からは開けないです。そして鍵はこれだけなんですね。これを、あなたに渡します」
 ナルの小さな手にその木箱を握らせる。
「私以外の誰かが来ても、絶対に開けないでください、きっとあなたを連れ去るはずです。……でも、あなたが外に出たかったら……出ていいです。私が帰って……帰りが遅かったら、もし嫌だったらここは捨ててください。自由です、あなたの。但し人に見つからないよう、気をつけてくださいね。人に知られてはいけません」
 科学者は繰り返し念を押した。目の前の少女のことを心から案じている様子だった。当のナルは何も考えていないような顔でまた頷く。
 それを見て、科学者はどこか寂しげに小さな声で呟く。
「……すみません、本当に身勝手な、身勝手な親で……」
 それから彼は思い出したように、また懐から何かを取り出してナルに渡した。ナルは、見慣れないそれを手のひらの上に載せてしげしげと観察する。
 それは金属でできた三つのリングだった。一見してどれもこれといった装飾もないただの光沢のある輪だが、暖かな光を発している。
「リングです、土人形の動力源です。……実は作っていたんです。あの方々の言うような目的のために、って考えて。……はは」
 科学者は人差し指で頬を掻く。
「改良してあるのであなたとは少し違っているかもしれないです。ただ少し純度を落としてあるので、もしかしたら寿命が短いとか、あなたに比べてよくないところもあるかもしれません。でも、やっぱり……戦わせる、死なせるためには使えませんでした、私には。それをあなたに託します。もし……もし退屈だとか、一人が寂しかったりしたら、それで……それで友達を作ってください」
 ナルはそれぞれのリングを手にとって調べている。
「あの……やり方、覚えてますよね?」
 科学者は心配そうにナルの顔を覗き込んでそう尋ねたが、ナルは彼の目を見つめ返して力強く頷いた。
「はい、よかったです。それじゃぁ、そろそろ行かないと」
 科学者は庭園の入り口の縁に手をかけ、外に一歩足を踏み出してから振り返った。精一杯の笑顔を浮かべ、別れの言葉を継げる。
「行ってきます。きっと……きっと帰ってきます。もしよかったら……また会えると嬉しいです」
 科学者が門の向こうへ出て行くと、扉がゆっくりと閉まり始めた。ナルは澄ました顔のまま、扉に隠れていく科学者の背を見送っていた。

 閉ざされた庭園には少女がただ一人だけいた。
 昼のうちは日の当たるところで空を見上げて過ごした。
 雨が降りそうになると屋根の下か部屋の中へ避難した。
 夜は部屋の窓を閉め、机に突っ伏して眠った。
 そうして長い時間が過ぎていく。科学者は何時になっても帰って来ず、庭園を訪れる者もまたいなかった。少女は一人で寝ては起き、何もせず何の感慨も抱かずに暮らし続けた。
 鍵の入った木箱と一緒に、ずっと机の引き出しに閉まっていた三つのリングが彼女の目に再び留まったのは、彼女が朝起きたときはっきり覚醒しないうちに偶然足で引き出しを押し開けたときだった。

 暗い屋根の下で、魔法つかいは横たわる紅い髪の少女の体を黙って治療している。
 既に雨は上がり、日が傾いて夜が近づいてきている。魔法つかいは部屋からランプを庭園に持ってくると、それに火をつけて紅い髪の少女の体を照らした。やがてランプの明かりを除いて辺りが真っ暗になっても、魔法つかいは休むことなく作業を続けた。
 著しく人間の形状から遠ざかっていた少女が再び意識を取り戻したのは、次の日の朝日が昇った後だった。


 ぼんやりと目を開けた少女は、ゆっくりと首を動かして傍らにぺたんと座っている魔法つかいの顔を見上げる。魔法つかいは依然として少女の治療を続けていたが、少し様子が変だった。大きな瞳は閉じかかっており、動作も鈍く見ていると時折上体がふらふらしている。
「あ……あの人は……?」
 少女の呂律は上手く回っていなかったが、上ずった声で彼女は魔法つかいに問いかける。
「あの……男は……その、どうなった……?」
 魔法つかいの手が止まった。魔法つかいは何も言わなかった。だが、真っ直ぐに彼女を見上げる少女から目を逸らす。少女の顔に、俄かに悲愴が広がる。
「あぁ……」
 気の抜けた声を上げた。高い天井を見上げ、ぎゅっと両目を瞑る。
 魔法つかいは作業を再開した。紅い髪の少女は、まだ片腕が繋がっていないままだった。足首のリングは光度を限界まで失っていた。

 魔法つかいがそれ以上少女にすることがなくなっても、少女は自力で立ち上がることができなかった。魔法つかいに手を引いてもらい、どうにか体を起こして地面に座り込む。
「あ、あの……な。もう、昼過ぎか……」
 どこか胡乱げな口ぶりで少女は呟いた。
 魔法つかいは立ち上がり、少女の手を引っ張って庭園の日の当たるほうを指差した。向こうへ行かないか、と言いたげな仕草だった。だが少女は、
「あぁ、うん……あー……」
 と気が乗らないらしく返事が重い。
 魔法つかいは少女の横に屈み込み、彼女と目の高さを合わせた。その真っ直ぐな瞳に見抜かれて、少女は思わずおどおどと視線を逸らす。が、すぐに向き直って、
「ごめん、あっ、あの……わ、悪いな。私ちょっと変だな」
 と申し訳なさそうに言った。魔法つかいは首を横に振る。少女の顔に、いつもの明るい笑顔が戻り始めた。
「そうか、うん……。何かちょっと頭はっきりしてきた。向こうに、向こうのほうに行こうかな」
 手を床につき、思うように動かない体をうんうんと唸りながら立ち上がらせる。立つまでは自力でできたのだが、一歩踏み出した途端彼女は眩暈でよろめいた。魔法つかいが駆け寄り、さっと少女の背を支える。魔法つかいに触れられた瞬間少女の体が心なしか強張った。
「ありが、と……。大丈夫、私、歩けるっ、から」
 少女にそう言われて、魔法つかいは仕方なく彼女から手を離した。よろよろと頼りない足取りで日の光の下を目指す少女の数歩後ろを魔法つかいが歩く。途中、少女が一度魔法つかいを振り返ると、彼女は何、とでも言うかのように首を捻って少女の顔を見つめ返した。
「あの……そのっ」
 少女は一度口にしかけた言葉を飲み込み、どこかやりにくそうな顔をして前へ向き直った。魔法つかいに背を向けて歩きながら、肩越しに小さな声で言う。
「……なんでもない、よ……」
 魔法つかいの足が止まった。暫しそのまま日差しの中へ入っていく少女の後姿を眺め、やがて彼女も少女の後を追った。

 机の上に乗り、庭園から持ち帰ったランプを天井から吊るす。とうに火は消えており、闇夜のその晩に部屋にいる魔法つかいの足元を照らすものは何もない。彼女は慎重に机から降り、窓際まで向かった。
 椅子を引いていつものように眠りの体勢に入ろうとして、ふと窓が開けたままになっているのに気づいた。身を乗り出して窓枠に手を掛けて窓を閉めようとすると、冷ややかな外気が彼女の腕を撫でた。窓の隙間から少しだけ手を差し入れ、屋外の空気の冷たさを確認する。
 椅子から立ち上がると、魔法つかいは何も持たずに部屋を出た。階段をゆっくりと下りて庭園に立ち、まだ僅かに光を残している少女のリングを見つける。
 少女は屋根の下の壁際に座り込んでいた。自分の膝を抱えて小さくなっている。俯いているため起きているのかどうかは分からなかった。彼女のそばに来た魔法つかいは、様子を窺うように近くに腰を落とす。
「もう……嫌だな……」
 少女の声がした。まだ起きているようだった。魔法つかいは無言で座ったまま彼女の隣に寄った。
「何で、先にいなくなるんだ、よ……。……おかしいだろ……」
 膝を抱える手に力が入る。肩の震えが声の揺らぎとなって発せられる。
「一人は嫌だ、寂しいよ……もう……私……」
 魔法つかいの手が少女の肩にかかった。必要以上に身を寄せることはしない。ただ彼女を宥め慰めるだめにそっと肩に手を置いているようだった。
 少女の肩の震えが徐々に治まっていく。魔法つかいは少女の彼女を案じるようにそっと顔を覗き込んだ。少女が僅かに視線を上げ、暗闇の下二人は互いの顔を見た。魔法つかいは何も喋らず、そして少女も何も言わなかった。
 静寂の中夜は更けていく。

 青く晴れ渡った空を、庭園に二人並んで座って見上げていたとき、ふと少女が、あ、と言って魔法つかいの顔を見た。
「あの……その、ちょっと部屋見てもいいか。べっ別に、ちらっと見るだけだから。私はほらあの、変に探ったり、荒らしたりしないぞ、断じて」
 少女は幾分か容態がよく、快活に喋っている。魔法つかいが先に立ち上がって少女に手を差し伸べるが、彼女は大丈夫だ、と言って自力で立ち上がった。歩くのは流石に不自由があるらしく、魔法つかいに半身を支えられながらそろそろと部屋を目指した。
 階段を一段一段気をつけながら登りきり、滝の裏の門を潜り抜ける。相変わらず散らかって足の踏み場に困る部屋だった。少女は部屋の中心においてある机まで支えられて歩くと、ここでいいから、と魔法つかいの手を離して部屋を見回した。魔法つかいは彼女のそばを離れ、様子を見ながら窓際の椅子を引いて腰を下ろす。
「君は……」
 机に少しだけ体重を預けながら、少女は魔法つかいのほうを向いた。
「いつもそこで、そう、寝ていたのか」
 魔法つかいは頷き、机の上にくたっと突っ伏して見せた。少女が笑う。
「そう、か……」
 少女は手元に目を落とす。埃の乗った机の上は、よく見ると板と板の間に乾いた土が挟まっている。少女は何気なくそれを指で撫でながら、
「寂しくなかった……か……? その……」
 ちらりと魔法つかいのほうを見やる。魔法つかいは返事を返さず、机に上半身を投げ出したままじっとしていた。
 少女は再び俯き、ぼそぼそと話し出す。
「変だって、思ってた。何でって……」
 魔法つかいが顔を上げ少女のほうを見ているのに気づき、少女は言葉を言い足す。
「君のことじゃない、ほら、あの女の、女の人が……溺れたとき……。……私何とかして助けようとして、そのときあの人に言われたんだ。君を」
 魔法つかいと少女の視線が交差する。
「君を……よろしく頼むって。だって変だろ、あの人、君を避けてたのに。避けてた……のか。よく分からないぞ。何なのかな。うん……」
 しばらく押し黙る。少し眠そうな目になってきた少女は、軽く頭を振って意識を保つ。少女の、机に置いた手に少しずつ彼女の体重がかかり始めていた。
「私、あの人の頼みをきけてあげてたのかな……。今は……どう、どうだろ?」
 魔法つかいに問いかけるような視線を送る。魔法つかいは躊躇わず、しっかりと縦に首を振った。少女の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「そうか……あれ、今何て答えたんだ? 質問の仕方変だったな……まぁでも、うん……ならいいんだ。いいや。君がいいなら、私は……」
 少女の言葉が途切れたかと思うと、彼女の瞳から不意に光が失せた。体の力が抜け、彼女は机に寄りかかりながら床にへたり込んだ。
 椅子を蹴飛ばすように立ち上がった魔法つかいはすぐさま少女の下へ駆け寄った。その細い身で少女の体を抱きかかえるようにして支え、床に寝かそうとした。
「……あ、ごめ……」
 少女は辛うじて意識を繋ぎとめていた。魔法つかいの顔は見ず、ぼそぼそと聞き取りづらい声で言う。
「そう、だな……できたら、草の上に、土の上に……あっちがいい……。……頼める、か……」
 魔法つかいは頷き、少女の両腕を抱えて戸口へ向かった。運ぶ途中、机の脚に当たった少女の左腕が簡単に砕けて床に落ちた。

 水路に囲まれた、陽の光をよく受ける草地の上に少女は横になっている。薄目を開いて空を見上げていたが現在意識はないらしく、虚ろな顔をしたまま崩れかかった体を魔法つかいに委ねていた。
 魔法つかいは少女の体の修復に専念している。少女の左腕は二の腕から下が全て土に還ってしまい、完全な復元には時間を要した。途中土が足りなくなり、魔法つかいは大急ぎで部屋へ土嚢を取りに行く。が、彼女一人の力で運ぶのには時間がかかりすぎるということに気づき、空になった土嚢の袋を持って庭園へ戻ってきた。木立の軟らかな土を手で掘り起こして袋に詰め、再び少女の下へと走って向かう。
 腕の形を再現しても、それはそう簡単には少女の体の一部にはならなかった。肩に継ぎ足す形で腕を作っても必ずどこかが脆く、土を払っていくうちにそこからまた崩れてしまう。魔法つかいの手の動きは次第に慎重になり、肩に近いところから少しずつ腕を復元していった。
 手首まで崩れずに腕を復元したとき、魔法つかいはふと少女の足のほうを見た。彼女の右膝が、いつの間にか崩れていた。そこから爪先までの足が無く、その下に茶色い土が小さな山を成している。
 魔法つかいは手の復元をそこで止め、土を持って少女の足の側へと移動した。膝元に土の山を作り、土を手でこねる。治療を始めて少ししたとき、ごとっという音がして彼女は顔を上げた。先ほど治した左腕が肘から土になって崩れ落ちていた。魔法つかいは一時手が止まったが、すぐに顔を伏せると右足の治療にとりかかった。
「あ……れ……?」
 小さな声がした。少女が意識を取り戻していた。魔法つかいはちらりと少女の顔を確認し、また足に目を戻す。
「あぁ……治して、くれてるのか……? 私、私を」
 少女は首を動かすことができず、真っ直ぐに空を見上げたまま言った。
「……ありがとうな……。でもあの、多分、あれ……あれだ。もう結構、何か……きついだろ」
 少女の声には悲しみはこもっていなかった。既に何もかも諦めた、安らかな声だった。
 魔法つかいは少女の言葉に答える代わりに、彼女の左手にそっと自らの手を重ねた。握れば手は崩れてしまうほど少女は弱っていたため、触れているか触れていないか分からないほどに軽く置く。
 少女は魔法つかいの反応に、ん、と意外そうな声を出した。
「何か君……変ったな。いや……何となくな。どこがっていうか……ああ。うん……ごめんよく分かってない」
 少女はそう言って控えめに笑った。魔法つかいは手を休めない。
 木立の葉の陰に留まっていた小鳥が、数羽二人の近くへと舞い降りた。少女にはその姿は見えなかったが、羽音を聞いて嬉しそうに微笑む。
「やっぱり外は、気持ちがいいな」
 爽やかな風が吹き、少女の髪を揺らした。そっと目を閉じ、頬に風を感じる。暖かな日差しの中で、少女はゆっくりと深呼吸した。


 光の溢れる庭園の真ん中に、一人の紅い髪の少女が目を閉じて仰向けに横たわっている。彼女の体は元の形をどうにか取り戻してはいたが、既に足首のリングは光を失い、少女は体を動かすことが全くできなかった。
 少女の隣には、彼女より少し幼く見えるもう一人の少女が座っていた。紅い髪の少女には触れず、彼女を見守るようにそこを動かない。俯いており、前髪でその顔が隠れている。
「ま……ほう……つか……い……」
 紅い髪の少女の唇が僅かに動き、その合間から掠れた声が聞こえた。魔法つかいと呼ばれた白い服の少女は返事をせずじっとしている。
 少女は残された僅かな時間を言葉に込めるように、
「ごめ……ん……。一人に……し……て……。あ、後……」
 と言った。一呼吸置き、殆ど聞き取れないような小さな声で続ける。
「いっしょに、いて、くれて……うれしかっ……」
 唇を少しだけ開けたまま、少女の動きは止まった。彼女は完全に沈黙し、もう言葉を発することは無かった。
 魔法つかいは同じ姿勢のまま無言で固まっていた。彼女はそのまま、永い間そこでそうしていた。俯き、口を真っ直ぐに結んでいる。その大きな青い瞳は穴が開くほどに自分の膝の一点を見つめていた。言葉は無く、ただその小さな両手を握り締めて小刻みに震わせていた。
 やがて彼女は立ち上がる。すぐそばの地面に置いてあった木箱を手に取り、仕掛けを外して蓋を開けた。中から取り出した菱形の鍵を持って、庭園を外界から隔てる扉の前へと向かう。
 堅く閉ざされた扉は長いこと動いてないらしく、表面に蔦が這っていた。魔法つかいは背丈の三倍ほどもあるその扉を見上げ、鍵を持つ腕を持ち上げた。

 魔法つかいが戻ると、少女の体は少しずつ土へと戻り始めていた。肌の色が失われ、表面に皹が入り始めている。魔法つかいはそれを見、再び少女の体の隣にぺたんと座った。
 魔法つかいの右手が徐に動き、彼女の胸を抑えた。消え行く少女の隣で空を見上げ、口を少しだけ開ける。その口からは言葉は発せられないが、彼女は誰かに何かを伝えようとしているかのように深い呼吸を繰り返していた。
 空には薄い雲がどこまでも広がっている。その全てが太陽の光を半分ほど遮り、まるで雲そのものが光を発しているかのように白く輝いている。頭上遥か高くを鳥の群れが横切る。雲の切れ目から差し込む陽光が空気に幾重もの光の線を描き、鳥たちはその合間を縫うようにして遠くの空へと消えていった。
 魔法つかいは首を隠す黒い布に手をかけ、それを引き下げた。その下に手を差し入れ、彼女の首に嵌っていた金属製のリングに触れる。目映いほどの光を放つ表面を撫でているうちに、かちりと音がしてリングは綺麗に二つに割れた。彼女はそのリングを首から外し、横たわる少女の左の足首にそれをあてがった。もう光を発していない彼女のリングの上に寄り添うように割れたリングを合わせる。またかちりと音がして、新たなリングは少女の足首にしっかりと嵌った。
 魔法つかいは緩慢な動きで再び少女の隣に腰を下ろす。その体がゆっくりと横に傾き、倒れ、そして地面にぶつかる。その瞬間、魔法つかいの体は土の塊となって粉々に砕け散った。


 どれだけ時間が経ったのか定かではない。
 陽の光の下で、紅い髪の少女はそっと目を開けた。覚醒と同時に気の抜けた声が口から零れる。
「……あ……れ……?」
 自分の右手を空に翳し、握ったり開いたりする。確認するように自分の頬に触れ、肩に触れ、それからゆっくりと起き上がった。
 辺りを見回し、小声で呼びかける。
「魔法……つかい……?」
 庭園には彼女の他に動く者はいない。少女はしばらく呆けたようにその場に座り込んでいた。
 と、彼女の目が石柱群の奥のほうに留まる。そこにあった庭園の石扉が開かれていた。その向こうに、外の景色が覗いている。


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