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 緑の生い茂る大地にしとしとと冷たい雨が降っていた。
 その雨の中、襤褸に身を包んだ一人の男が巨大な岩陰を目指して走っていた。男は怪我を負っているのか、その走り方はどこか不自然だった。
 岩の陰へ入るともう雨は彼の体を打たなかった。彼はほっと息をつき、どさっと倒れるようにして小さな岩に腰掛けた。
「あっ、あのっ」
 そのとき岩陰の奥の暗がりから、女性の声が聞こえてきた。男はおや、と顔を上げてそちらを見やる。
 そこには先客がいた。ほぼ全身を厚い布で覆い、非常に動きにくそうな格好をしている。体格や布の隙間から僅かに覗く顔立ちから、彼女が成人していない少女であるらしいことは分かる。
 男は雨に濡れた頭を掻きながら、
「あ、こ……こんにちは。あなたも、雨宿りですか」
 と少女に挨拶をした。息が上がっていたためやや聞き取りづらかったが、穏やかで優しげな声だった。
「は、はい、うん、そうだ。そうだな」
 少女は少し緊張しているのか、時折声が上ずっている。
「こう、ここに何かこんなのがあって助かったな。ほら何ていうか、そろそろ降りそうだってことは思ってたんだけど、大分家とか街とかから離れちゃってから、戻るわけにも行かないし」
「そう、ですね。私も焦りました。結構濡れちゃいましたけど。っ痛……」
 男は顔を顰めて肩を抑えた。
「え、な、怪我してるのか……?」
「あはは、はい。ちょっと、竜の……いっ、いや、なんでもないです。これは色々あって、怪我しちゃいました」
「そうか、大変だな」
 男はいえ、と言って微笑む。
「それに結構長く歩きましたから、へとへとだったんですね。雨降らなくても、ここで休んでたかな」
 男はそこで言葉を切り、しばらくの沈黙の後、ところで、と話を変えた。
「どこへ向かわれてたんですか。こんな、雨の中」
「私か、私はその、あの、特に目的地っていうのじゃないんだけど……まぁ君が来たほうに行こうって、そんな感じだ。適当だけど」
「あぁ、そうでしたか。なら、すぐ先に街があります、休んでいくといいですよ」
 男のその言葉を聴いて、少女はあれ? と首を傾げる。
「なら君は、そこで休まなかったのか?」
 男は静かに首を振った。
「いえ……。私、早く行きたかったんですよ。というより早く帰りたかったんですね。今家に向かってる途中なんです、結構長く留守にしてまして」
「へぇ、そうなのか。家が心配、とか」
 男はまた首を降る。
「……というより、待ってる人がいるので……。……いや、嘘です、分かりません」
 何処か声色を落とした男の顔を、少女が訝しそうに覗き込んだ。少女の顔を覆う布の合間から、紅い髪が垂れる。
 男は訥々と語る。
「私を待つ理由はないかもしれないです。ないです。あの子は……最後まで私に心を開いてくれませんでした。今頃家を開けて、どこかへ行ってしまっていても変じゃないです」
「そう……か……」
 少女は少ししおらしくなって男から離れた。
「いえ、それはでも寧ろ嬉しいことです。私、本当はその子にココロがないのかって思ってました。ずっと……。でももしそうなら、もし家が空だったら、あの子は自分の意思で、旅に出たんですよね」
「それはっ」
 少女が突然顔を上げて男のほうを見た。男は思わず口を閉ざす。
「ココロがないなんて、あるんだ、離れてると分からないこともあるけど……。だから帰ったら会ってやれよ、その子に。な?」
 男はしばらく少女の顔を見てじっとしていたが、やがて深く頷いた。
「……分かりました。きっと大丈夫です。きっと……」
 雨は間もなく上がった。雲の切れ間から日光が差し込み、大地を照らした。男と少女は互いに短い言葉で別れを言い合い、そして別れ、それぞれの道を歩み始めた。
 道にできた水溜りが、次第に明るくなっていく空を水面に映していた。


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