chk_7

 大地震が過ぎ去ると、街は奇妙な静けさに包まれた。
 クラーシェは孤児院の玄関先に倒れ伏した人々を見下ろし、静かな声で告げる。
「立ち、そして忘れよ……なすべき仕事を……唯、なせ。居るべき場所に……唯、居ればよい。……貴様らの子は、死んだ……故に、唯、忘れよ」
 クラーシェのその言葉に、今度こそ激昂したイザベルが高笑いと怒号の入り混じった叫びを上げる。
「かはっ、あっははははっ! 聞いたか、聞いたか皆の衆、このお方が何と仰ったか! 我らの子は死んだ、故に忘れよ、と? ひゃはは、はっははははは!! 最早これは専制だっ! さぁて、許しておけるだろうか!? 皆の衆、許せるだろうか、このような支配者を、このような街のあり方を! はっ! 立て、そして倒してやろう、この街を支配し、人間のあり方を否定する者たちを! 我らの子の仇を! さし当たってこの女から血祭りに上げてやろうじゃないか!!」
 人々は二人に言われたようにのろのろと立ち上がった。そして呆然として互いに顔を見合わせると、一人、もう一人と無言でその場を立ち去り始めた。誰もがたった今夢から目覚めたような表情を浮かべており、皆一様にぼんやりと魂の抜けた目をしていた。
 イザベルは慌てて声を張り上げる。
「まっ、待って! どこへ行くというんだ、私たちのっ──お前らのなすべきことはこいつを倒すことだ、違うか!? 戻れ、戻るんだよ!」
 不思議なことに、彼女がどれだけ大声を張り上げても去り行く人々は振り返ることもせず、誰もが彼女の存在そのものをいないものとして振舞っていた。先ほどまであれだけ興奮していた大人たちが、今は見えない何かに従順になってそれぞれのいるべき場所へと帰っていく。
 逆上したイザベルは、そうして去っていく一人の男性の肩を掴み、彼を振り向かせた。彼は驚いた様子でイザベルを見、困惑を隠しつつ言う。
「あ、ええと……何かご用、でしょうか?」
 イザベルは激しくその肩を揺さぶり、
「な……何を、何を言っているんだ、メイヤーさん! ここまできて何もせずに帰るっていうのか?」
 と大声で言い聞かせた。
 その様子を冷然と観察するクラーシェが呟く。
「……無駄だ……」
 バジリウスは怯えるような目でイザベルを見、その手を振り払って彼女から離れた。
「その……すみませんが、私には仕事がありますので、失礼します」
「あんた娘さんを息子さんを持っていかれたんだろう、そこにいるあの女にっ!」
「え?」
 バジリウスはますます困惑し、イザベルを怪訝そうに見た。
「あの、……どうしてあなたがそのことをご存知なのかは知りませんが……。私の子ども達のことは、私の家の問題ですし」
「だ、だからあんたは悲しくないのかって──」
「仕方がありません、そういう決まりなんですから」
 それだけ言うと、バジリウスはイザベルから逃げるようにして走り去った。
 後に残されたイザベルは呆然として言葉を失った。孤児院の玄関先にひしめき合っていた彼女の同士は、今や誰一人として残ってはいなかった。閑散とした目の前の通りを見て、彼女は思わずよろめいた。
「やってくれたね……」
 だが彼女の意思はまだ折れてはいなかった。必死に呼吸を落ち着かせ、クラーシェに向かい合う。互いの視線が交差し、そしてクラーシェがぼそっと呟く。
「……憐れな……」
「何て言った?」
「そなたを……憐れと……言ったのだ……。……そなたも、幼少の頃は素直で……従順な、街の住人だった……。抗う力……意思……そういうものが、微塵も感じられぬ……故、私はそなたを……この街に残した……だが……」
 クラーシェは切れ長の目を更に細める。
「抗う力は……それを、得てしまった者は……眠り続けていればいいものを、往々にして、この街と相容れぬ……さりとて、湖≠フ支配力に……その存在に、打ち勝つことなど……人間風情には、到底叶わぬ……。如何にして……その力を、得たのか知らぬが……抗うより、従うほうが……幸福なのだ……」
「ふざけるんじゃない」
 イザベルは静かに言った。声は幾分落ち着きと余裕を取り戻していたが、クラーシェを睨みつけるその眼光には彼女の意思が滾っていた。
「抗う力ね。確かに昔はなんとも思ってなかったさ。儀式で友達がいなくなっても、十三年間可愛がった我が子がいなくなっても、そういう決まりだと……。そうさね、教えられたんだよ私は。あるとき──それほど昔のことじゃないが──私と夫は湖のほとりで変な奴に会った。翼を持つ獣人……そいつは私の子が島で死んだと教えてくれた。夫は自殺したよ、次の日に。それでようやく私は気付けた。この街はおかしい、ってね」
 ふっとその唇に何かを嘲るような笑みが浮かぶ。意識を封じられていた過去の自分へ向けられたものか、それともつい先ほどこの場を去っていった住人に対するものなのか、それは定かではなかった。
「……で。あんたはこれからどうするんだい、クラーシェ様」
 クラーシェはイザベルの話を聞いていたのかいなかったのか、単調な口ぶりで受け答える。
「もう、神殿に戻らなければ……。……私には、成すべきことが……あるのだ……」
「じゃぁ何であんたはここにいたんだい」
 イザベルは険しい表情でクラーシェを見据え、一歩彼女に歩み寄った。
「街へ出てくるのもその成すべきこととやらに含まれているのかね。……違うだろう、え!」
 鼻先が触れ合うほどにまで近づくと、イザベルはクラーシェの前髪を手で掻き分けその顔を覗き込んだ。
「嫌になったんじゃなかったかい? どうしたよ、クラーシェ様……いやクラーシェ。あんた自身は違うのか、あんたは抗う力ってのを持ってんだろ? そいつがあるから──あるいは、そいつを誰かに貰ったから──あんたはここまで逃げてきたんだろ! え、違うのかい?」
「……それは……」
「違うなら違うって言ってみなよ、ほら! そんな鬱陶しい喋り方してないでさ!」
「……違う。抗うも何もなく……私は、湖≠フ代行人に過ぎず……」
 クラーシェはそう答えるが、その足がふらつき彼女は一歩退いた。
「じゃぁ説明するがいい、どうしてあんたはここにいる! 自分は逃げ出したいときに逃げ出しておいて私達には体よく洗脳処理かい? そんなの私は認めないし、普通の人間なら黙っちゃいない。──あんたも普通の人間だろう、クラーシェ! さぁ答えろっ! どうしてあんたは神殿を逃げ出した!」
 完全にイザベルはクラーシェを威圧していた。クラーシェは何か言葉を返そうと口だけを動かしていたが、そこから言葉は紡がれなかった。自身の言葉が出てこないことが、クラーシェを次第に追い詰めていく。
「私は……っ……」
 ついに彼女はイザベルから顔を逸らし、彼女の目から逃れようと身を捩る。だがその手をイザベルが掴んだ。
「おい! 答えろ……そうか、答えがわからないのかい、自分でも。だったら教えてやろう。何、話は簡単さ。──あんたも支配されてんだよ、湖≠ニやらに! 今のあんたは嘘だ、あんたが口にする全ての言葉はあんたの言葉じゃない! 一度自分の意思で逃げ出しておきながら、例え何者かに支配されたとしても、そんな簡単に帰るなんて口にするな……!」
 クラーシェは突然身を翻すとイザベルに方からぶつかって彼女を突き飛ばした。突然の反撃に隙を疲れたイザベルは仰け反り、派手に転倒してしまう。彼女が起き上がるより前にクラーシェは駆け出し、どこかへ走り去ってしまった。
 イザベルは慌てて身を起こしたが、そのときには既にクラーシェの姿は彼女の目が届く場所にはなかった。
「……ったく」
 悪態をついて起き上がる。
 ふと視線を巡らすと、孤児院の玄関口に一人のシスターが座り込んでいた。彼女はまるで周囲の状況が目に入っておらず、呆けて虚空を見つめている。
 イザベルは軽蔑と同情の綯い交ぜになった一瞥をシスターに送り、
「酷い街に生まれたもんだ……」
 裾の埃を払うと、クラーシェが消えていった方へと駆け出した。

 俺とマルガレッタは急いで教会を目指していた。
 街の人に見つかったら、クラーシェはどうなるのだろうか。昨日の彼女の様子を見ていなければ、彼女が超然と振舞って街の人々を退かせる姿を思い浮かべることもできたのだろうが、あの力ない彼女ではただただ不安が募るだけだった。まさかとは思うが、もし暴動なんてものに発展していたとしたら……そこにいるはずのカテリーネの身も案じられる。
 教会への近道である、湖畔付近の崖道を走っていたときだった。
 何の前触れもなく足元がぐらついたかというと、激しく揺れ動く大地に俺は顎をたたきつけられた。
「げふっ!」
 地面に顔が近いだけ、大地に直接体を繰り返し打たれているような感覚だった。
 地震、そんな生易しいものではない、ここ数日たびたび起きていた微震などとは比べ物にならないほどの大きな震動が俺とマルガレッタを襲う。
 隣で車椅子が転倒するけたたましい音が聞こえた。どうにか顔を上げて横を見ると、マルガレッタと車椅子の姿が見当たらない。
 はっとして道の縁へと駆け寄る。足場が崩れないよう気をつけながら崖下を覗き込む。
「マルガレッタ!」
 数メートル下の浜辺に、大地に投げ出されて動かないマルガレッタと拉げた車椅子が見えた。

「マルガレッタ!」
 犬の声が聞こえるより前に、マルガレッタは片手を地について身を起こしていた。だが立ち上がることができない。彼女は激しい痛みに顔をしかめた。転落したときに打ち付けた足を見やる。血は出ていなかったが、彼女はそこから這って動くことすらできなかった。
 地震はまだ収まる気配を見せない。
「私は大丈夫です、それより孤児院へ行きなさい! この地震……クラーシェ様に何かがあったのかも……」
 大地に揺さぶられながらもしっかりとした声で彼女は犬にそう告げた。
 犬はマルガレッタを助けに行こうか逡巡していた様子だったが、思ったより平気そうだったマルガレッタの姿を見て安心したのか、
「じ……じゃぁ俺は行くけど、助けも呼んでおくから! 婆さん無理すんなよ!」
 とだけ言い残して崖の上から姿を消した。
 それを見届けると、マルガレッタは手を滑らせて砂浜に顔を打ち付けた。大地の鳴動を全身に感じながら、彼女はじっとそれに堪えていた。
 彼女のすぐ目の前には湖が広がっていた。数歩先にはもう水際があった。これだけ激しく街が揺さぶられているのにもかかわらず、水際には波一つ立っていなかった。
「これは……」
 マルガレッタは目の前の光景に魅入られてしまったかのように目を見開いた。やがて揺れが収まっても、彼女は瞬きすらせず、ただ広大な湖を前にして身動きが取れなくなっていた。
 青々とした水を湛えるルナルカ湖は、先ほど街を襲った狂騒が嘘であったかのように平然とそこに広がっていた。雲間から差し込むか細い光の筋を受け、穏やかな水面に金色の漣がきらめいている。水平に連なる山々が湖と空とを区切っている。その光景の中央には小さな灰色の島が仄かな霞を纏って浮かんでいた。
「……湖=c…」
 無意識にその言葉が紡がれた。
 不意に身震いが彼女の全身を襲った。それは彼女の足の痛みから来るものではなかった。彼女は既に彼女自身の身体のことなど意識の外へ追いやっていた。

 この街にはそれほど高い建物はないため、先ほどの地震で完全に横倒しになるような家屋はなかったようだが、それでも被害が甚大であることは誰の目にも明らかだった。道にガラス片が落ちていないか気をつけながら走る。奇妙なのは、俺が教会のほうを目指すにつれ、徐々にその被害が大きくなっていくように思えることだった。
 角を曲がり、教会の建物が見えたとき俺はひとまず安堵の息をついた。教会も孤児院も、見たところそこまで酷い被害を受けてはいなかった。恐らくカテリーネも無事だろう。
 教会の脇へ回り込み、孤児院の玄関前まで来たところで俺はそれに気付いた。
「カテリーネっ!」
 孤児院の玄関の扉の前に、地面に座ってぽかんとしているカテリーネの姿があった。
 最初は怪我でもしたのかという不安が頭を過ったが、しかしすぐにどうもそうではないらしいということに気付く。しかし様子がおかしい。彼女は周囲の一切が目に入っておらず、呆けたように地に尻餅をついてぼんやりと空を見上げていた。
 俺が近づいても反応がない。
「……おい、どうした……?」
 声をかけると、彼女は何事もなかったかのように俺のほうを向き、
「あ、どうしたの?」
 と明るい声で尋ねた。
「ど、どうしたもこうしたも……! さっき凄い地震があったろ……大丈夫だったか?」
 俺がそう聞くと、カテリーネは困ったような顔をする。
「んー……と……。まぁ、その……」
「まぁ、そのってお前……」
 俺が文句を言おうとした次の瞬間、カテリーネは全く訳のわからないことを口にする。
「ごめんね、動物はちょっと……うちは飼えないことになってて。……餌あげるくらいならいいのかな……あぁでも、神父さんに見つかったら大目玉だし……」
「……は?」
 何を言ってるんだ? こいつは。俺の言葉が聞こえてないのか? いや、俺の言葉を理解できていない?
「あ、えー、俺は、島から帰ってきて……」
 口を動かしてはっきりと発声してみるが、俺の口から聞こえるのは間違いなく人語だ。それなのに、何故? 彼女のそれは、まるでそこらへんをうろついている犬か何かに接するような対応に思えた。
「おい……やめろよ、俺の言葉聞こえてるんだろ!?」
「でも珍しいなぁ、この街で野良犬だなんて……まぁ犬を飼ってる人がそもそも少ないから、……あぁ、もしかして君、街の外から来たの?」
「あ……あぁそうだよ! 俺は、島から戻ってきて──」
 俺の言葉は無情にも彼女に遮られる。
「……なんて」
 カテリーネはくすりとおかしそうに微笑む。
「犬に言っても、通じないか」

 クラーシェは神殿のある方角からひたすら逃げ続け、街を走り抜けた。
 途中で道を歩く人々に何度もぶつかったが、彼女に気を配る者は誰一人としていなかった。誰もが彼女を視界から外し、そこにいないものとして振舞っていた。
 やがてクラーシェは街を抜け、人家も疎らな林の中へと入っていった。細い木の幹に手をつき、肩で息をする。体力に限界が訪れたのか、彼女はそこからとぼとぼと林の奥へと歩き出した。時折木の幹に掴まって息を整えながら、頼りない足取りで彼女は当てもなく前へ進む。
 やがて地面は緩やかに下降し、彼女はいつしか湖岸に近いところまで来ていた。そこは浅瀬の岩礁だった。小さな岩の合間を漣が通り過ぎていくのが見える。クラーシェはその岩の一つにもたれかかり、そしてふと視線を上げた。
「……あっ……」
 すぐそばから、小さな声が上がった。
 岩の陰に一人の獣人が隠れていた。全身に水を被ったその獣人はまだ子どもで、外見は人間の少女に非常に近いが、その左腕だけが白い羽毛に覆われていた。
 二人の視線が交差し、その場だけ時が止まったかのように静寂が流れる。クラーシェも獣人も、互いを見たまま一言も言葉を口にせず、また目を逸らすこともせずその場に凍り付いていた。
 永い時間が過ぎ去った後、クラーシェが口を開く。
「……何者か……」
 その言葉を聞いて獣人ははっと我に返ると、
「ち……ちょっと待ってください」
 と慌てて岩の陰に隠れた。
 獣人は目の前にいる女性が神殿の女王であると気がついていない風で、
「あー、すみませんね。す、すぐ出ますから」
 と、やや怯えた様子で言った。
 す、とクラーシェが岩から立ち上がり、獣人のほうへ近づいた。彼女が近づくと獣人は慌てて岩陰の後ろへ逃れる。
「すいません、ちょっと……まぁその……」
 照れ笑いのような、煮え切らない表情を浮かべてしどろもどろになる獣人を前に、クラーシェは冷たい口調で言い放つ。
「……そなた……何者か……。島から、抜け出してきたのか……」
 え、と獣人は虚を突かれたような顔になった。ぽかんとしてクラーシェの顔を真っ直ぐに見ようとして、しかしその顔が直視できずに視線を逸らす。
 獣人は、いえ、と否定するが、続く言葉が見つからずおろおろしていた。そんな獣人にクラーシェは尋ねる。
「何者か……名を尋ねている……」
 微風が二人の間を通り過ぎ、クラーシェの長髪を煽った。前髪の下から氷のように冷たいその眼差しが見え隠れし、獣人を射抜いた。獣人はうっと息を呑み、彼女の視線に縫い付けられたかのように身動きを止めた。
「俺は……エルヴィン……っていいます……」
 固い口調で、獣人は恐る恐る答えた。
「そうか……」
 クラーシェはそこで口を噤み、じっとエルヴィンを見据えながら彼の前から動かなかった。エルヴィンはその視線に戸惑いを隠せないでいたが、やがて痺れを切らしたように口を開く。
「……で、あの、あなたは……?」
 クラーシェは答える。
「クラーシェと、いう……」
 そして彼女は、ほんの僅かに視線を伏せ、ほんの僅かに声量を落として尋ねる。
「この名に……聞き覚えは、あるか……。私が、……何者か……そなたは、知っているか……?」
 エルヴィンはびくりと震え上がり、ぶるぶると激しく首を横に振った。
「い、え、……ど、どなたでしょう、か? その、あの街の方、ですよね?」
 クラーシェは変わらず冷たい目をしてエルヴィンを見つめていたが、やがて目を閉じ、そっと
「……そうか……」
 微かな声でそう呟いた。
 彼女は踵を返し、エルヴィンに背を向ける。指で彼女が来た方角を指し示した。
「この先に……この岩礁の、畔の、林の奥……ここから真っ直ぐに、歩くと……小さな、林道に出る……。……藪の中の……人目につかない、細い道だ……それは、いずれそなたを……街の外へと、導くだろう……。それが……人目を浴びず、街から出る……唯一の、経路だ……」
 聞き取りにくい彼女の声に、エルヴィンは息すら止めて耳を澄ましている。
 クラーシェは一歩エルヴィンから離れた。ゆっくりと岸辺へ戻っていく。
「その先……街を抜けた後は、与り知らぬ……。どこへでも、好きなところへと……足を向けるが良い……。しかし、二つだけ……守らなければ、ならぬ。……その腕は、人目より隔て、人として振舞い続けよ……。そして……」
 彼女は深い息を吸い込み、そして吐き出した。風に煽られる髪を手で梳き、言う。
「二度と……この街へ、戻ってきては……ならぬ……。そう……二度と……二度とだ……」
 岸へ上がろうとしたクラーシェを、エルヴィンが呼び止めた。
「クラーシェ様っ!」
 クラーシェは一時足を止め、振り返ろうとした。だが何かが彼女を思いとどまらせたのか、彼女はそのまま林のほうへ足を踏み出した。
「……本当は……覚えてる、……俺のこと、わかるん、ですよ……ね……?」
 エルヴィンはクラーシェを伺っている。彼女の反応を見て、彼は足を滑らせながらも彼女に駆け寄ろうとした。
 クラーシェは歩みを止め、しかし振り返らずに答える。
「もう一つだけ……必ず、守るべきことが、ある……」
 その、諦念の見え隠れする淡々とした口調に、エルヴィンは足を止める。
「街の外でも、どうか……生き続けてくれ……。……そなたが……生きていることを……私は、……私だけは、心より……祝福し続けよう……」
 クラーシェはエルヴィンにそう最後の言葉を贈った。
 彼女はそれから今度こそ踏み止まることなく街の方へと去っていった。歩きながらその懐から顔布を取り出し、長い髪を束ねて顔を隠す。
 彼女が家並みの陰へと消えていくのを、エルヴィンはその場に立ちつくして見届けた。彼女の姿が見えなくなると、エルヴィンもまた岸から上がり、そして林の奥へと消えていった。



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