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 湖畔に焚かれた松明が黒々とした湖面を照らし出す、深夜。
 湖から離れるに連れ、街はなだらかに傾斜をなして立地している。その最上部近く、家の棟は疎らで街路灯も殆どない暗い小道を、バジリウスは携帯電灯も持たず一人で歩いていた。その手には彼が昼のうちに購入した数枚の画用紙が入った紙袋を抱えている。周囲に人の目がないかしきりに気にしながら、彼はやがて一軒の小さな平屋へとたどり着いた。
 恐る恐るといった様子で扉を開けると、中から熱気が漏れ出した。その場にいた人と一言二言言葉を交わすと、彼は奥の部屋へ通される。
 その部屋には大勢の人間が集まっていた。中年層の者からまだ十代と思われる者まで、様々な街の住人がそこに集っていた。彼らの中心には低い円形の台座があり、イザベルがその上に腰掛けている。
「ほう、やはり来たんだね。どうだったかな、息子の成れの果ての姿を見た感想は?」
 イザベルがそう言葉をかけると、バジリウスに人々の視線が集まる。バジリウスは返答に迷った挙句、
「その……ここは? わ、私は、あの……絵の裏に書いてあった……」
 と、どもりながら言った。
 イザベルはふっと含み笑いを浮かべる。
「わかっていて訪れたんだろう?……神殿に対して疑問を持つ者の集まりさ。君のように私から絵を購入して訪れる者もいるし、そうでない者もいる。……街には神殿の目が蔓延っているからね、こうして肩身の狭い思いをしなければならない」
 おどけて肩を竦めて見せると、彼女は立ち上がってゆっくりとバジリウスのほうへ歩み寄った。
「それで、どうだったんだい? 素直な気持ちを聞きたいんだ」
 彼女はバジリウスの目を覗き込み、優しげな声でそう問いかけた。
 紙袋を強く抱きしめ、バジリウスは震える声で答える。
「……恐ろし……かったです……。こ、あんな姿に……思っても見なかったんです、息子があんな姿に、されただなんて……まだ信じられません、正直なところ……」
「……一つだけ言っておこう。フリッツ少年はずっとましな獣人だよ」
 イザベルは視線を落とし、囁くように言う。
「もっと酷い……醜い姿の獣人も、あの島には大勢いる。私の素描ではなく、有志の写真家が撮った実際の写真もある、あとで見てみるといいさ。……まぁ写真は神殿に禁じられているから、大っぴらに撮影できないのが癪だがね」
 彼女の近くにいた、バジリウスと同年ほどの男性が、椅子を持ってきてバジリウスに座るよう促した。バジリウスは礼を言って腰を下ろし、ぽつりと言う。
「今でも、気持ちの整理がつかないんです」
「ふむ。聞かせてくれるかい?」
 イザベルも台座に腰を下ろしバジリウスに視線の高さを合わせる。
「ショックは大きかったのですが……心の中から何かが抜け落ちてしまったようで。昔……三年前も、こんな気持ちになったのを思い出しました」
「そうそう。メイヤーさんは三年前に娘さんも儀式で失っているんだ。兄弟揃って連れて行かれるのは実に珍しいことなんだがね」
 イザベルがそう言うと、二人を取り囲む人間達は口々に同情の意を示した。彼らもまた共感するところがあるらしく、バジリウスに優しげに声をかける。
「何……というのか、けれど、娘が島に行ってしまったときはあれだけ気分が沈みこんだのに、今考えてみると、息子のときはそうではなかったのです。それが、自分でも不思議で……今もどこかで納得できていないんです。悲しむよりも、この悲しみを乗り越えていかなければならないと……」
「それは違うんじゃないか」
 バジリウスははっとして顔を上げる。彼と向かい合って座るイザベルの顔からは、先ほどまでの軽妙な笑みは消え去っていた。
「それは神殿のあり方に疑問を持たない人間が行き着く思考なんだよ、メイヤーさん。考えてもみるがいい、奴らは私達から無条件に家族を奪っていく。その上教会という手先を動かしてその悲しみをなかったことにしようとしているんだ。我々はその意味で、体よく洗脳されているのさ」
 バジリウスはいつの間にか部屋の空気が変容していることに気付いた。イザベルの話を聞く人々には、先ほどまでの互いの傷を舐めあうような和やかで暖かな雰囲気は最早なかった。彼らはイザベルの話に深く同意し、そして互いの意思を結託させた一団となっていた。
「騙されてはいけないよ、メイヤーさん」
 イザベルは優しげな声でそう言い、バジリウスの元へゆっくりと近づいてその肩に手を置いた。
「家族を失えば悲しい。これは当たり前のことなんだ。これを忘れてはいけない。君は今、悲しむ義務があるんだ。目を逸らしてはいけないよ。さぁ、もう一度深く心に刻みたまえ。君は二度と愛する我が子と再会することは叶わない。君の子ども達はあのような醜い獣人に姿を変えられてしまったのだから」
 バジリウスの頭をゆっくりと撫でながら、イザベルは彼を洗脳するように繰り返し語りかける。
「あらゆる神殿の言葉は欺瞞だ。私達の本当の気持ちを封じるためにクラーシェが必死になって屁理屈を並べ立てているだけさ。獣人達は島で生活している? 会うことは叶わないが生きている? 馬鹿な事を。ガラクシアは流刑島だ。君の二人のお子さんは刑に処せられた。……さぁ、今こそ現実を見る時なんだ」
 うう、とバジリウスの口から嗚咽が漏れる。彼は項垂れ、静かに涙を零していた。それまで何かに封じ込められていた彼の悲哀が、堰を切って溢れ出しているかのようだった。
「それでいいんだよ」
 イザベルは小声でそう言い、にやりと笑った。

 教会の扉の近くでうたた寝をしていた俺は、教会の中が俄かに騒がしくなったのを聞いて目を開けた。神父の話が終わったのだろう。間もなくマルガレッタやバジリウスを含む多くの人がわらわらと出てくるはずだ。この街の人々は妙に信心深く、日曜の朝にはこうして教会に人が集まる。
 俺は立ち上がり、教会の正面を離れた。できるだけ人目は避けたほうがいいと考えたのだ。裏手へ回ろうとして足を止める。俺が昔暮らしていた孤児院が見えたからだ。そこには、できれば近づきたくなかった。近づけば、またそこで暮らしたくなるに決まっている。
 けど……今の時間はカテリーネもいないはずだし……。
 俺がその場で足踏みしていると、孤児院の窓を人影が横切るのが一瞬だけ見えた。……カテリーネだろうか? しかし彼女は教会にいるだろうし、では誰が?
 周囲を見回して人がいないことを確認してから、俺は足音を忍ばせながら孤児院へと近づいていく。
 あと数歩で垣根、というところまで来て、再び窓から人影がちらりと覗いた。
 ──顔に布を巻いた女性が、窓枠にもたれかかってじっとしている。
 久しぶりに心臓が止まるかと思った。女性は俺に背を向けており、恐らくこちらには気がついていない。俺は来た時の三倍も足音に気を遣いながらその場を後にした。

 ……さっきの女、クラーシェだったのか……?
 マルガレッタの車椅子を牽きながら俺は悶々と思考を巡らせる。以前街角で出くわしたクラーシェの変装を思い出す。格好は全く同じだ。この狭い街に、顔を布で覆っている女性が二人もいるだろうか。
 もしクラーシェだとしたら、何で教会にいるんだ? 確かに教会と神殿はつながりがあるとカテリーネは言っていたが……。いや、そもそもあの女は普通に街を出歩いていたわけだし、それを考えたら教会にいてもそれほど驚くことではないのか……。
「こら、どこへ行こうとしているのです」
 突然ぐいと首輪が後ろへ引かれ、息が詰まった俺は呻き声を上げた。
 我に返って周囲を見回すと、曲がるはずの角を通り過ぎてしまっていたらしい。俺は心の中で舌打ちすると、のそのそと車椅子の周りを回って来た道を引き返す。
「何か考え事でもしていたのですか?」
「……別に。さっき孤児院にクラーシェっぽい人がいたから、気になって……」
 気付いたときには既に遅かった。振り返ると、マルガレッタは血相を変えて俺のほうを睨んでいた。
「何ですって……」
「あ、いや見間違いかも、そんなに近くで見たわけじゃ……」
 喋りながら周りに人がいないか探る。幸い近くに通行人はいなかった。
「引き返しなさい、今すぐ」
 マルガレッタはそう命じておきながら、自分で車椅子の車輪を回してものすごい勢いで道を走り出した。この人が我を失っている状態を俺は初めて目にした。首輪が再びぐいと引かれ、俺は慌てて彼女の後を追う。
 嫌な予感がした。彼女は止めたほうが良い気がする。が、こんな街中で大声を出すわけには行かないし、目の前の老婆は俺が抵抗したところで綱を手放して一人で行ってしまうだろう。

 片手に絵筆を持ちながら、イザベルはカーテンの陰から街路を覗いていた。
 街路には、一匹の犬とその綱を握る車椅子の老婆がいた。老婆は勢いよく教会へ車椅子を向け、犬がそれに引きずられるようにして後に続く。
 イザベルは目を細め、筆をパレットに挿して椅子の上に置いた。エプロンをカンバスにかけると、彼女は裏口を開けて部屋を出て行った。

 小さな街だ。その割にそれなりに豊かな街だった。その中にある孤児院は、だからそれほど子どもの数は多くなかった。俺がそこで暮らしていたときは、俺とエルヴィンと他数人の年少組、孤児院で養われていたのはそれだけだった。
 それが今は全ての子どもがいなくなってしまったのだという。どこか余裕のある家へ養子として貰われていった者もいるだろうが……カテリーネが持っていた写真の数を考えると、その多くは島へ連れて来られたのだろう。
 ──そんな、俺の記憶の中にある場所よりも幾分寂れてしまった小さな孤児院に、彼女はいた。
「クラーシェ様ですね」
 車椅子を乗り捨てて強引に孤児院へと押し入ったマルガレッタは、窓辺に佇む女性を見るなりそう言った。その女性は布で顔を覆い隠していたが、長い黒髪はその背を流れ落ち、彼女が振り返ると腰の辺りでしなやかに揺れた。
 何事かと駆けつけたカテリーネは状況を察し、混乱した様子で俺の顔を見たり女性のほうを見たりしている。俺はマルガレッタの後ろで尾を垂らしながら事態を見守るしかできなかった。
 女性は無言で目の前にあった部屋に入っていく。その部屋は子ども部屋の一つだった。今は使われていないはずだが、顔を上げて覗き込んでみると綺麗に整理されていた。女性はその中から、
「……入れ」
 とだけ言った。記憶にあるクラーシェの声に相違ない。だが、どことなく以前街で会ったときのような、見据えた相手を竦み上がらせるような威圧感が欠けているように思えた。
 マルガレッタは確信を得たらしく、しっかりとした足取りで彼女のあとに続く。
「あ、あの……えっと……どう、しましょうか」
 廊下に残された俺とカテリーネは困惑して顔を見合わせる。と、マルガレッタが振り返って、
「すみませんが、しばらく外で待っていていただけませんか」
 とだけ言うと、俺に意見を述べる間も与えず扉を閉めてしまった。
 俺とカテリーネは再び顔を見合わせる。彼女が曖昧に微笑んできたので、俺もぎこちなく尾を振って見せた。
 カテリーネは徐に俺の前に屈みこむと、俺の頭を撫でて言う。
「こっ、こんにちは、……マルガレッタさんのところの、わんちゃん……かな?」

 クラーシェが顔の布を取り去ると、部屋の空気が僅かではあるが一瞬で冷え込んだ。彼女は布を椅子の背にかけると、崩れ落ちるようにして椅子に腰を下ろした。手に額を乗せ、マルガレッタが腰を下ろすのを待つ。
「失礼します」
 マルガレッタは硬い声でそう断ると、クラーシェの正面に椅子を移動させて座った。
「……あれは」
 張り詰めた沈黙の後、クラーシェがふと思い出したように口を開いた。
「平穏に……暮らしているか……?」
「……犬のことですか」
 マルガレッタは鋭い眼光でクラーシェを見据えたまま尋ね返した。その視線を正面から受け止めるクラーシェの目の下には薄らと青白い隈が浮かんでいる。マルガレッタはしかし気を緩めはしなかった。
 クラーシェは小さく頷く。それに応じてマルガレッタが答える。
「よく働いてくれています」
「……そうか。それは」
「お聞きしたいことがあります」
 クラーシェの言葉をマルガレッタは鋭い声で遮った。クラーシェは口を閉ざし、長い前髪の下からじっとマルガレッタを見つめている。
「何故私の孫が選ばれたのですか」
「フリッツは……神殿の内部を探る者に、島へ渡らずに済む方法を教えられていた……。それを否定するために島へ送った」
「それだけですか」
「それだけだ……。どの子が島へ行くかなど……本来なら誰でも良い……」
 どこか投げやりな口調でクラーシェは答えた。
 膝の上に置かれたマルガレッタの腕が僅かに震えていた。拳をそっと握り締め、冷静さを繕った不安定な声で詰問を続ける。
「ではもう一つだけ。……私の孫は死んだのでしょうか」
 クラーシェは僅かに眉を顰め、マルガレッタから視線を外した。机の上に目線を落とし、低い声で答える。
「……知らぬ。私は……」
 前髪が頬にかかり、彼女の顔を隠す。
「島のことは……いや、……この街のことすら……何も知らぬ。……私は、……そして神殿は、ただ子どもを島へ送るだけだ……」
 マルガレッタが車椅子を蹴って立ち上がった。車椅子は大きな音を立てて床に転倒する。それに目を留めもせず、マルガレッタは怒声を上げる。
「それが……神殿の姿だと……いうのですかっ……!」
 堪えきれなくなった感情がその細い声から溢れ出ていた。
 クラーシェは顔を上げず、項垂れたまま呟くように言う。
「……そのようだな……」
「お前も……っ!」
 マルガレッタは身を乗り出し、憤怒の形相でカテリーネの肩を掴みその顔を上げさせた。
「お前も、湖に流してやろうか……!」
 クラーシェは始め驚いて目を見開いていたが、すぐに俯くとマルガレッタから目を逸らした。が、無理矢理正面を向かせられる。
 小さく開かれたクラーシェの口から、囁くような声が漏れる。
「申し訳ない……」
 再び視線が交差して、マルガレッタははっとして手の力を抜いた。
「……何なんですかあなたは……」
 極度の疲労と心からの哀悼を綯い交ぜにしたような、曖昧で不安定でいて、しかし深い悲しみを湛えた表情のクラーシェは、
「……ただ……申し訳ないと言うしか、私にはできない……そのことを、何より申し訳なく思う……」
 喉の奥から絞り出すような傷ましい声でそう言った。
 クラーシェの肩を掴みながら、永い間マルガレッタは怒りと困惑で顔を引きつらせていた。やがて彼女は長く息を吐き出すと、ゆっくりと手を離してクラーシェから離れる。車椅子を立て直し、そこへ腰を落ち着かせた。
 その前で、クラーシェはじっと項垂れていた。膝の間で組んだ両手に視線を落とし、微動だにしない。
「……私は、……」
 ぼそり、とクラーシェは口を開いた。
「その名を、シェデムと言った……。随分昔の話だ……まだ、この街ができる前……」
 そのとき、彼女の話を阻むかのように街が小さく揺れた。孤児院の壁や天井が不穏な軋みを立てたが、クラーシェは構う素振りも見せず淡々と語る。
「……姓を持たぬ、流浪の民……その一人として、私は生を受けた。我々は、……言わば、自然を超えた何者かと……通じ合う術を身につけていた……。私は、──神官に従う、一民に過ぎなかった私は──その理を身につけては……いなかったが。その力が……我々を、辺境から辺境へと……彷徨わせた。人の世から忌まれ隔たれ……そうして、辿り着いたのが……ルナルカ……この地だった……」
 途切れ途切れの言葉で語られるクラーシェの昔語りに、マルガレッタは口を挟むのを控え、背筋を伸ばしてじっと聞き入っていた。
 クラーシェは背を丸めたまま語り続ける。
「豊かな地だった……。……このような最果ての地にありながら、水に恵まれ、土に恵まれ、大気に恵まれていた……。誰もが、この地を安住の地とすることに……賛同した。そしてこの地に集落を築き、それが村になり……しかし、そこまでだった……。ルナルカ……この地の湖>氛沁ゥ然を超えし何者か──その怒りを、買ってしまった……。……木を伐ったことに対し……魚を食ったことに対し……家を、自然ならざるものをこの大地に打ち込んだことに対し、湖≠ヘ我々に咎を与え……」
 彼女の声は徐々に暗く、小さくなっていく。
「……そして、この街が始まった……。……湖≠ヘ、我々の一部を人ならざる者へと変貌させた……。我が民の半数が猛り狂う獣となり……残りの半数は逃げ惑ったが……その半数が死んだ。だから、屠られることを厭い、さりとて他に行く場所を見つけることもできなかった神官どもは……湖≠ニ渡り合う中で……あろうことか……その贖罪を、後世の者に託すことにしてしまったのだ……。そうして、……街と、獣となった人を閉じ込めておくための島を管理するための……民から湖≠ノ対する、人質……人柱に選ばれたのが……シェデムという、親類のいない……孤立した女だった」
 ぐらり、とまた街が揺れた。先ほどの揺れに比べて大きく、マルガレッタは転倒しそうになるのを堪える。
「これは……」
 再びクラーシェに目を戻したとき、その顔を見て彼女は息を呑んだ。
 クラーシェの顔つきが豹変していた。項垂れ、鬱屈とした目で手元を凝視していた彼女はそこにはおらず、顔を上げ、疲労も絶望も拭い捨てた超然とした佇まいの女性がマルガレッタの目を覗き込んでいた。その瞳に最早迷いの色はない。このとき、彼女は間違いなく神殿に君臨する氷の統治者へと変貌していた。
「……っう……!」
 マルガレッタは驚きと畏怖に囚われて動けなくなってしまう。
 数秒の後、クラーシェは突然弾かれたように跳ねると、夢から醒めたような顔で目を瞬かせた。
「私は……」
 状況を把握し、彼女はまた下を見る。
「今のは……湖≠ェ、怒っているのですか?」
 マルガレッタが静かにそう尋ねた。クラーシェは頷きはしなかったが、
「……そうだな……」
 と力なく返した。
「……話を続けよう。そうして、後世の贖罪を見届け、それを司る役を負った私は……湖≠ノよって、贖罪が終わるまでの生を与えられ……そして……木の玉座へと、据えられた……。老婆よ……十三歳の誕生日に……どれだけの子どもが、選ばれるのか……その割合を、知っているか……?」
「大体、九人に一人……」
 クラーシェは小さく首を振る。
「それは、そなたが子どもの頃の話……。……今は、五人に一人……要求されている。……湖≠ニの契約により……最初の二十年の間……十五人に一人、子ども達の中から、私が、犠牲者を選び……湖≠ェ、その者を獣に変え、神殿が、島へ送り込んだ……。……次の二十年の間には、十四人に一人……次の二十年には、十三人に一人……。……わかるか……?」
 クラーシェは苦悩に顔を歪ませ、片手で額を押さえる。
「湖≠ヘ……最後に、街が滅びる刻まで……少しずつ、街の者を獣に変えていく……そして、それが悲しいことだと、悟らせないために……それが自然であると、住人に馴染ませるため……滅びを自覚させないため……罰の記憶を消すため……そのために、この街は存在している……。……徐々に滅べ、と……今となっては……当時の、神官の考える、ことなど……知るべくもないが……。……その世代のうちに滅ぶことより……長い年月をかけ、ゆっくりと滅んでゆくことを……子孫が代わりに、少しずつ滅ぶことを……彼らは選んだのだ……」
 クラーシェはそっと前髪の隙間からマルガレッタの顔を見上げた。彼女の表情は硬く、しかし突然のクラーシェの独白に対する動揺がその瞳の奥に浮かんでいた。
「そなたの……その怒りは、……正しい。……怒り、というものに、正しさがあるのか……それは、定かではないが……。……しかし、その怒りは……湖≠フ支配に抗うということ……湖≠ェ……湖≠ニ神殿が強いる、看過せよ……忘れよという、意識の支配に……。……もし……」
 ふ、とクラーシェの口元にどこか悲しげな笑みが浮かぶ。彼女は弱弱しい声で呟くように言う。
「そなたのような……支配に抗い、己が情念を貫く意志を持つ者が……そのような者が、もっといたのなら……。……この街は、もっと早く……終焉を迎えていた、だろう……」
 マルガレッタは今度こそ戸惑いを顕わにする。
「……そ、それは……それなら、そんなことは当たり前のことです。あなたと神殿という組織が、長い年月をかけて築いてきたのでしょう、そのような考え方が芽生えることのない環境、この──平和な街を。それが、……それが全て、この地を無人にすることが、目的だったと……」
「その通りだ……この街は、滅ぶために存在している……。あの島は、その過程で生じた歪みを吸収するための……。……ただの、緩衝材だ……だから、私は本来……あの島の中で起きたことに関知しない……。興味を持つことすら……許されて、いない。そのはずだった……そのはずだったのに……」
 クラーシェの声はどこか乾燥していた。だが、彼女はそっとその両手で目を覆う。
「このような呪われた街が……多くの悲しみを生み、消し去り、それでも尚在り続ける意味など、……最初から、どこにもありはしないのだと……もう、もうっ……考えずにはいられなくなってしまった……!」

 何もかもが──最初から破綻していた。
 この街も、この街を維持するために作られた神殿という組織も、そしてあの島の町も。それら全ては、元より上手く行くはずのないものだったのだ。
 そもそもそれは、己が咎をやり過ごそうとした、遥か遠い過去の人々が取った自己への延命措置に他ならない。自らの世代で民族が滅びることを潔しとせず、しかしこの地を離れることも叶わず……彼らは、このようなくだらないとんちを持ち出して自らの世代を守り、その代償として子孫を滅ぼすことを選んだのだ。
 私はその最初の生贄だった。老いを免れた私は、その日からこの街と添い遂げる使命を負わされた。人が減り、最後の一人が息を引き取ったとき、私は無人となったこの街で孤独に死ぬのだ。何も考えず、感傷を抱かず、ただ街を見守る者としてその薄く長い生を終えるのだ。
 ──今思えば、それが最も無理な話だったのだ。
 私の精神は永きに亘る極めて平穏な滅亡の中で、徐々に軋みを上げ始めた。いつからか私は頻繁に街へ降りるようになっていた。使命でもなんでもない。そうしなければ、島のことを考えずに入られなくなっていたからだ。
 島内で起きた出来事の報告は可能な限り頭から追いやった。それでもそれは──私が引き起こしているその残酷な現実は──徐々に私の心を蝕み、歩み寄り……そしてついに、一人の獣人という形で私の前に現れた。
「……答えはなく、解決策もなく……しかし、そなたのような者には、最早悲劇は起こらぬ……この街は徐々に人口が減り、そして滅ぶ……予定だった……」
 一言一言を自ら確かめるように口にしながら、私はゆっくりと席を立ち上がった。窓辺に寄り、カーテンの隙間から通りを眺める。時折目の前の道を人が通り過ぎていく。
 ──昔はもっと人がいて、この通りも日中は賑わったものだった。
「それは起こり得ません」
 マルガレッタが呟いた。そっと振り返り、彼女の顔を見る。案の定私の話にひどく衝撃を受けていたようだったが、しかしこの聡明な老女は凛とした眼差しを私に返し、言う。
「あの島はいずれ外の世界に発見されます。この街が始まった頃──あなたの話を信じるのなら二百年前には予想がつかなかったのでしょうが……」
「そうだ……」
 彼女も知っている。本屋への入荷をもっと厳しく取り締まるべきだったのだろうか。
 彼女のほうへ向き直り、窓枠にもたれかかる。
「航空家の間では、あの島は既に有名な噂となっている……先日には隣国がとうとう人の手で作られた星を打ち上げた……あの島には湖という壁はあっても、天井はないのだ……」
 恐らく、そう遠くない日に人は神の目を手に入れるだろう。あらゆる場所という場所に人の目が届き、この世界の自然を超えた存在はその日暴かれ、そして踏み荒らされていく。
 先日、市長のほうへ国の役人が尋ねてきた。その前には島を撮影した航空写真を持って首都から記者がやってきた。どちらも追い返させたが、どちらも近いうちに再びこの街を訪れるだろう。
「救われはしない……誰も……。……外の者があの島を暴こうとすれば……恐らく、湖≠ヘ街も島も飲み込んで……無理矢理にでも、この地をあるべき姿へと還そうとするだろう。……私が何もしなくても……もう、何もしなくても……本来の職務を果たすよりも、早く……トラヴィーダは、そしてガラクシアは……消える」
 マルガレッタは何か言いたそうだったが、考えが纏まらないらしく眉根を寄せている。彼女の怒りは尤もだが、それが簡単に通らないのがこの街の現状なのだ。だからこを私も……。
「どうだ……。……見つからないだろう、如何なる、……道も……」
 自分の声に自嘲じみた軽薄さが混じっているような気がしたが、構わず続ける。
「だから、もう……わかるだろう、そなたにも……。私は……嫌になったのだよ、この街が」
 あれだけ激しい憤りを私にぶつけてきたマルガレッタは、ついに反論することができなかった。

 孤児院の裏手には小さな空き地があり、その周りを家々が囲んでいて見通しが利かなくなっていた。その空き地の隅、孤児院の壁に沿って植え込まれた木々の陰に、イザベルは身を隠していた。
 孤児院の窓の内からは人の話し声が聞こえている。イザベルは先ほどから身動き一つせず、じっと気配を消してその話し声に耳を傾けていた。
 部屋の中にいる誰かが、嫌になったのだよ、この街が、と言った。
 イザベルの顔に険しい嫌悪の表情が浮かんだ。その荒れ狂う憎悪を投げつけるように、壁を透かして部屋の中にいる誰かを睨みつけると、足音も立てずに彼女はその場を立ち去った。

 子ども部屋の扉を開けてもらうと、中に立ち込める埃っぽい空気が俺の鼻を刺激した。だがすぐに思い出す。ここだ。
「懐かしいな……。この部屋。……何かすごい汚いけど、俺が出て行った後誰も使わなかったのか?」
 カテリーネは、あ、うん、と曖昧な返事をして小首を傾げる。
「た、多分……あっ、違う。……えと、そうアーベルは……。確か、何とかいったお役人さんのところに貰われていって……」
「あぁ、アーベル、いたなそんなやつ! 今どうしてる?……もう、十三過ぎてるよな、俺より一つ下だったから……」
 少し不安になりながら尋ねてみると、カテリーネはそんな俺の気持ちを察したのか慌てて首を振る。
「あっ、あの子は大丈夫、今もたまに来てくれてる、から……」
 よかった。どんな人に貰われていったのかは知らないが、絶対そっちのほうが幸せだ。
 カテリーネは子ども部屋の扉を後ろ手に閉め、扉に寄りかかった。そのままずるずると床にへたり込む。大丈夫か、以前にも増して顔色が悪くなったような気がするが……。
「そういや、さっきはよくも驚かせてくれたな、あれ。やめろよ本当に……。忘れられたのかと思って、本当泣きそうになったんだから」
 努めて明るい声でそう言ってみると、カテリーネは心底申し訳なさそうな声で
「うう、ご、めん……あの写真はクラーシェ様が……じゃなくて、そう私、どっかやっちゃって、こう……ほら、君、あんまり印象強くなかったし」
 さらりと傷つくことを言われた。確かに可愛いガキではなかったかもしれないが……そうか、カテリーネの記憶にはあんまり残っていないのか。
 カテリーネはまたも敏感に俺の心境を汲み取り、
「な……泣きそう?」
 と本人が泣きそうな声で尋ねてきた。
「何だよ、それ。いいよ別に……いや、忘れられるのは嬉しいもんじゃないけどさ……。そ、そういえば、あいつ。クラーシェって、何でここにいるんだ? まぁ俺も前街角で見かけたけど……仕事さぼってんじゃ」
 その言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
 何の前触れもなく這うようにして俺に近づいてきたカテリーネは、俺の顔を凄い形相で数秒凝視すると、がばっと俺に抱きついた。その力があまりに強すぎて苦しかったが、それ以上にカテリーネの奇行に度肝を抜かれて唖然としていた。
 首の後ろからカテリーネの呟きが聞こえる。
「忘れててごめんなさい……。ごめんなさい、本当にごめんなさい! もう忘れない、忘れないから……許して。駄目、忘れちゃいけない……」
 まるで悪夢に魘されているかのような、ぼんやりとした、しかし病的に感情の込められた声だった。
「ど、どうしたんだよ……。……変だぞ、カテリーネ……」
「そうかな……。あ、そうなんだ、ごめん……」
 おい……本当にどうしたんだ?
 これほどまでに我を失って取り乱したカテリーネを見るのは初めてだった。俺の胸から腰に回された彼女の両腕から、がたがたと震えが伝わってくる。……怖がっているのか?
「……怖いのか?」
「そうかもしれない……ううん、怖いよ。私、凄く怖い……」
 俺は、彼女の腕が思ったよりも細いことに気がついた。こんな風に抱きしめられたことはないが……それにしても、彼女の全身は細い、というよりもやつれていた。
「……何が怖いんだよ」
「君を、皆を忘れるのが怖い……違う、それよりも! 私、悲しくないの。全然、全っ然……! 君がいなくなったとき、確かにっ……悲しかったはずのに、私あんなに泣いたのに! それなのに今……君を忘れていたことが、何でもないことみたいに思えて……昨日食べたご飯が思い出せなくて、それを教えてもらった、くらいにしか思えなくて……!」
 彼女は確かに怯えていた。怯えていたが、悲しんではいなかった。悲しくないことが恐ろしい──マルガレッタもそんなようなことを言っていたような気がする。
「カテリーネ……」
「嫌だ……嫌だよぉ……」
 俺の感触を感覚に刻み込むように、彼女は強く俺の体を抱きしめる。額が横腹に擦り付けられ、彼女の額に俺の毛がつく。
「忘れたくないよ……忘れちゃ駄目だよ……! お願い、お願い……忘れさせないで……!」
 その言葉は懇願というよりも自己暗示のようだった。カテリーネは泣いていない。だが俺には彼女が必死に涙を流そうとしているように見えた。
 一体何なんだ、これは……。
 俺はただ呆然としているだけで、彼女にかける言葉すら思いつかない。
 そのとき、廊下のほうで扉が開く音がして、しばらく後に子ども部屋の扉が叩かれた。廊下のほうからマルガレッタの声が聞こえる。
「……帰りましょう」
 気のせいか、彼女にしては殊勝な響きのある声色だった。
 カテリーネはさっと俺から離れて立ち上がると、部屋の扉を開けた。俺は躊躇ったがのそのそと部屋を出て行く。カテリーネの横を通り過ぎるとき、彼女の顔を見ようと顔をもたげたが、彼女は顔を逸らしてしまった。俺に抱きついたことが恥ずかしかったのだろうか。
 また来てくれと言ってもらえるのではないかと期待していたが、カテリーネは黙りこくって俺達に背を向けるだけだった。

 一体クラーシェに何を吹き込まれたのか、マルガレッタは家に帰っても一言も口をきかなかった。ただ単純に怒りが収まったというわけでもないようだが、しかし素直にクラーシェの言葉を受け入れ納得したといった様子もなく、彼女は膝の上に閉じた本を乗せ、空を見ながらひたすらに何かを考え込んでいる。
 俺は俺で今は彼女と会話する気にもなれず、食卓の下で床に寝そべっていた。
 ……結局のところ、何が最善の道だったのだろう。
 島を抜け出すことができればそれでいいと思っていた。それで奇跡的に脱出に成功して、それで終わりだと思っていたのだが……。確かにこの街には、気が立って弱い者を無差別に攻撃する獣人もいないし、飢餓なんて訪れない。けど、それならばここは安住の地なのか?
 もう、ここを脱出してまで行くべき場所なんて残されていないってのに。
 考えているうちに眠くなってきた俺は、床に寝そべったまま目を閉じた。
 途端、居間にある電話機が鳴り響いた。片耳を持ち上げ音だけで様子を伺う。バジリウスが電話を取りに向かったようだ。話し声が聞こえてくる。別段興味も湧かなかったので耳を伏せようとした、そのときだった。
「えっ……? クラーシェ様が……?」
 バジリウスの口から、その名前が聞こえた。
 がたん、と上のほうから音がする。マルガレッタもその名前に反応し、一人で車椅子を動かして電話機のほうへ向かった。俺も後を追う。クラーシェがどうしたって?
「バジリウス、どうしたのですか? 何かあったのですか」
 受話器を置いたバジリウスに、やや落ち着きを失ったマルガレッタは尋ねた。バジリウスはまた輪をかけて慌てており、それが、と早口に答える。
「今、連絡があって……街に、あの教会に、クラーシェ様がいて、それで集会が……とにかく僕も行かなきゃ!」
 彼はそう言うと、なりふり構わずといった様子で玄関から飛び出て行ってしまった。
 クラーシェに必要以上に反応したような気がするバジリウスの様子も気にはなったが、それよりも。
「クラーシェが教会にいるってことが、ばれたのか?」
 俺も知ってるくらいなんだから、街の住人の間に話が広がってもそれほど不思議ではないが、やはりそれはまずいんじゃないか? それにバジリウスのあのうろたえ様も気になった。彼がクラーシェという名にそこまで過剰に反応する理由が見当たらないように思えるのだが。
 ちっ、とマルガレッタの舌打ちが聞こえた。彼女の表情にも焦りが伺える。
「とにかく行きましょう、私達も」
「わ、わかった」
 首輪から伸びる綱を車椅子に結びつけると、俺達はバジリウスの後を追って家を出た。

 カテリーネはクラーシェと共に孤児院の子ども部屋にいた。
 マルガレッタが去ってから、クラーシェは一言も彼女と口をきいていなかった。先ほどカテリーネが気を遣って淹れた紅茶にも手をつけていない。カテリーネは居心地が悪そうに扉付近でおろおろしていた。
 そんな中、孤児院の玄関の方から扉を叩く音が聞こえた。
「あっ、誰かっ、……誰か来ました、ちょっと私ちょっと出てきます!」
 そう言ってそそくさと立ち上がり、彼女は部屋を出た。クラーシェは何も反応を示さずカーテンの閉ざされた窓辺でじっとしていた。
 玄関の前まで来たカテリーネは異変に気付いて立ち止まった。扉の外は何やら騒がしく、大勢の人がその前に集っているようだった。カテリーネは思わず怯み、扉を開けるのを躊躇してしまう。
 だんっ、と扉が外から叩かれた。カテリーネが怯えた表情でそっと鍵を開けると、扉は外からゆっくりと開かれた。
「こんにちは、シスター」
 カテリーネの前に腕を組んで仁王立ちしたイザベルが、彼女に向けてにこやかにそう挨拶した。
「あ、ど、どうも……その、何かご用とか、こう……」
 イザベルの周りを取り囲む数十人の人だかりに圧倒されつつも、カテリーネは声を絞り出す。
 イザベルはカテリーネを無視すると、背後の人だかりを振り返って声を張り上げる。
「裏口は固めたかい? 孤児院と教会は中で繋がっているから、教会へも誰か行ってくれ」
「え……へっ? あ、わ、あのっ!」
 困惑するカテリーネに、イザベルは余裕の笑みを浮かべつつゆっくりと歩み寄る。
「申し訳ありませんが、彼女を出してもらえませんか? 我々は彼女と是非お話させていただきたくてこちらへ参上した者です」
 事情を察したカテリーネの顔がさっと青ざめる。あわ、あわと視線を左右に送りながら彼女は慌てふためいていたが、それでも無理に自分を落ち着かせると、
「ごっ、いや、クラーシェ様はこちらにはいません、本当……」
 と零した。
 その言葉を聞いて群衆の中の一人が喚く。
「やっぱりここにいたのかっ! クラーシェを出せ!」
 カテリーネはうっと呻いて口を押さえる。だがそんな彼女を庇うようにイザベルが彼女の前に立った。
「シスターを責めるのはやめるんだ。彼女もまた神殿にいいように動かされる、ただの駒に過ぎないのだから。我々が真に戦うべきはこの奥にいる、違うかい?」
 イザベルの言葉に次々と賛同の声が上がる。それは最早カテリーネのことを忘れ、ただクラーシェという人物を攻撃するという意思だけが浮き彫りになったものだった。
「そういうわけだ」
 イザベルは改めてカテリーネに向き直ると、脅すような声で言う。
「クラーシェをここへ連れて来たまえ」

 クラーシェはカーテンで閉ざされた窓辺に立っていた。突如として騒然となった外の様子を、長い前髪を片手で梳きながら億劫そうに眺めている。人々は今や人目を気にすることも忘れ大声でクラーシェの名を呼び、今にも孤児院内部へと乗り込みそうな勢いだった。
「……あの、絵描きか……」
 ぽつり、と呟いて立ち上がる。寝台の上に投げ置かれた顔を隠す布を一瞥し、彼女はそれを懐へとしまいこんだ。
「面倒だな……」
 廊下を行く彼女の一歩一歩は重く、さながら病人のような歩みだった。廊下の角を曲がると騒音がよりはっきりとし、玄関口で立ち往生する半泣きのカテリーネが視界に入る。
 最初にクラーシェの登場に気付いたのはイザベルだった。自ら現れたクラーシェに彼女は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに攻撃的な視線を彼女に浴びせると、振り返って大声を張り上げる。
「これは驚いた! クラーシェ様自らのお出ましとはね!」
 玄関前の人々は水を浴びせられたように静まり返った。
「あっ、えっ? クラーシェ様っ!?」
 カテリーネは穴が開くほどクラーシェの顔を凝視している。そんなカテリーネの横を無言で通り過ぎ、のそりと陽光の下に現れたクラーシェは、ゆっくりと人々の顔ぶれを見回した。低く掠れた声で囁く。
「……何用だ……」
 彼女の姿にもその声にも、何ら威圧的なところはなかった。彼女はやつれ細った一人の女性であり、一見して他人を怯ませるようなものは何も持っていなかった。
「わっ……」
 群集の最前列にいた女性が最初にクラーシェに言葉を投げつけた。
「私の娘を返してください……! あ、わ、あの子は、……ずっと子どもが生まれなくて、やっと授かった大切な……っ、大切な……!」
 それだけ言うと彼女は泣き崩れてしまい、
 彼女を皮切りに、人々は次々と声を上げ始めた。我が子を返せという悲痛な叫び、神殿への不平、神殿の情報を開示しろ、交易の主権を市民の手に委ねろ等と、その内容は多岐に亘り、全ての声が混ざり合って唸りをなし、クラーシェの周囲で渦を巻いた。彼女はその声の渦の中心に立ち、流れが過ぎ去るのを待つかのようにじっと動かなかった。
「クラーシェ様……」
 隣に立つカテリーネは、不安で張り裂けそうな目をしている。クラーシェはしかし彼女に応えることもせず、無言を決め込んでいた。
「何か仰ったらどうですか、クラーシェ様?」
 にやにやと下品な笑みを浮かべて絵描きがクラーシェの顔を覗き込む。俯き気味なクラーシェの表情は、前髪に隠されて見えなかった。
 その乾いた唇が微かに動いた。
 目敏くそれに気付いたイザベルが両手を振って人々の注目を集める。徐々に喧騒は納まり、皆がクラーシェに傾注した。
「……何でしょうか?」
 イザベルに促され、クラーシェはゆっくりと顔を上げた。前髪を掻き避け、覇気のないその目を人々の前に晒した。
 そして呟く。
「……済まなかった……我々の、非道……ここに、謝罪しよう」
 クラーシェを除く誰もが呆気に取られて彼女を見ていた。玄関前に集った人々は彼女の言葉を解釈できずに困惑しているようだった。その場にいる人々の間にあったのは、クラーシェの口から聞き出せる最も意外な言葉を耳にした衝撃というよりは、各々の印象にあるクラーシェという人物と目の前にいるこの女性の姿が噛み合わないために生じる混乱だった。
 だがそんなしおらしい彼女の態度に惑わされない者が、一人だけいた。
「……何ですって?」
 イザベルは目を見開き頬を痙攣させながらクラーシェににじり寄った。
 クラーシェは視線を伏せ、その謝罪を繰り返す。
「この街の……住人には、申し訳ないと……。……心より、そう、思っている……」
「どっ……」
 それまで余裕の態度を示していたイザベルは
「どの口が、そんな生温い言葉を……っ!!」
 激昂し今にも彼女に襲い掛からんばかりの勢いで叫んだ。
 が、彼女はすぐに状況の異変に気付く。群集は互いに囁き合っていた。自分達の目の前にいるこの女性は、果たしてクラーシェその人なのだろうか、と。記憶の中にある神殿の統治者と姿形は近くとも、女王から受ける威圧感がまるでこの女性からは欠如している。
 イザベルの顔に焦りが浮かんだ、そのときだった。
 足元から低い轟音が聞こえたかと思うと、いきなり大地が傾ぎ、街を大きな震動が襲った。その震動はこれまで時折警告するように街を揺らしたものとは規模が違い、まるで地を割り、街を飲み込もうとしているかと思われるほどに容赦のないものだった。
 地面に立っていられるものはおらず、クラーシェもイザベルも玄関先の群集も皆地に倒れ伏す。孤児院の窓ガラスが割れる音が聞こえ、あちらこちらで建物が倒壊し、街中が騒然となった。
 数十秒続いた地震は徐々に鎮まり、やがて完全に消え去った。後には奇妙なまでの静けさの中に、呆然として地に這い蹲った人々の息遣いだけが残った。
「神殿は……」
 その静寂を、クラーシェの小さな呟きが破った。
 いつの間にか立ち上がっていた彼女は、倒れた人々を冷たい目で高圧的に見下ろしながら告げる。
「街の住人を管理する……それが、役割であり……使命……。……住人には、それに歯向かう、権利など……最初から、ありはしない……」
 彼女の言葉にイザベルは過敏に反応する。
「な、にを……」
 奥歯を食いしばり、玄関口の柱に掴まって立ち上がったイザベルは、しかしクラーシェを見てぎょっとした。
 地に臥せった人々の前に立つその女は、その状況がさも当然であるかのように悠然とその場に佇んでいる。彼女という絶対的な存在を前にして、街の住人達は誰一人顔を上げることすらできない。そのような光景が自然とそこには広がっていた。
 クラーシェが落ち着いた、底冷えのするような視線をイザベルに向けた。ひっ、と短い悲鳴を上げてイザベルは半歩後退る。
 クラーシェは言う。
「時に、そなたのような……抗う力を持つものが、現われる……。その者は、通常……あの犬のように……島へ送られるが、しかし……煩わしい、だが、煩わしいだけで……。そなたがいかに人々を、唆そうと……この湖を、支配する物には……どれほど些細な……影響も……与えることは、叶わぬ……。何故なら、この街に住まう人間は、考えること……己が意思を貫くこと……そして──子を愛することを──二百年も昔に、放棄しているからだ……」
 あらゆる人間的思考を封じ込められ、湖≠フ代行者となったクラーシェは、その本来の役割を全うすべく目の前の人々に、そして街に住む全ての住人に命じる。
「忘れよ……そして、何も考えるな……」



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