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 冬の冷たい風が頬を切る中、一つの足音に遅れて、二つの足音が砂を蹴り始めたのをルファの耳は捉えた。
「もっと早く走れないの?」
 苛立って、先行させているエルヴィンの後ろ背に怒声を浴びせた。
「これが精一杯!」
 ルファの数分の一程度の速度でしか走れない彼は、翼に包まれた左腕と普通の右腕を必死に動かし、息を弾ませながら言葉を吐き出す。ルファは溜息をついて、反対方向に駆け出した。
 既に一人はすぐ後ろにまで迫っていて、反転に気付き小銃に手をかけたが、ルファは男に駆け寄る速度を緩めず姿勢を低くして足払いをかけると、うつ伏せに引き倒した。配給人とのいざこざはごめんなので、力はそれほど入れなかった。男はすぐに立ち上がったが、その間にエルヴィンはかなり距離を稼いだ。ルファは男を再度地面に引き倒してから全速力で走り、エルヴィンに追いついた。そのころには男の姿は見えなくなっていた。
「そこの棟に」
 ルファはアパートを顎で指した。声も発する余裕もないのか、エルヴィンは頷くだけだった。

 部屋に上げたエルヴィンは、ルファが渡したコップに入った水を貪るように飲んだ。ルファがじっとその様子を見つめていると、
「もう一杯飲んでもいいですか」
 と律儀に訊いてきた。
「何杯でも。どうせ、金払うのは私たちじゃないし」
 ルファが答えると、エルヴィンは水道に近付いて蛇口を捻った。時折土気色の水を吐く水道だが、大抵はまともな水が引かれるようになっている。想像に過ぎないが、この辺りの扱いは、普通の人間と何ら変わりがないのだと思う。なぜ、自分たちは蔑視されているのに水道を作り、配給など手の込んだことをしてまで生かされているのだろう。人間と会ってから、この手の疑問が頭の中をぐるぐると螺旋状に這い回る。生かされている意味。ひいては、生きている意味についての疑問。少し前までなら頭をよぎりもしなかったそれらのこと。
「あの」
「ん」
「名前、教えてください。呼びにくいので」
「ルファ」
「ルファ……さん。助けてくれて、ありがとうございました」
 改めて向き直ったエルヴィンは、礼を言った。
「私はただ、ここまで連れてきただけだよ。お礼ならイーヴァインに言ってあげて」
 なんとなく照れくさく、額に巻かれた包帯を弄りながら答えた。
「その怪我、大丈夫なんですか?」
 エルヴィンは包帯に目をやった。
「まだ痛むけど、平気。心配してくれてありがと」
 笑み混じりにそう言ったところで、玄関の扉が三度叩かれた。ルファは席を外して玄関に向かい、扉を開けた。そこにはイーヴァインと、ヘンリクがいた。イェニーの骨の一部が入った麻袋と、ルファに使った治療道具の余りとを抱えたヘンリクは、友人の死を間近で見てから変わらず無表情のままだった。

 三人が揃い、ルファはそれぞれにテーブルにつくよう勧めた。落ち着いた所で、エルヴィンは詳しい事情を話し始めた。この島を出ようとしたきっかけ、経緯、そしてこの島を脱走した後のこと。それらの話はどうも、ルーペルトという獣人が鍵になっているようだった。脱出しようと思い付いたのも、ルーペルトに言われて。脱出するための舟も、情報も、全てルーペルトが用意した。そして出発の直前、彼は、クラーシェへの復讐を口にした。
「つまり、ルーペルトが君らを脱出させようとした目的は分からないが、これから主眼が置かれるのは神殿の主への復讐なのではないかと疑っている。だからそれを止めたい、と」
「そうです」
「ルーペルト。ルーペルトか……」
 イーヴァインが、記憶を絞り出すように、呻くような声で呟いた。
「そいつは、飛べるか?」
「あ……はい。背中に羽がついていました」
 その言葉を聞くと、イーヴァインは額に皺を寄せつつ、話し始めた。
「もう二十年も前になるか……。当時、禁忌を破った獣人が二人いた。名は忘れたが……二人共に、羽をむしり取られた獣人だったと記憶している。その男女の獣人は、力が弱く、島に来た直後から他の獣人に襲われていたため、ユリウスと言う獣人が自主的に引き取った。ユリウスは自分の管理する孤児院で彼らを育てた。孤児院に入った時期は別々だったが、姿形が似ていたせいもあってか、二人は仲が良かった。そこまでなら、普通の話だ。ほれ、ちょうど、ここにいる二人のようにな」
 イーヴァインの言葉に、エルヴィンはルファとヘンリクを見比べた。
「だが、成長するにつれ、問題が生じた。女の方の性欲制御が、なぜかうまく働いていなかったんだ。二人は大人になったが、その仲の良さは仲間意識では片付けられなくなっていった。そして二人の間には……いつの間にか、子供がおった」
「子供が?」
 ルファは思わず、横から口を挟んだ。
「ああ。ほどなく噂が広まり、彼らは神殿の手のものによって殺された。獣人が子を成すことは脱走よりも罪が重い。そして子供もその場で殺されるはずだったが、生後ひと月も経っていないはずのその子供は、なんと既に成熟した頭脳を持ち、知恵と羽とを武器に追っ手から逃れたそうだ。確かそいつの名が、ルーペルト。禁忌の所業によって生まれた異形の者よ。生まれて間もなく排斥されたがゆえに……神殿への恨みも人一倍だろう」
 イーヴァインが話を終えるかどうかといった所で、エルヴィンは椅子をはねのけて立ち上がった。
「教えてください。今、彼は」
「ユリウス」
「え」
「話の途中でも出てきたが、ユリウスという獣人が、ルーペルトに詳しい。そいつを初めて見つけたのもユリウスだからな。後で本人から聞いた話だが、彼はルーペルトを見つけても、自然と周囲の獣人が勘付くまで黙っていたそうだ。ルーペルトの知り合いと呼べるものは今でも彼しかいないだろう。彼となら接触があってもおかしくはない」
 イーヴァインはそう言うと、ゆっくりと腰を上げた。
「君はどうやら神殿の主に思い入れがあるようだな。ルーペルトがどうやって復讐を果たすつもりなのかは皆目見当がつかないが、ユリウスに促されればあるいは翻意するかもしれん」
「……案内、お願いできますか?」
「いや。今日はもう遅い。孤児院も戸締りを始めている頃だろう。明日の朝一番で案内するから、今日は私の部屋に泊って行きなさい」
 テーブルに立てかけておいた杖を取り、イーヴァインは歩き出した。エルヴィンは無言で、深く頭を下げる。話はまとまったようだ。イーヴァインの部屋はルファの部屋の真向かいだったが、一応は玄関まで見送りに行こうと腰を上げかけたルファは、椅子に座り、俯いたままのヘンリクに気付いた。
「ヘンリク?」
 声をかけると、ヘンリクはゆっくりと顔を上げ、それからまた俯いた。ルファは口を開きかけたが続く言葉が出て来ずに、また閉じた。
「何か言いました?」
「あ……ううん。じゃあ、ね。早朝は獣人も少ないけど、気をつけて」
 振り返ったエルヴィンに、ルファはぎこちなく言葉を返した。
「はい。部屋に上げてくれてありがとうございました」
 玄関に歩いていくエルヴィンの背中を見送りながら、人間のような立ち振る舞いをする獣人はヘンリクの他にもいるんだな、とルファは思った。

 イーヴァインたちが出て行き、部屋にはルファとヘンリクの二人だけが残った。ルファはしばらく黙って突っ立っていたが、何も方策が思いつかなかったので、ヘンリクの真向かいの椅子を引いて座った。
「残念……だね。あんなことになって」
 かろうじて巡らせた言葉は、酷く陳腐なものになり沈黙を助長した。
「でも、でもね、別に、イェニーを庇うつもりじゃないんだけど、何か事情があったと思うの。イェニーって顔つきは悪くても優しいところあったし、何の理由もなく殺すなんて、考えられない。だから」
「ルファ。少し、黙ってもらっていいかな」
 ヘンリクが無表情で呟いた。ルファは口を噤み、テーブルの上で指を組んだ。ヘンリクの顔がヘンリクの顔に思えず、窓の外を見た。澄んだ空には何も異物は存在していない。空は空の物で、エルヴィンが話す、空を飛べる獣人など想像が出来ない。本当に居たとしたら、島に囚われた獣人たちを横目に行き来するのは愉快だろうな。会話する相手を探すだけで精一杯の、疑心暗鬼の渦巻く島を蔑みながら、彼は飛ぶ。そう、会話する相手ですら、貴重なのだ。そこで、ヘンリクはいつも一緒に居た友人を喪った。
 異音がし、ヘンリクに視線を戻す。少し目を離した間に、彼の顎は強く震え、歯が小刻みにかちあっていた。ルファは、初めのうちはそれが何なのか分からなかった。今まで見てきた獣人の誰も、ルファ自身も、したことのない行動。しばらく見つめて、目から液体が流れ出ていることに気付いた。……ヘンリクは、泣いている。
「ヘンリク……涙が」
 話に聞いたことはあっても、実際に見たことはなかった。しかも聞いた話と言うのは、人間のこと。その話を終えた後、獣人は泣くことはできない、獣人として生まれ落ちた時の悲しみが大き過ぎて、泣くほどの状況に遭遇することができないと、イーヴァインはそう言っていた。そう言っていたはずだ。
 ヘンリクの口もとは小刻みに歪み、喉の奥から絞り出したような呻き声が聞こえる。ヘンリクはルファに指摘され、自分自身驚いたように目を見開いたが、一度息を吐くと、益々激しく涙を零し始めた。そんな中、ヘンリクは突然立ち上がり、ルファの視線から逃れるように背を向けた。しかし体を支えていることができず、力が抜けたように床にへたり込んだ。
「いい……奴だった。確かに、他の獣人にとっては、ただの捕食者だったんだろう。それどころか、最後は獣人を無差別に殺して回った。でも、僕にとっては……」
 ルファは、掠れた声を発するヘンリクの隣へ静かに座った。
「僕にとっては」
 彼はその先の言葉が出て来ずに、軽くむせた。ルファは、ヘンリクが体ごと震わせていることに気付いた。
「僕は何もできなかった。君にだけそんな怪我を負わせておいて、何もできなかったんだよ、ルファ……」
 もたれかかるようにして体を預けてきた彼の手が、腕を強く掴む。ルファは黙って床を見つめていた。しばらくそうしていると、徐々に掴んでいた手が力を無くしていった。見れば、ヘンリクは前傾気味に背中を丸め、床に額を擦り付けていた。そして、右の拳を床に叩きつけ始めた。僕が、僕が、と叫びながら、何度も、何度も。ルファは呆然としていたが、ヘンリクの小指と薬指が濃く赤みを帯びてきた所で、反射的にその右手首を掴んだ。ヘンリクが、ルファを睨む。ルファは黙って手首を掴み続けた。
 しばらくして、埒が明かないと思ったルファは立ち上がった。ヘンリクの事も引き上げ、立たせる。
「やめて」
 ルファはヘンリクを見据え、右手首を掴んだまま、静かに言った。放っておけば、左手のような状態になる。硬く拳を作った左手からは、自らの爪が突き破ったのか、血が溢れ出していた。時折、床に垂れる。ヘンリクは既に泣くのを止め、頬を濡らしているのは幾重にも交錯した涙の跡だけだった。彼は何か言おうとして言葉が出て来なかったのか、返事の代わりに息をひとつ吐いた。それを合図に、ルファは掴んでいた手首をゆっくりと離す。彼は手首を擦るようにした後、顔を背けた。
「ごめん」
 床に叩きつけた拳を心配したというよりも、そうして自分自身に怒りをぶつけているヘンリクが辛そうだったから、止めた。彼はようやく感情の揺れがひと段落したのか、今頃になって息を切らし始めた。
 ヘンリクが持ち帰ってきた脱脂綿と包帯が、テーブルの上に置きっぱなしになっている。ルファはそれらを手に取った。それから、伏し目がちにその動きを見ていたヘンリクに目で促すと、彼は大人しく左手を差し出した。手の傷は獣人にとってみれば大したことはないものだった。脱脂綿で血を吸い取り、上から包帯を巻いていく。
「自分を責め過ぎないで」
 ヘンリクが頷いたのを見て、ルファはひとまずの安堵を覚えた。強がりだとしても、今はただ落ち着いて話が出来るだけでいい。落ち着いて話が出来るなら、そのうちきっと自分の言葉も彼に届くだろう。包帯を適当な長さでちぎり、端を結んだ。人間のようにはいかないが、不格好ながらもしっかりと包帯は固定された。
「ありがとう、ルファ」
 無理に作ったとすぐに分かる微笑みを浮かべて言うと、ヘンリクは寝室に歩いて行った。
「布団、借りるよ。少し休みたい……」

 しばらくは黙って椅子に座っていたが、することもないので寝室にヘンリクの様子を見に行った。ヘンリクは毛布を顎のあたりまでひいて、左向きに眠っていた。ルファは何の気なしに、彼の正面、少し離れた場所に座った。起きている時よりもずっと安らかな、いつもの顔を眺める。ヘンリクが来る前にイェニーを仕留め損ねた時には、もう、この顔を見ることができないと思った。そんなのは嫌だ。できることならずっと、この表情でいて欲しい。
 戦う時の無表情なヘンリクは、怖い。自分が何を言っても、耳に届かない状態になってしまう。例えそれが自分を守ってくれる時でも。一連の騒動を経験して、ヘンリクがヘンリクでいてくれる、いつも通りの風景が目の前にあることが幸せなんだと改めて思い知らされた。ヘンリクから与えられる温かな気持ちを当たり前と思っていた自分が、恥ずかしい。
 今度は、自分が彼に返す番だ。けれど、彼のようなことができるのだろうか。
「私、なんかに……」
 ルファは両膝を抱えた腕に額を押しつけ、目を閉じた。



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