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 掠っただけの拳打に額を切られ、血が、視界を塞いでいた。ルファは右目にかかる血を服の袖で乱雑に拭い、かろうじて視界を確保する。既にイェニーの長い爪は全てが折られていた。しかし、戦法を肉弾戦に切り替えた彼は、少しも戦力の衰えを感じさせなかった。振り抜かれた右腕を避けつつ、ヘンリクの様子を窺った。彼は地面に膝をついて肩を押さえていた。つい先程、噛み付かれた傷だ。
「早く立って!」
 自分が引き付けている間に、体勢を立て直してもらわないことには、目の前の化け物には勝てない。ヘンリクはルファの言葉を受け、どうにか立ち上がって、肩から手を離した。良かったと感じるより先に、腹に拳が叩きこまれた。何をよそ見をしている、という言葉が、口には出さなくとも伝わる拳だった。堪えることができず、ルファの口から吐き出された唾液が地面に散らばった。腹を押さえて、倒れ込む。倒れた自分に止めが入らないのを不思議に思い、血に覆われた目で見上げるとヘンリクが攻撃を仕掛けていた。しかし、敏捷性はあっても全ての打撃が軽いヘンリクの攻撃だ。イェニーはあまり痛手を被ってはいなかった。
 ルファは腹を押さえながら気力だけで立ち上がった。気力についていけず胃から反吐が逆流してきた。我慢できずにその場に吐き出す。黄色い胃液が視界の端に映る。口の端から顎にかけて、だらしなく胃液と唾液が垂れている感覚がした。ルファはまだ額から流れ続けている血と一緒にそれらも袖で拭った。ふらついた足で、正面に視線の焦点を合わせる。戦う中で距離が縮まったらしい。視線の先では、銃を構えた配給人たちが薄ら寒そうに戦闘を見つめていた。その中で、一人だけ楽しげに口の端を上げている男がいた。それほど距離は離れていない、と確認したルファは何も考えなかった。一足飛びにそこへ向かう。
 他の配給人たちが一斉に銃口をルファに向けたが、ルファは駆ける足を緩めず、にやついていた配給人に殴りかかった。彼の持っていた小銃から銃声がしたが、当たることはなかった。二発目の銃声がルファを捉えるよりも早く、ルファは彼を蹴り飛ばしていた。ルファは倒れた配給人の手から零れ落ちた小銃を拾い、そして、その切っ先をイェニーへと向けた。ヘンリクが一方的に押されていた。しかし、使い方が分からない。どこをどうすれば、弾が出るのかが分からない。
 ルファは苛立って、自分に銃口を向けたままの配給人たちに訊いた。
「ねえ、どうやって撃つの!」
 右手だけに小銃を持ち、それを掲げて訊いた。迂闊な行動だったが、今のルファには余裕がなかった。掲げた銃が、奪い取られる。後ろに回り込まれたか、と感じる前にルファはうつ伏せに倒されていた。確保、と言う声が頭上で聞こえた。
「射撃用意」
 低い声が、隣から聞こえた。ルファが蹴り倒した配給人の声がしたが、姿は見えない。後ろ手に抑え込まれたルファは、虚ろな目で、自分に向けられた十数丁の銃を捉えた。続けて、完全に立ち上がった配給人が言葉をつないだ。
「違う。イェニーに向けてだ」
 銃口が、ルファから逸れた。ルファもどうにか、視線を銃口の先へと移す。それを見て、どこかまどろんだ状態からルファは脱した。地面に伏せられたまま、慌てて怒鳴る。
「ヘンリク、下がって!」
「足を狙え!」
 一斉射撃の音が鳴り響いた。ヘンリクはルファの声が届きどうにか銃弾を回避したが、イェニーは違った。数々の銃弾を足に受け、立っていることができなくなった彼は地面に倒れていた。
「よくやった。女獣人も解放してやれ」
「よろしいのですか」
「ああ。……これから、もっと面白いものが見れる」
 配給人の薄気味悪い声が聞こえ、手の拘束が外れた。ルファはすぐさまヘンリクに駆け寄った。ルファの姿を捉えたヘンリクの瞳孔の開いた目が少しずつ落ち着きを取り戻し、元の状態に戻りかけている。
「大丈夫?」
 ルファはどう話しかけるか迷ってから、訊いた。ヘンリクの周りは、イェニーに殺された獣人たちの死体だらけだった。
「ああ……」
 彼は、無表情で呟いた。辛くても、ヘンリクならそう答えるにきまっている。馬鹿な訊き方をした、と唇を真一文字に結んだルファは、イェニーを横目で見た。
 イェニーは激しくのたうちまわり、悶えていた。立ち上がることもできず、低い叫び声を上げて苦しんでいるだけだった。下半身のありとあらゆる場所から痛々しい血液が溢れ出ていた。ルファはその姿を見て、ヘンリクと自分に対する仕打ちへの憎しみと、軽蔑と、憐れみと、少しの悲しみが入り混ざった表情を浮かべた。
「なんで、こんなことに……」
 ヘンリクの口から、一言だけが零れ落ちた。ルファは、茫然自失といったその表情を見ていることが出来なくなり、顔を背けた。
 周りでは、少し離れた位置で見ていた獣人たちが、不気味な表情を浮かべて場に戻りつつあった。仲間を喪った者特有の悲しみの視線が、全て、悶え苦しむイェニーに向けられていた。ルファは、身震いした。足の動かないイェニーを、どうするつもりなのだろう。
「早く、イェニーを、隠さないと」
 隠れる場所なんて、どこにもない。そんなことは分かっていたが、つい口に出していた。
「僕は……イェニーを助けるべきなのか?」
 彼は満面に苦渋を浮かべ、ルファの目を見つめ返した。
「だって、友だち、でしょ」
 ルファはもう一度、近寄ってくる獣人たちに視線を戻した。彼らはゆっくりと、確実に近づいてくる。ヘンリクは、その言葉には返答を寄越さなかった。
「何をのんびり歩いているんだ」
 そこで、先程の配給人の声が、狂騒の後の不気味な静寂を破った。ルファは、何かと自分を蔑む配給人を見つめる。彼は、獣人たちの前に歩み寄っていった。数十名はいるだろう、場に残っていた獣人たちが、彼へと目を向ける。
「よく、見回してみろ。これだけ、死んだ。お前たちの仲間は、何人、アイツに殺されたんだ? 見ただろう。目の前で。もう、言い逃れはできない。噂は本当だった。イェニーは、極力残虐に殺されてしかるべき獣人なんだ。そしてそいつは今、拘束されたも同然の状態だ」
 扇動するように、彼は言う。獣人は短慮な性格の者が多い。獣人たちの目が、悲しみから、憎しみへ変わっていく。
「殺せ」
 ルファは、目を見開いた。彼がそう言ったことで、殺しの免罪符を得たも同然になったの獣人たちが、一人、またひとりと駆け出した。
 何をするつもりだろう。彼の一番の友達の、ヘンリクの前で。
「ヘンリク。来るよ。早く、イェニーを」
 自分には分かる。ヘンリクと、イーヴァインを、どちらも同じ獣人に殺されたら、自分が、何をするか。
「イェニーを、どうすればいいんだ! 助けてどうする? こんなに他の獣人を、殺したのに?」
「いいから助けて!」
 思わず、ヒステリックに叫んでしまう。イェニーを助けてあげてほしいのか、それとも、友人に起こる惨劇を目の当たりにすることになるヘンリクを助けてあげてほしいのか、よく分からなかった。
 ヘンリクから目を切ると、ルファは未だに呻き続けているイェニーの側に駆けた。足をいくつもの銃弾に砕かれたイェニーは、いくら呻いても足を動かすことはできない。手を動かして体全体を引きずるように場から移動しようとしていたが、その移動速度など高が知れていた。
 イェニーに殺到しようとする獣人たちがすぐ傍まできていた。
「やめて!」
 その獣人たちの目がどうしようもないほど怖くて、両手でシャツの裾を握りしめながら叫んだ。
 しかし、当然のようにルファの訴えは無視された。ルファはもう一度口を開こうとしたが、一体目の獣人が目の前に駆け込んできた。ルファは、蹴った。しかし、魚のような鱗に滑り、蹴りが全く無意味なものになっていた。仕方なく、足払いを掛けて引き倒し、鱗の無い顔面に向けて踵を打ちおろそうとした。しかし、横腹から別の獣人が体当たりしてきて、ルファはイェニーのすぐ隣に、背中から倒れた。それとはまた別の獣人の顔が、手だけで逃げようとしていたイェニーの背に近付く。やめろ。そう叫んだルファは咄嗟に手を伸ばした。今までかろうじて損傷の無かった左手にその獣人の牙が深く突き刺さった。悲鳴が口から洩れたが、男が正気に戻ることは無い。
 爬虫類を思わせる男は、ルファから牙を抜く。右腕は間に合わなかった。イェニーの広い背の真ん中に、彼の牙が深く突き刺さった。彼は腕をばたつかせて必死にあがいたが、その腕を別の獣人たちの足が蹴り、骨を折った。完全に無抵抗となったイェニーに、獣人たちが殺到する。
 ルファはイェニーの体にまとわりつく獣人たちを蹴って、とにかく蹴って引き剥がしていったが、一体を相手にしている間に他の獣人が取りついていて、際限がなかった。そのうち蹴っている時間も惜しくなり、ルファは素手で引き剥がしにかかったが、獣人の誰かの強烈な拳が顔面に入り、肘が肋骨の辺りを抉り、手を噛み砕かれて、イェニーの隣からヘンリクの隣へ、投げ飛ばされた。ヘンリクは、ただ、その様子を眺めているだけだった。
「ヘンリク! 手伝って!」
 叫んでまた、引き剥がそうとするが、それからはもう、誰も止まりはしなかった。獣人の隙間を縫って中心に近づいたルファは、引き剥がそうとする前に、誰かに背中を蹴り飛ばされた。地面に膝をついてからは体中を蹴られ、殴られた。あまりの手数に気が遠のいたが、最後の力を振り絞って、堅牢な体つきをしている獣人の肩にまで足のバネだけで跳躍し、その肩を再び蹴って、どうにか輪の外へ逃げ出した。イェニーたちを襲って気が昂っている獣人たちのリンチが、ルファにも及んだ格好だった。
 ルファはよろめいたままヘンリクの目の前に歩いて行ったが、力尽きて倒れた。それから、顎を支点にかろうじて上を見上げた。ヘンリクは、表情を変えずにただ泣いていた。ルファは、左肘を支えにしてゆっくりと上体を起こし、ヘンリクの見つめる先に体を向けた。生きたまま喰われるというのは、ただのリンチより幾段も凄惨な光景に見える。
 異様な光景を、二人でしばらく眺めていた。イェニーが、生きたまま死んでいく。たった一週間前は、他者と関わろうとせずとも、穏やかな一面も時折のぞかせていたイェニーが、数多の獣人を殺傷して、制裁を受けている。彼に何が起きたと言うのだろう。一体何故、彼の友人であるヘンリクが、この場に居合わせなければいけなかったのだろう。
 獣人が、次々とイェニーの身体から退いていく。残っていたのは、引き裂かれた衣服と、骨だけだった。
 狂気をはらんだ獣人たちの中に、二人だけがぽつんと取り残されていた。高揚した空気が、収まりきっていない。ルファはそう感じた。体を泳がせつつも立ち上がって、ヘンリクを隠すようにして立った。袖で、額から流れ続けている血を拭く。
「何をしてる! さっさと正気に戻らんか!」
 身構えた所で、凄まじい怒声が、獣人たちの体を打った。聴力の良いルファは、思わず耳を塞ぎたくなるほどの声だった。ルファを見つめていた獣人たちが、はっとなったように、怒声の発せられた方向に目を移した。抉られた肩が激しく痛み出した。
「退け!」
 彼がもう一度喝破すると、獣人たちが慌てたように、声の主へと道を譲る。疲労と痛みから体を動かせないルファは、視線だけを向けた。
「生きていたか」
 心底安堵したような声が、聞こえた。


 意識を失うことができなかったため、治療には激痛が伴った。救いは、配給人たちが島に持ってきていた備品から治療薬や包帯などをイーヴァインがむしり取り、てきぱきと一つ一つの傷に応対していったことだった。伴う痛みは軽減されなかったが、傷の数の割には、治療はすぐ終わってくれそうだった。
「さあ、終わったぞ」
 イーヴァインがそう言って、背中を軽く二度叩いた。ルファは血塗れの服を着直して、立ち上がった。配給人たちを見まわすと、ルファを毛嫌いし意味深な言葉を吐いていた配給人と、視線が交錯した。彼は顔全体に広がる笑みを噛み潰したあと、目を逸らした。後ろめたい気持ちがあって逸らしたのかと思ったが、そうではなかった。彼の視線の先には、新たな人間たちが、ある程度まとまった隊列を組んで惨劇の跡地に歩みを進めていた。
「討伐隊か」
 いつものように耳が大袈裟に動き、配給人のひとりが呟いた声を捉えた。討伐隊と呼ばれた人間たちは、配給人たちの前で止まった。
「ご苦労様です。イェニーが突如暴走しご覧のあり様ですが、捜索には支障ないかと」
 ルファを毛嫌いする配給人は、先頭を歩く人間を出迎え、うやうやしく言った。
「これは……酷いな。だが、良く鎮圧した。君たちは予定通り一班に編入させてもらう。詳しい被害や経過報告はそのあと頼む」
「は」
「一班。この場に居る獣人に、我々に危害を加えた場合の説明。二班。死骸の処理を。三班。町内放送による説明。いずれも規定の作業を終えたら捜索を始めろ。捜索場所は伝達した通りだ。それ以外は今すぐにかかれ」
「了解しました」
 耳の良いルファには聞こえていたが、場に居る他の獣人たちにはよく聞き取れていないようだった。それから 人間のうちのひとまとまりが、獣人たちに近付く。ルファとイーヴァインも、そちらを見つめた。一班と呼ばれたまとまりの先頭には、人間と、どこかで見た覚えのある獣人が並んで立っていた。
「よく聞け。今回、上陸した我々に一名でも獣人が危害を与えた場合、長期の食料停止を行う」
 獣人たちが一斉にどよめいた。前もって宣言されずとも暗黙の了解になっていることだったが、神殿の人員が大挙して上陸するような事態が起きているとは思えず、状況を呑み込めている者が誰一人としていなかったからだ。
「なぜかは聞くな。いいな」
 隣に居る獣人のことは説明せず、一班と呼ばれたまとまりは踵を返し、湖岸の方へと向かった。







「有翼獣人……ルーペルトと出会ったのはここの湖岸です。脱出させてもらったのも、ここから。彼自身、何か思い入れのある場所なんだと思いますよ」
 何でもいいから足がかりになりそうな情報を出せ、と言われ、エルヴィンは答えた。脱出した穴が開いているはずの鉄柵をそれとなく確認したが、既に元通りになっていた。
「本当か? 同族意識で庇ってるんじゃないだろうな」
「本当です」
 最初から信用していない素振りで訊き返した声に応じ、エルヴィンは湖に視線を移す。自分は島に戻り次第、獣人たちに突き出され、禁忌を破ったものとして惨殺されるものだと思っていたが、どうやらまだ猶予があるようだ。
「セルジュ、ラファウ、カロル。お前らはここに残れ。俺たちは街中を捜してくる。有翼獣人を見つけたら即、銃殺だ。何発撃っても構わない」
「了解しました」
 クラーシェと交わした言葉が思い出される。自分を死地に送り出すことを憂いていたあの目。彼女が今も気に病んでいるのかどうかは分からないが、この場を切り抜け、まだ生きていると伝えられたら、彼女はどんな反応をするだろう。喜ぶだろうか。従者の真似事をしていた時には、彼女の綻んだ顔など一度も見たことがなかったから、想像ができない。
「ついでにこの獣人も見張ってろ。こいつと街を歩いて何かあったら面倒だからな。……ただ、顔が分かるのはこいつだけのようだから、後で検分に使う。絶対に逃がすなよ」
 隊長格の人物はそう言い、他の部下を引き連れて鉄柵沿いに歩き出した。
 後ろ姿が見えなくなってから、三人はほとんど呻き声に近い溜息をつき、一人は土の上に腰を落とした。
「配給が終わったってのに何だってこんな島に残んなきゃいけねぇんだ……討伐隊なんかに組み入れられて」
「今日は特別給料いいけどよ。さっき死んだイェニーみたいなバケモンと一緒の島に居るってだけで怖気が走る」
「せめてこいつがまともな女だったらな……」
 気だるそうな口調で、地面に座っている一人が羽毛に覆われたエルヴィンの左腕を見上げた。いい加減、男だと主張するのも煩わしくなっていたエルヴィンはあえて否定せず、
「まともな女じゃなくてごめんなさい」
 と謝った。舌打ちした男は、制服のポケットをまさぐると煙草を一本取り出し、オイルライターで火を点けた。思い切り吸いこんでから、中空に向かって煙を吐き捨てる。煙草の臭いが立ち昇ってきて、咳き込んだ。
 エルヴィンは男たちから顔を背け、ひとしきり咳き込んだ後で湖岸に林立する針葉樹に目を向けた。何気なく目を向けただけだったが、夕空に照らされる木々にはどこか違和感があり、エルヴィンはそのうちの一本を凝視した。
「獣人……」
 呟くと、座っていた男が慌てて立ち上がった気配がした。
「冗……冗談のつもりか? 俺らを襲ったら食料停止だぞ。いくら獣人がバカでもそこんとこはわきまえてるだろ」
「擬態の得意な獣人……。でも、今は……」
 言い掛けた所で、真後ろで悲鳴と銃声が同時に鳴り響いた。振り返れば、そこには針葉樹の木肌と同じ色に体を変化させた獣人がいた。彼は長い手を一人の隊員の腹の辺りに絡ませて抱きかかえ、骨を圧迫していた。自分の戦闘能力が皆無に近いことを知っているエルヴィンは、慌てて針葉樹の林立する方向へ走った。一旦様子を見ようと振り返って、エルヴィンは気付いた。見張りが誰ひとりとして自分に視線を向けていないことに。

 人間と同程度の力しか持たないエルヴィンは街の方向を目指して走り続けたが、その途中で足がもつれて転んだ。もう少し距離を稼がなければと足を叱咤し、立ち上がる。息を整えながら辺りを見回すと、いつの間にか、イェニーという獣人が暴れた場所に辿り着いていた。獣人は数名残っているが、死体は片付けられ討伐隊は一人も残っていなかった。しかしこのような目立つ所に居れば見つかるのも時間の問題だ。もう一度走り出す前に、場に残っている三名の獣人に目をやる。イーヴァインと、他二人は知らない獣人だった。
 視線を外した所で、ふと、考えが浮かんだ。イーヴァインなら、匿ってくれるのではないだろうか。彼と直接の面識は一度だけ、散歩中に偶然、薬の材料集めをしていた彼を見掛け、それを手伝った時だけだった。恐らく忘れられているだろう。しかし、彼の懐の深さは獣人の間でも評判が良い。もし頼みが聞き入れられなくても、食料のためといって殺されたりはしない。
 エルヴィンは決心し、ゆっくりとその三人に近づいた。
「あっ、あの……」
 弾む息を整えてから声を掛けた。屈みこむ二人のうち一人の獣人と、杖に体重を預けて立っているイーヴァインの目が、同時に向けられた。
「何か用でも?」
「あの、俺、エルヴィンっていいます。……あ、さっき、討伐隊と一緒に来た奴です」
「ああ……居たな、そういえば。そのエルヴィンが、何の用だ?」
 イーヴァインが訝るように言う。
「俺が何で討伐隊と一緒に居たかというと、つい先日この島を脱走して、失敗したからなんです。それから、ここに連れ戻されて……」
「脱走失敗だと? 簡単に言う……」
「後で詳しく話します。説明の後、しばらく一緒に行動してたら、別行動を取って隙ができたので、ついまた脱走してしまって。今も逃げてる途中なんです」
「何でそんなことしたの?」
 黙ってエルヴィンのことを見上げていた女の獣人が、強めの口調で訊き返し、立ち上がった。
「脱走が見つかったら、島の住民の食糧供給が全て停止されることもある。知ってるでしょ」
 詰め寄ってきた彼女は、半ば睨むようにしてエルヴィンを見つめた。間近で見ると、額や左手に巻かれた包帯からは血が滲んでいた。
「知ってます」
「何で一度目は咎がなかったのかは知らないけど、また討伐隊から逃げたりしたら、食欲旺盛な獣人に突き出されて殺されるか、食料供給を停止された獣人たちの自主的な制裁を受けるか、二択しかなくなるよ。大人しく戻ったほうがいいんじゃない?」
「でも、もう再脱走はバレてると思うんで、今更戻っても……。だから、出来れば一時的に匿ってもらいたいんです。他にすることがありますし、その後はすぐ出ていきますから、迷惑はかけません。お願いします」
 エルヴィンは頭を下げた。女の獣人は少しの間を置き、呆れたように溜息をついた。エルヴィンが窺うように顔を上げると彼女は軽く頭を掻き、後ろに居るイーヴァインを振り仰いだ。女の獣人に目を向けられた彼は、口を開いた。
「一時的に匿うくらいなら、わけはない」
「ほ、本当ですか?」
「だが……」
 何か条件があるのかと思い、言い淀んだイーヴァインを見つめていると、
「私が家に案内しとく。集めるのは二人でお願い」
 女の獣人の方が答えた。何を集めているのだろうと思い覗くと、しゃがんでいる方の獣人が手に取っているのは、血や肉の残りかすがへばり付いた骨だった。その獣人は、エルヴィンを気にする素振りもなく黙々と骨を拾い集めては、麻袋に突っ込んでいた。







 命がけで獣人を撃退し、改めて周囲を確認したとき、既にエルヴィンの姿はなかった。
「セルジュ! セルージュッ!」
 自らの骨を粉砕しようとした獣人の死体を執拗に破壊しているセルジュに向け、カロルは怒鳴った。獣人の死体は頭が潰れ、辺りには血痕が飛び散っている。
「そんな死体はもういい! 保護獣人が逃げやがったぞ!」
 既にラファウは先行してあの獣人を追いかけている。
「あ? んなもん放っとけよ。率直に報告しようぜ。予想外に強い獣人に襲われて、その隙に逃げられましたって。そのあと討伐隊全体で捜索すりゃ、すぐ見つかるだろ」
「馬鹿言うな。誰がそんな報告を信じる」
「なんで」
「食料停止のことをこの獣人は知らなかったみたいだが、上はそうは思ってない。全ての獣人は襲ってこないって言う前提が頭の中に出来上がってんだ。そこで、獣人に襲われて、なんて言ってみろ。責任逃れの言い訳にしか受け取ってもらえない」
「けど、現にここに死体が……」
「そんなもんどっかから適当に殺して持ってくりゃ済む話だろうが! 有翼獣人の証人を逃がした上に、言い訳の為に獣人を無断で殺した、なんてことになったら、懲罰房行きは堅ぇよ!」
 カロルはクラーシェの低い声、怖気立つ瞳を思い出していた。目の前に立っただけで反抗する気力を萎えさせる瞳。同じことを想像したのか、ようやくセルジュの顔にも焦りが見え始めた。
「じゃあ、どうすんだよ!」
「今すぐとっ捕まえて、ここに戻ってくる。単純な話だ」
 カロルは言い切り、島に入る前に渡された小銃の銃把を握りしめた。



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