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 そいつは、俺が知る限りで唯一、翼を使って湖を越えることができる獣人だった。子どもが近くのごみ置き場から拾ってきたものを無造作に組み合わせたようなその獣人は、真夜中の湖畔に呼び出された俺とマルガレッタを前にがちゃがちゃと言った。
「……俺は当てが外れたようだな?」
 遠く湖上に揺らめく巡視船の松明を背にして、ルーペルトは宙に浮いていた。小さな怪物が羽ばたく不快な音が辺り一帯に響き渡る。
「お前ぇ、犬さんよぉ……。島を脱出できればそれで満足かい、え。お仲間はどうした、ほれぇ。神殿に捕まったろう、彼女は今頃どんな仕打ちを受けているか、想像もできないのだな、貧しい、貧しい魂……」
 眉の形をした部品がハの字に傾き、黒々とした大きな両目が俺を哀れむように見下す。
「……気にしないわけじゃない。ただ、街で会ったんだ……クラーシェに。あいつは俺の正体を知ってたはずなのに俺を捕まえなかった。エルヴィンの安全も保証してくれた。それとエルヴィンは男だ。間違えるな」
 ルーペルトは俺の反論を聞くときしきしと乾いた笑い声を上げた。
「クラーシェ?……クラーシェ! あの悪魔、あの魔女の言葉を信じると!」
 確かにクラーシェは無条件に信頼を置ける存在ではない。だが俺にとっては目の前にいるこいつのほうが悪魔に見えた。
 その悪魔は不意にその部品の隙間へと細長い手を突っ込むと、何かを取り出して空にばら撒いて見せた。それを見て俺は息を呑む。
「エルヴィンはこっちへ来たよ、送り返されてきたよ、神殿になぁ、あの魔女にな。残念、彼女……彼がどうなったか、今更言わなくてもわかるよな、犬さんよぉ」
 目の前にひらひらと舞う、むしりとられたエルヴィンの羽毛を見て固まる俺の反応を見て満足したのか、ルーペルトは次にマルガレッタに視線を移した。それまで一言も発さずに実を強張らせていた彼女は、体を震わせこそしなかったが、その緊張が縄を通して俺にも伝わってきた。
「婆さんも婆さんだよな、よくそんな獣人傍に置いてるな? え、俺の姿を見てそんなに驚いてるってこたぁ、島にいるのはそこの犬ころみたいな連中ばっかりだと思ってたか」
 ルーペルトは素早い動きでマルガレッタの顔に近づいた。
「あんた、三日くらい前に孫を儀式にやったな。名前、何だっけぇ、フリッツ君か」
 え、と俺は思わず声を出しそうになる。何故こいつがそんなことまで知っているんだ。いや、考えてみたら不思議ではないのかもしれない。こいつは島と街とを自由に行き来できる。もしかしたらこれまでも、何度も街に来ては俺や婆さんの様子を監視していたのかもしれない。……何のために?
「あーあんたにも見せてやりたいよ、憐れなフリッツ少年、どんな醜い姿になってしまったか!」
「……あなたには何の関係もないことです。孫は──」
「そうそう、あんたにはちょっとしたニュースを届けてやろう、婆さん。……あんたのお孫さんはな、お亡くなりになった」
 突然の報告だった。マルガレッタも俺も呆気に取られ、まるで言葉を返すことができない。
 フリッツが死んだ、だって? 馬鹿な……しかし、あの島に送られたんだ、状況によっては……。
 ルーペルトは畳み掛けるように話を続ける。
「ごめんねぇ、折られた角の一本でも持ってきて見せてやればよかったんだがな。あぁ別に彼が何かやらかしたわけじゃぁない。島で有名な凶暴狼男がいて、そいつがちょいと暴れてな。何十匹も殺された。そん中の一匹がフリッツ少年というわけさ」

 私の部屋にはもう誰もいない。
 今日も一人、儀式があった。島送り。理由はよく島を眺めていたから。たったそれだけで、あの子は獣へと姿を変え、あのゴミ箱へ捨てられることとなった。その判断を下した私は、決して悪くはない。要求されるレートが高すぎるだけだ。
 窓辺に座って島を眺める。あの島はゴミ箱だ。獣人は街から間引かれた、いわば不必要な枝。木を枯れさせないためには枝の数を調節しなければいけないと、これまでずっとそう信じてやってきた。
 それならば、しかし。
 私はいつからあの島をこんなに気にかけるようになったのだろう。興味を持つ必要はないのに。興味を持ってはならないのに。
 数日の間、この部屋にいた彼は今あそこにいる。そして恐らく……もう殺されている。私の力が足りなかったばかりに。折角あのゴミ箱の中から這い出してきた彼を、私は見捨てた。
 見捨てたのだ。

 長椅子に寄りかかってうとうととしていたカテリーネは、教会の扉が開かれた音に飛び上がった。慌てて足元にある掃除道具を手に取ろうとして、水を床に零してしまう。
「ごっ、ごめんなさい! 私、掃除中ですよ、掃除してます……え、あれ」
 教会の扉を開けた人物を見て、カテリーネはぽかんと口を開けた。入り口に立っていたのは、顔を布で覆い隠した女性だった。彼女は遠慮がちに、
「お掃除中すみません、ですが、少しお話を聞いていただけないでしょうか……?」
 と尋ねた。
「え? はい……はぁ。そっ……と、とりあえず中へ」
 そう言い、カテリーネはあたふたと床にこぼれた水を拭き取る。
 顔を隠した女性は扉をそっと閉め、カテリーネの近くへおずおずと歩み寄った。恥ずかしそうに掃除道具を長椅子の陰に隠したカテリーネは、目の前の女性を見て、あ、と声を上げる。
「あなた、えー……と、よく会いますよね。その薬局とか、街とかで」
「覚えていていただけましたか」
 そう言って微笑む彼女の口元が布の下から覗いている。カテリーネの視線が布の下を探っていることに気付くと、女性は慌てたように布を引き下げて顔を隠した。
 カテリーネは曖昧な笑みを返し、尋ねる。
「で、それでその今日は、またどういった……?」
「実は……」
 女性は数逡の後、声を潜めるようにして言う。
「しばらくの間、私をここへ置いていただけないでしょうか」
「え……置く? 置くって、ここに住むってことですか?」
 女性は頷く。
「あの、何でですか? また……」
「それが、その……」
 言いにくそうに言葉を濁した後、彼女は
「少し、追われていて」
 と答えた。
「少し追われている……。要するにあなたは追われているんですか。え、……えーと……この狭い街の中で? あぁその別にっ、あなたのこと変な人とか思ってるわけじゃ、ないですからね」
 カテリーネは変な人を見るような目で女性を見てそう弁明したが、彼女は首を振った。
「すみません、やっぱり怪しいですよね、いきなりこんな……」
「そ、そんなことはないですよ別に。まぁ、ほら、孤児院、今子どもが少ないので、っていうか一人もいないんで部屋はいっぱい余ってますし。そう、それにその……ねぇ?」
「はぁ……」
 そのとき、祭壇の脇にある扉をノックする音が聞こえ、「ただいま、帰りましたよ」という声と共に扉が開かれた。そこに現れたのは、壮年の神父だった。女性は慌てて彼に背を向け、布を引き下ろして更に顔を見えなくした。
「あ、おかりなさい神父さん。神父様。……あっすみませんまだ掃除終わってなくて」
「気にしないで下さい、私はあなたに丁寧な掃除を期待しているのです、ゆっくりやればいいのですよ。……おや、そちらの方は?」
 神父は顔を隠した女性に目をやる。女性は顔を隠したまま振り向くと、こんにちは、と小声で挨拶をした。その姿を見て、神父は
「あぁ思い出した、あなた、神殿で働いていらっしゃる方でしたね? 確か……シェデムさん、でしたかな」
 と言った。
「え、そうなんですか」
「はい……その、雑務というか、掃除係というか」
「じゃぁ、私と同じですね」
「シスター、あなたの本業は掃除ではありませんよ」
 カテリーネはしゅんとして顔を逸らす。それで、と神父は改めてカテリーネに向き直る。
「この方は今日はどんな御用で?」
「それが、追われているとか何とかで、しばらくここに匿ってもらいたいんだそうです」
「ほう……しかし我々よりも、神殿や自警団のほうがそういった事情には……」
 言いかけた神父の言葉を、シェデムが遮った。
「すみませんが、追われているというのは間違いなんです。実は、何というかこう……家がなくて。住む家が、なくなってしまったんです。少し訳があって、神殿の職も失ってしまって」
「え、じゃ追われてるってのは何だったんですか」
 カテリーネにそう突っ込まれ、シェデムはしどろもどろになり口を閉ざしてしまう。
 場をとりなすように神父がまぁまぁと言う。
「何か事情がおありのようですね。シスター、孤児院の部屋は使えますか?」
「えぇ、ちょっと片付ければ、そんなに問題ありませんけど」
 カテリーネはまだシェデムを不審そうに目で見ていたが、神父は人の良さそうな笑顔を浮かべて女性に言う。
「よろしい。それでは、しばらく孤児院に身を置くといいでしょう。丁度子ども達がみんな出て行ってしまって、私らも寂しかったところです。歓迎しますよ」
 シェデムは布が落ちないように軽く手で抑えながら、礼を述べて頭を下げた。

 その日の朝食は、家族の間に全く会話のないまま終わった。
 階上から着替えたバジリウスがばたばたと降りてきて、食卓のマルガレッタに声をかける。
「まずい、また寝坊だ……それじゃ、僕はもう行くよ。ごめん母さん、今日はちょっと時間がないんだ。本が入荷される日で……」
 マルガレッタは黙ってお茶を啜っていたが、ふと顔を上げると家を出て行こうとするバジリウスの名前を呼んで彼を引き止めた。
「……あなた、もう」
「え? 何?」
 廊下のほうからバジリウスが顔を覗かせる。時間がないのか、やや焦っているのがその表情から伺えた。
「……いえ。……随分と立ち直りが早くて安心しているのです。三年前のように、一週間も仕事に出られなくなったらどうしようかと、心配していたものですから」
「それは、……勿論、フリッツのことは悲しいけど」
 バジリウスは言葉を切って頭を掻く。
「……でも、いつまでも悲しんではいられないんだ。僕には仕事があるし、……フリッツもきっと、島で元気でやっているんだって思うことにしたよ」
 じゃ、と片手を挙げ、バジリウスは家を出て行った。
 家の中が一時静まり返り、やがて、かちゃ、というマルガレッタがティーカップを置く音が響いた。
「フリッツはもう死んだというのに……」
 彼女の呟きが上から聞こえてくる。俺はもそもそと机の下から這い出すと、
「そんなのわからないじゃないか。あんな変なヤツの言うこと信じるのかよ」
 と意見した。俺なりに声色に気を遣ったつもりだったが、マルガレッタは不快そうに俺を睨む。
「あなたはその彼の言うことを信じて島を脱出できたのではなかったのですか」
「そりゃあいつは舟を持ってたし……でもそれとこれとは話が違うだろ」
 昨晩、俺の下に一通の手紙が届けられた。マルガレッタと共に、その日の深夜湖畔のある場所へ来い、と。差出人の名前に見覚えがあったから、不審に思いながらも俺はマルガレッタをつれてその場所へと行ったのだ。そこにはルーペルトがいた。
 奴はどうやら俺の様子を見に来たらしい。……俺がメイヤー家で安穏と暮らしているのが気に食わなかったのか、エルヴィンが殺されたと言って神殿に対する反抗心を煽ろうとしたようだが……。
「あいつは何が目的なのか知らないけど、俺達を焚きつけて何かさせようって魂胆が見え見えだったじゃないか。……まぁ羽根を見せられたときはびびったけど、どうせ……そこらへんの水鳥の羽根を毟って持ってきただけだ」
 あまり人を見かけで判断するのはよくないのかも知れないが、俺はエルヴィンは無事だというクラーシェの言葉のほうが信用できるような気がしていた。例え脱出を手助けしてくれた恩人だとしても、あいつの言葉は鵜呑みにはできない。疑いだしたらキリがないが、エルヴィンが捕まったというのも、あいつの計算に入っていたような気すらしていた。
「そうかもしれませんね。しかし私にとっては、あの者の言葉の真偽などどちらでもいいのですよ」
 マルガレッタは妙なことを言った。
「どういうことだ?……その、フリッツが生きてても死んでても、ってことか?」
「……そういうことです。どちらにしても、あの子が二度とこの街へ戻ってくることができないことには変わりはありません」
「そうとも限らない。現に俺がここにいる」
「あなたは私に」
 マルガレッタの声色が鋭いものになった。俺は思わず耳を寝かせる。
「いつかまた会えるかもしれないから希望を持ってその日を待てというのですか。そしてその希望に縋りながら悲しみに耐え、この街で静かに暮らして行くべきであると……?」
「そ、……ん……」
 反論が見つからない。仮にここで俺が上手く理屈の通った高説を述べたとしても、恐らくマルガレッタは聞き入れないだろう。彼女はあからさまに声を荒げはしなかったが、その声の奥底に、これまで見たこともないような激しい怒りが滾っているのが俺にはわかった。
「あの子は」
 マルガレッタはバジリウスが出て行った家の扉を見つめながら言った。
「あれほどすぐに悲しみから立ち直れるような強い人間ではなかったはずなのに。……おかしいのですよ、何かが」
「それって……もしかして……」
 彼女の話に、俺はあることを思いついて首を持ち上げた。
「忘れさせられてるってのか。……神殿に」
 島の獣人は街の記憶を失っていく。街の住人は島へ送られていく子どもの記憶を失っていく。……どちらも、不自然な速度で。
「意識することを妨げられているのかもしれません。現に私も、言われるまで気がつきませんでしたから」
「何にだよ」
「この街が、本当はおかしいということにです」
 マルガレッタははっきりとそう言った。

 バジリウスが遅れて本屋に到着すると、書店の裏に店員達が集まっていた。バジリウスは眉を寄せ、彼らに声をかける。
「どうかしました? 神殿の方は?」
 若い店員が振り返り、あっ、おはようございます店長、と挨拶をした。
「それが、今日は入荷がないそうなんですよ」
「え?」
 バジリウスはぽかんと口を開けて聞き返した。
「つい先ほど神殿の方が来られたのですが、今月の入荷は延期になった、とだけ言い渡されて……。何か、あったんですかね、神殿で」
 店員はにやりと興味深げな表情を浮かべて腕を組む。バジリウスはそんな彼を見て辟易したように首を振った。
「まぁ何があったのかは知らないけど、んん……そうなると結構時間が余るなぁ」
「そうなんですよ、いつも神殿の方にあれこれ指示されて時間がかかるから、開店は昼からにしてるのに。どうします?」
 バジリウスは時計を見てしばらく考えた後、それじゃ、と店員達に指示を出す。
「仕方ない。とりあえずここは解散、十一時になったらまた来てくれ。改めて店を開けるから」
 元々弛緩していたその場の空気は彼の言葉で更に緩み、眠そうな店員達は各々だらけた返事をして去っていった。
 バジリウスは彼らを見送ると、ふぅ、と肩を落とす。
 まだ薄暗く人通りも疎らな通りを眺め、どうするかな、と呟く。

 その部屋の壁には、適度な間隔を置いて油絵が飾られていた。落ち着いた照明の下に浮かび上がるそれらは風景を描いたものが主であり、湖や街並みが四角い枠の中に鮮やかな色彩切り取られている。
「どうです。気に入ったものがあれば、良心的価格で提供させていただきますよ」
 部屋の奥にある椅子に腰掛けた絵描きがそう言った。絵描きはすらりとした体躯の中年の女性で、今も部屋の隅に立てたイーゼルを前に構図を練っているところだった。
「いや、これから仕事がありますし……それにしても、いい絵ですね。後日また来ようかな」
 ふらりとこの店へ立ち寄ったバジリウスは、時間を潰そうとぼんやり絵を眺めてすごしていた。そんな彼の姿を絵描きは時折横目で観察している。
「お客さん……失礼ですが、最近お子さんが十三歳の誕生日を迎えられたのではありませんか?」
 驚いて振り向いたバジリウスに、絵描き──イザベルは同情を込めた目を向ける。
「そのようですね……可哀想に」
「ど……うしてわかったんですか……?」
 問われたイザベルは鉛筆を置き、男性のほうへ向き直った。
「悲しみのやり場がなくて途方に暮れている、顔を見ればわかります……」
 バジリウスは一瞬言葉に詰まるが、すぐに彼女の言葉を否定する。
「い、いえ私は……勿論、息子を失ったのは悲しむべきことですが、儀式には逆らえませんし、途方に暮れているという程のことも」
「どうか無理をなさらないで」
 そう言うとイザベルは椅子から立ち上がり、こつこつと部屋の中を歩く。
「私も昔、愛する我が子を失いました。あの儀式によって……。あの日のことは今でも時々夢に見ます。笑顔で家を出て行ったあの子は、二度と戻らなかった。悲しみはやがて癒えると神殿の方は言いますが、けしてそんなことはありませんでした」
 彼女の話を聞きながら、バジリウスは難しそうな顔をしている。突然の話に戸惑ってはいたが、それ以上に彼は彼女の語りに聞き入っていた。イザベルはゆっくりと彼の周りを回る。
「私に教えられたのは、我が子が島へ行った、ただその事実だけでした。生きているのか死んでいるのか……それすらも知ることはできません。選ばれるということは、すなわち今生の別れ……二度と会えないというのに安否すら知る手段がないというのは、殺されるよりひどい仕打ちです」
「確かに……その通りですね……」
 彼の背後にいたイザベルの顔に、歪んだ笑みが広がる。
「しかし……ご存知でしょうか」
 イザベルの声色が、必要以上の抑揚を伴った、妙に演技がかったものへと変わる。
「実は……安否とは行かないまでも、どのような姿に変えられたのかを知る手段はあるのです」
 え、とバジリウスが顔を上げると、彼の正面にイザベルはいた。イザベルは真っ直ぐに彼の目を覗き込み、一言一言はっきりと言葉を紡ぐ。
「通常神殿から島への舟路は岩の陰になっていて街からは見えませんが……街の湖畔に一箇所だけ、その舟が目視できる場所があるのです。神殿も気付いてはいないでしょう……私はいつも、そこから島へ渡る舟を観察しています。……お子さんの誕生日は、三日前ではありませんか?」
 バジリウスはごくりと唾を飲む。
「何で……そ、その通りですが」
「ちょうど昨日、獣人を乗せた舟が島へ渡ったのです。神殿は儀式で子どもを選んだ場合、二日ほど後に島へ送るのです。……もしあなたが望むのであれば」
 イザベルはイーゼルの横に並べてあったファイルの中から数枚の画用紙を取り出した。
「あなたのお子さんを描き写したものをお譲りしましょう。ここにあるのは、昨日私が描いたお子さんの獣人としての姿です」
 バジリウスは面食らったようだった。
「そんな……いえ、もし、それが本当だとしても、記憶の中にある……息子の最後の姿は……可愛い、人間の姿のままでいてほしい……それが正しいのだと思います」
 彼は戸惑いながらも自らの意見を述べたが、
「そうでしょうか」
 即座にイザベルはそう言い捨てた。
「あなたは辛すぎる悲しみから目を逸らそうとしているだけではありませんか? しかしその悲しみというものの本質をあなたは見ていない。目を逸らすのではなく、忘れようとすらしているのではありませんか?」
 ひとしきり責め立てるようにして話した後、イザベルは諭すような穏やかな口調に戻って続ける。
「あなたが本当に息子さんを愛しているというのなら……その最愛の我が子がどんな仕打ちを受けたのか、その事実を受け入れるのが勤めだとは思いませんか。あの島へと送られた息子さんのためにも、あなたの思いを示してあげてください。きっと、息子さんも喜ばれますよ」
 バジリウスは少しの間思いつめた顔をしていたが、やがてふっと小さく微笑むと手を差し出す。
「……そうですね。それではご厚意に甘えて、その絵を頂いても構いませんか?」
 イザベルは晴れやかな笑みを浮かべて
「千ズロチになります」
 と言った。
「え?」
「あぁ、勿論油絵よりは随分桁を落としていますよ。これはあくまで私からの贈り物ですから」
「あ、はぁ、そうですか……はい」
 バジリウスはどこか釈然としないような顔を浮かべていたが、すぐに財布の中から数枚の札を取り出してイザベルに渡した。イザベルはそれと交換に、数枚の画用紙を紙袋に入れてバジリウスに手渡す。
 バジリウスは紙袋の中を覗こうとしたが、イザベルがそれを止める。
「その絵はどうぞ、ご自宅でご覧下さい。獣人の姿は、初めて目にする方には刺激が強すぎる場合もありますので、どうぞ落ち着いて、お茶でも飲みながらご覧になるといいですよ」
 にこやかにそう言って、イザベルはバジリウスを見送った。

 孤児院の狭い廊下を、カテリーネはシェデムを連れて進んでいく。
 時折立ち止まっては、ここが食堂、ここが中庭、というように部屋の中をシェデムに示して説明をした。子ども達が使っていた部屋は全て空き部屋になっており、それら一つ一つを訪れるたびにカテリーネの顔が翳りを帯びるのをシェデムは横から眺めていた。
 最後にシェデムが通されたのは、カテリーネの自室だった。
「えーと、ここが私の部屋です。特に何もないですけど」
 カテリーネは寝台に腰掛けて一息つくと、
「それで、そうですね、今日どこで寝ましょうか……割とどこでも使っていいらしいんですけど、その……何かお疲れ……みたいですね」
 とシェデムの顔を伺いながら言った。彼女の言うとおり、シェデムは歩きながら時折ふらついて壁にもたれかかることが何度かあった。
「いえ……私は大丈夫です。カテリーネさんこそ、少し……少し元気がないように見えます。……さっきも、横になっていらしたじゃないですか」
 え、とカテリーネはとぼけた声を上げてシェデムのほうを見た。
「あ、そう、……ですか? い、いやだな、何も疲れるようなこと、最近ないのに……」
 カテリーネはばつが悪そうに視線を周囲に這わせ、寝台の上に置かれていた子ども達の写真の束に目を留めた。さっとそれに手を伸ばし、シェデムの視線から隠すように裏返す。
「……それは?」
 見咎めるようにシェデムが顔を近づける。カテリーネは慌てたように
「べっ、変なもんじゃ別にありませんよっ。ただの……そう、ただの写真です」
 と写真をまとめて毛布の下へと隠す。
 だが既に見えていたのか、シェデムは
「島へ行った子ども達の写真ですか……?」
 と静かに問いかけた。
「えっ、なんで……どうしてわかったんですか……」
「あ、いや……。写真が見えて……ただ何となく、そうなのではないかと思って」
 シェデムは取り繕うようにそう答えると黙り込む。部屋の中に気まずい沈黙が流れた。その空気に堪えかねたカテリーネが先に口を開く。
「……そう……島へ行った子達の写真です。あ、神殿の人には言わないで下さいね、神殿の方は、いなくなった子のことはできるだけ早く忘れるようにって仰いますけど……何でか、うちの孤児院、変に儀式で選ばれる子が出る確率が高いみたいなんですよ。何ででしょうね」
「……え?」
 シェデムは聞き取れないほど小さく声を上げた。
「それで、あんまりどんどん人がいなくなるものだから……私、寂しかったんですよ。で、せめて覚えているだけ覚えていようと思って……」
 カテリーネがそう言ったとき、突然低い音がして部屋全体に震動が走った。
 寝台に座るカテリーネは、ひゃっと驚いて咄嗟に毛布を掴む。揺れはすぐに収まったが、カテリーネはしばらくの間怯える子猫のような目であたりをきょろきょろと見回していた。
「……今のは……地震でした? め、珍しいですね、この街で……」
 あはは、と引きつった笑いを浮かべてシェデムを見やる。が、シェデムは彼女に背を向けてじっとしていた。
「あの……」
「忘れよ」
 それまでの遠慮がちで気の弱そうな声とは正反対の、低く抑揚のない声でシェデムは言った。カテリーネは最初それが目の前の顔を隠した女性の言葉だとは思えず、周囲に視線を振り回して誰かいないか探し回った。
「何もかも……忘れよ」
 再びシェデムが命じた。その威圧的な冷たさに、カテリーネは言葉を失って固まった。
 振り向いたシェデムはしかし、元の人間味に溢れた口調に戻る。
「……夕飯はどうするのですか?」
「……え? あ、そう……ちょっと材料を切らして……いて、買ってこないと、……買ってこないといけませんっ」
「では、買い物に行くと良いでしょう。私は先ほど見せていただいた部屋の一つを使わせていただきます。これから掃除をしなければいけませんので、しばらく失礼ます」
 奇妙なほど爽やかな声色でそう言い残すと、シェデムは部屋を出て行った。後に残されたカテリーネは呆然として動けなかったが、やがてはっと我に返ると、寝台の上に置かれた写真を机にしまいこんだ。

 台所でカテリーネが夕食の準備をしていると、
「シスター、今準備中かね」
 と神父がそこへ姿を現した。
 ぼんやりと窓の外を眺めながら鍋の中のスープを掻き混ぜてカテリーネは神父の言葉が聞こえていないのか反応しない。
「シスター……?」
 二度目の呼びかけに、やっと彼女は神父の存在に気がついて振り向いた
「ひぇっ? あっ、すみませんっまだちょっとその、もう十分くらい待っていただけると……」
 慌ててがしがしと勢いよくスープを掻き混ぜる。変に力を入れたせいか、鍋の中身が少しだけこぼれてしまった。カテリーネはそれを見て、ふぁぁ、と妙に間の抜けた声を上げた。
「……少し休んだらどうかね」
「え? そんな、大丈夫ですよ、私は大丈夫……で、何の用でしたっけ? 明日は儀式の予定はありませんよ」
 混乱するカテリーネを見て神父はため息をつく。
「……少し焦げ臭い匂いがしたので、気になって来たんだよ。その様子だと、ぼーっとしていて何かの料理を焦がしているんじゃないか」
「ごめんなさい、え……」
 カテリーネは反射的に謝りはしたが、しかし台所のどこを見ても調理中の料理が焦げているということはなかった。
 カテリーネの謝罪を料理を焦がしたことによるものだと受け取った神父は、もっとゆっくり作ればいい、と言い残して台所を出て行った。
 カテリーネは鍋の火を止め、周囲の匂いを嗅ぐ。
「……あれ、焦げ臭い。……え? 何これ」
 廊下の窓を開け、顔を出して火の気配を探る。と、建物の影で暗くなった中庭の上空に細い煙が立ち昇っていることに彼女は気付いた。
 カテリーネは首を傾げながらも台所を出、中庭へと向かう。
 彼女はそこで、顔を布で隠した女性が微動だにせず佇んでいるのを見止めた。女性の傍らには、中庭の土の上に穴を掘って作られた簡易な焼却炉があった。既に火は勢いを失っているようで、灰の中で残り火がぶすぶすと燻る小さな音が聞こえている。
「あの……シェデムさん……?」
 恐る恐る彼女の近くへと近づいたカテリーネは、穴の中で燃やされている紙片を見て声に出さずに悲鳴を上げた。
「──ぁっ!!」
 咄嗟に手を突っ込み紙片を取り出そうとするが、残り火に手を焼いて鋭い声を上げる。
「いづっ……うぅ……っ!」
 彼女は手を押さえて土の上に跪く。辛うじて穴の外へと取り出すことができた一枚の紙片には、十三歳ほどの少年の写真と、ディートヘルムという名が載っていた。しかしその紙片も半分以上が黒く炭化してしまっており、彼女が見ているその間にも小さな炎によって蝕まれ、やがてただの真っ黒な燃え滓と化した。
「ぐぅ、ぅうぅっ……! うう!」
 わなわなと震える瞳で顔を隠した女性を見上げる。必死に何かを訴えようとするのだが、女性に向かって吐き出したい感情が余りに多すぎて、どんな言葉も形にすることができないでいるようだった。
「忘れよ」
 女性が低く冷たい声で言い放った。カテリーネは尚も呻く。
「うう……うわぁ……っ!」
「その感情は……そなたを苦しめる。……忘れるのだ……」
 涙を浮かべながらカテリーネは女性に縋ろうと手を伸ばしたが、はっとしてその動きを止めた。
 女性の顔布の下から、切れ長の細目がカテリーネを真っ直ぐに見下ろしていた。
 カテリーネは震える声で女性の名を呼ぶ。
「ク……クラーシェ様……」
 クラーシェは一切の感情を廃した表情でただその場に佇み、燃えていく子ども達の写真を見下ろしていた。
 カテリーネは地面を這うようにしてクラーシェから距離をとった。
「あ、あの……これは……。そっ、写真、いや別に、その……」
 何を釈明しようとしているのかカテリーネは必死に言葉を探すが、やがて何かの糸が切れたようにその場に突っ伏して泣き出した。一切声を上げない、喉を鳴らすような泣き声だった。
 突然クラーシェが動いた。
「あ……っ」
 そう声を上げ、白昼夢から醒めたかのように呆然と周囲に視線を這わせている。既に殆ど紙としての原型が認められなくなった目の前の燃え滓を見、そして庭の片隅に泣き崩れているカテリーネを見た。
 ぽつりとその口から声が漏れる。
「ごっ……ごめんなさい……」
 その謝罪はカテリーネには届いていなかった。彼女は顔を上げることなく嗚咽を漏らし続けている。
 どれだけ時間が経っても、彼女は涙で泥になった地面に打ちひしがれていた。

 その晩の月は明るく、街の白壁は仄かな月光に照らされて宵闇の中に青白く浮かび上がっていた。
 中庭に落ちる月明かりが、既に燃え尽きて久しい灰の山と、その近くで地面にうずくまるシスターを優しく包み込んでいる。月明かりの影にひっそりと佇んでいたクラーシェは顔布を僅かに引き上げ、表情を殺した目で燃え滓を眺めている。
「いつまで……そうしているつもりだ……」
 掠れた声でクラーシェが尋ねた。言い方は突き放したものだったが、どこか悄然とした、力のない声だった。
 長い間を置いてカテリーネがうずくまったまま答える。
「さぁ……。……私、いつまでこうしていればいいんでしょうか」
 その答えを聞いてクラーシェは眉を顰める。いかにも絶望に打ちひしがれていそうなその格好からすれば、奇妙にはっきりと意思の定まった声色だった。
「……私……もう、顔を上げてもいいのでしょうか……?」
「好きにしろ……そうせよと命じた覚えは、ない……」
 クラーシェは微かにため息をついて言った。しかしカテリーネは
「いいえ、駄目でしょう……多分」
 と呟き、顔を上げようとしない。
「……何が……言いたい」
「実は私、そこまで悲しくないんです」
 額を地面に擦りつけたままカテリーネは言う。
「でも、……そんな、おかしいじゃないですか……あの子達の写真は、あれしか残っていなかったのに、それがなくなったら悲しいに決まってるのに……だから、こうして」
「だから……悲しがっている姿を真似ているとでも……言うのか」
「真似ている、真似というか……。最初は、本当だったんです。さっきは本当に、この世が終わってしまうかと思ったんですよ。……あ、ごめんなさい。クラーシェ様が悪いっていう意味じゃないです」
 カテリーネの声には実際もう悲しみは含まれていないようだった。
「ただ、こうしていれば、悲しさを維持できそうな気がして……。ここを離れてしまったら、本当に悲しいっていう感情を手放してしまいそうなんです。……何か私、変でしょうか……変ですねー……はは。あっ笑っちゃった」
 そう言って口を噤む彼女を、クラーシェはじっと見下ろした。屈みこみ、彼女の顔を覗き込むように顔を近づける。
「……あるいは、正解かも知れぬ……。……その行為は、ことによると……いや、確かに反抗と言って良いのであろう……」
 カテリーネはびくりと肩を震わせて顔を上げ、はっと気を取り直してまた顔を伏せる。
「そっ、そんなことないですからね! そんな、神殿に対して、こう、反抗とか、クラーシェ様に歯向かう気なんて……」
「違う」
 クラーシェはぽつぽつと言う。
「私にではない……湖≠ノ対しての反抗だ……」
「え……?」
「……私にも、地に額を擦り付けるだけの力が……意思が備わっていれば……」
 カテリーネはそっと腕の隙間からクラーシェの顔を見上げた。彼女のすぐ目の前にある、神殿の統治者の顔には、仄かな疲労と諦念が見て取れるようだった。
「しかし顔を上げよ。……例え態度で反抗を示せたところで、……それでは湖≠フ支配力には到底抗えぬ……。……それに、私が話しにくい……」
 頑ななまでに顔を伏せていたカテリーネは、ゆっくりと額を地面から離し、クラーシェの顔を正面から見た。クラーシェは困ったように視線を逸らし、前髪を手で梳いた。
 そして静かな声で語りかける。
「……先ほどの揺れを覚えているか……?」
 カテリーネはぽかんと口を開けていたが、あることに思い至った様子で答える。
「あ、揺れってさっきの地震のことですか?」
「そう……。……あれは湖≠フ怒りなのだ。……私に対する……管理を放棄しようとする、私に対する戒めなのだ。湖≠ヘ全てを見ている。……湖≠ヘ私を決して解放しない。そういう契約だから……だからこそ……怒る」
 燃え尽きた写真に目をやり、クラーシェは一度言葉を切った。視線を伏せ、沈んだ声で続ける。
「怒り、私を玉座へと引き戻そうとする……木と釘で作られた玉座へと」
 そしてまた彼女は口を閉ざした。
 カテリーネはクラーシェの話をどう受け止めていいものか迷っていたようだったが、
「……あの、今更なんですけど」
 と恐る恐る話しかける。
「何でこの教会に……来たんですか? その、神殿のお仕事は……」
「……疲れた」
「はい?」
 聞き返され、クラーシェは同じ言葉を繰り返す。
「疲れたと言っている……」
 緩慢な動きで体を傾け、彼女は音もなく壁にもたれかかった。深い息をついて目を片手で覆った。
「本当に……疲れた……」
 布の下から彼女の黒髪が滑り落ちた。



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