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 何故俺は、あの島を脱出したのだろう。
 もし神殿に捕まれば否応なく島へ送り返され、配給停止を受けた獣人たちのリンチに遭う。仮にうまく逃げ果せたのなら街で暮らすなり他の街へ逃げ込むなりして生きていける。幸か不幸か俺はそれが可能な容姿を持った獣人だった。だが、一生神殿の目を気にしながらびくびくと隠れ続けなければならない。死と隣り合わせとはいえ、どこか安定した島での生活を捨ててまで取るべき選択肢なのだろうか。
 友人、ディートヘルムこと犬はそう言って躊躇する俺にこう主張した。
「ここでの生活はどう考えても間違ってる。逃げるんだ、とにかくこんな島に少しでも長くいちゃ駄目なんだ」
 結果として彼は恐らく逃げ延び、最後まで及び腰だった俺は捕まりこうして囚われている。こうなったらもう考えないわけにはいかない。失敗だ。意志薄弱な俺は、逃げ出すべきではなかったのだ、と。

「……実に……手間を取らせてくれる……」
 鉄格子の外に立つ女性は長い前髪を手で梳きながらぼそりと零した。逆光で顔は見えないが、その視線に薄気味の悪さを感じた俺は檻の陰に身を潜めている。彼女、クラーシェは俺から情報を引き出している間、ずっと直立不動のままこちらを見下ろしている。俺は半ばやけになり焦らしてやろうとしたのだが、彼女には全く効いていない様子だった。
「つまり、そなたの協力者……名前も分からぬ獣人……脱出を企てたのは、その者だと」
 クラーシェの言葉に誘導がないかどうか慎重に確かめると俺は小さく頷いた。大丈夫、犬のことは上手く隠しているはずだ。
「その者の……目的は……?」
「それは……」
 言うべきなのだろうか。ここまで洩らしておいて今更躊躇う理由もないはずだが、何故か憚られて俺は言葉を濁す。
「知りません。ただ、逃がしてやるって」
「ほう……」
 低く冷たい声に鳥肌が立つ。特に左腕。
「……何れにせよ捨て置けぬ。また、狼男にでも狩らせるか……」
 どうやら神殿はあの獣人のことを脅威と見なしているらしい。それはそうだ。脱出不可能なはずの島から二人も外へ出してしまったのだから。
 考え込むクラーシェを見て、少しだけ意地の悪い発言をしてみる。
「無理だと思いますよ。空に逃げられたら、神殿の人でも」
「何?」
 クラーシェが珍しく俺の言葉を遮った。
「空……だと?」
 訝しげな声で聞き返すクラーシェ。何かまずいことでも言ってしまったか。
「言え。そ奴は空を飛ぶことができるのか」
「え……はぁ。そうですけど、でも……」
 そのときようやく俺は気づいた。島にあの獣人以外に空を飛ぶ能力を持った獣人が一匹もいなかったことに。当然だ。空を飛べるなら、誰もあの島に居座り続けたりはしない。恐らく獣人は俺のように羽を持つものはいても、飛翔能力は最初から与えられないのだろう。
 だとしたら──それならば、俺たちを逃がしたあいつは、一体何者だったんだ……?

 その獣人は、異形の跋扈する島の中でも見たことがないほどに奇怪な外見をしていた。
 まるで木か何かで作られた不細工な悪魔人形のようだった。大きな顔に細い手足、そして背にはコウモリの羽のような翼が一対。体の大きさは犬と同じほどだが、その短躯に見合わないほどの大きな両目が顔の中央にはめ込まれている。道端に転がっていたとしたら、それが生物であると認識する者はいないだろう。その小さながらくたが喋るたびに、金属が擦れるような音と共にその全身ががちゃがちゃと蠢くのだから、動いているところを見てもからくり人形か何かだと思われるかもしれない。

 そう、その小舟だ。え、どこにあったかだって。それはな、そこらへんにあったのさ。そうなんだな、お前らが知る必要なんてない。
 ──そうですか……い、いや、色々とありがとうございます。ほら、エルヴィンも頭下げろ……ええと、そう、そういえば俺、まだあなたの名前聞いてませんでしたけど。
 俺……俺の名前はな、ルーペルトだ。ルーペルト……そう名前をつけられた。そう、俺はな、親にそう名前をつけられたのさ。
 ほら、そんなことはどうでもいいんだ。もうじき雲が月を隠す。頃合だ、巡視船はな、こちら側には来ていない。ほうら、柵の間から見えるルナルカは、どうしようもなく真っ暗だろう……? だがな、お前らは不安がる必要はないんだ。目指す岸には明かりがある。ただそれを目指して舟を漕げばいいんだ。
 ──は、はぁ……まぁとにかく、ここまでお世話になりました、ルーペルトさん。……おいエルヴィン、勝手にふらふらするなよ! じゃ、俺達はこれで……。……その、最後に一つだけ、聞かせてもらいたいことが。
 何だ、もう十数分もすればな、見張りの目がここいらにも届くようになる。だから早く行け。
 ──わかりました。それでは……。
 そうだ、お前らは外に出たいんだろう。街へ戻りたいんだろう。こんな島にはいたくないんだろう。それでいいのさ。それが自然なのさ。なんたってお前らは、人間なんだからな。
 俺とは違う。お前らは人間なのさ……。どんなに姿かたちを変えられたとしても、人間は人間……。だから街で暮らせばいい。お前らはそうすればいい。
 クラーシェよ……なぁクラーシェ、どうだい、簡単だったろう。奴らはな、今この島を出て行くぞ。それ、お前の元へ俺の手足が伸びていくぞ、ほれ。すぐだからな、もう時間はかからないからな。この時が……俺の、復讐の刻が……。
 クラーシェよ……俺の鉤爪がお前の喉笛を引き裂くまで、あと僅かなのさ。

 ディートヘルムのように真っ直ぐに意識がトラヴィーダの街へと向かっていなかった俺は、最後の最後に後ろ髪惹かれる思いで島を振り返った。
 そのときに、ルーペルト……あの怪物ががちゃがちゃと呟くのを俺は聞いた。奴は確かに口にしていた。復讐という言葉を。
 一体、どういうことなんだ? 俺達を逃がしたあの怪物は……クラーシェに復讐することが目的……?

 神殿に捕えられ、地下牢に入れられてから丁度一日過ぎた、真夜中のことだった。
「おらっ、出ろ。これからお前の取調べを行う」
 取調べならさんざんクラーシェに絞られたのに、と心の中で不平を言う俺の体を、神殿の男達は引きずるようにして連れ出した。俺の腕が背で縛られていることを男達は何度も確認した。そのうちの一人の顔に見覚えがある。確か昨晩、俺が人質に取ろうとした、あの見張りだ。
 ──背筋に悪寒が走る。
 やがて俺は狭く殺風景な部屋に放り込まれた。床に倒れた俺の腹に、容赦のない蹴りが入る。
「このっ、獣、が……。どうして出てきた、あぁ?」
 そういいながら俺の頭を踏みつけたのは、湖畔で俺がナイフを向けた男だ。他の男達も、罵詈雑言を吐きながら俺に暴力を浴びせ始める。左腕が踏みつけられ、激痛に思わず声が漏れる。白い羽毛が目の前に舞い、男たちは忌まわしいものを見たようにうめいた。
 ほら、見ろ……。やっぱり俺は島を出るべきじゃなかったんだ。このトラヴィーダの街はもう俺の故郷でもなんでもない。ただの……異郷だ。
「何だぁ? 澄ました顔して、何でもねぇみたいな……」
 硬い靴の爪先で顎を持ち上げられる。
「こいつって、獣人って体が丈夫にできてんだろ、え? 何、どうせこいつは処分だよ、抑えるこたぁねぇさ」
 突如側頭を衝撃が襲う。一瞬視界が暗転した。こめかみに流れた血液の熱さをぼんやりと感じる。
 あぁ、まずいな。俺の身体能力は人間とさして変わらない。獣化した左腕は寧ろ人間の腕よりも脆い。そもそも、丈夫な獣人は人間相手にナイフなんか使ったりしない。このまま暴行を受け続ければ……。
 徐々に遠ざかっていく意識の中で、俺はひどく醒めた思いでいた。そうか、そうだよな。処分……だよな。それでも、いや、島の奴らに食われるより、ましかな……。
「あのっ、皆さんっ!!」
 突然部屋に響き渡った高い声に、男達が躊躇する気配が伝わってくる。
「クラーシェ様がお呼びでしたよ! 何でも、緊急で何かの用がどうとかで……」
 布で顔を覆い隠した女が部屋の戸口に立っていた。掃除係……なのか、手には水の入ったバケツを持っている。
「いっ、シェデムさん……」
「あぁ、取調べの最中だったんですね。でもクラーシェ様のお呼びのほうが……その獣人の方は私が檻に戻しておきますので、皆さんは早く! ほらっ」
 男達を咎める気配も見せず、シェデムと呼ばれた女は早口にそう言った。男達は顔を見合わせながらもクラーシェ様の呼び出しならとのそのそ部屋を出ていく。女はじっと彼らが去るのを見張るように立っている。
 ──この女、もしかして……。
 女は俺の傍に寄り手をとって立ち上がらせてくれた。
「災難でしたね、エルヴィンさん……。この街の人は皆、心の底に島への畏れを抱いているのです。でもだからと言って……」
 俺は女の言葉を遮る。
「あの……クラーシェ……ですよね……?」
 女の動きが固まった。そのまま数秒の間、奇妙な沈黙が部屋の空気を停めた。
「何故……?」
 ようやく女はそう口にした。先ほどより若干声が低くなっている。
「だって、匂いって言うか気配って言うか……ついさっき会ったばっかりの相手、間違えたりしない……」
 クラーシェはゆっくりと顔を上げ、布の下から俺の目を真っ直ぐに見た。近くで見ると予想以上に若く麗しい彼女の風貌に、俺は思わずしり込みする。
 氷のように冷たく無機質な気配を身に纏っていたクラーシェは、俺から見ておよそ彼女に相応しくない反応を示す。
「……そうか」
 彼女は短くため息をつき、疲れたように肩を落としたのだ。
「忘れていた……獣人か……」
 ちっ、と舌打ちが聞こえた。俺の中のクラーシェの像が少しずつ塗り替えられていく。──神殿の頂点に君臨する統治者は、これほど人間味のある人だっただろうか。
「……本当にクラーシェ……?」
 思わず呟いたその言葉に、クラーシェはそっと俺に顔を近づけ、俺の目を睨みつけて言う。
「クラーシェ……“様”までが、私の名前だ」
 唖然とする俺をよそに、彼女はまたため息をついて壁に背を預けた。手で前髪を梳き、神妙な面持ちで何かを考えている彼女の横顔は、神殿を統べる鉄の女王とは思えない庶民臭さ、そして同時にどこか近づきがたい不可解な奇妙さを湛えていた。

 もっと深い牢獄へ入れられるのだと思っていた。だが、俺が通されたのは神殿の高部にある小さな部屋だった。
 部屋に入るまで顔を覆っていた布を乱雑に外して隅の衣装かけに投げる。無造作な仕草だったが布はうまく衣装かけに巻きついた。
「ここは私の部屋だ……誰も知らぬ。神殿の者は……。お前はしばらく身を隠していろ……」
 部屋には広い窓が一つあった。カーテンはなく、深夜の闇が部屋の内外を満たしている。手元に置かれた小さな蝋燭の光を身に受けながら、クラーシェはその窓の枠にしだれるように腰かけた。その窓外の闇に何を見ているのか、俺のほうへは目もくれず窓ガラスに額を当てて浅い呼吸を繰り返している。
「何か……意外と普通なんですね、クラーシェ……様、は」
 非常に素直な感想が口を突いて出た。
「私は普通ではない」
「いや、でも……」
「間違いなく、この街、あの島……そう、この湖が、普通ではないために……何が普通か、一体……」
 相変わらず俺を見ずに、クラーシェは独り言のように呟き、黙り込んだ。
 何も喋っていないときのクラーシェは、立ち居振る舞いが超然としている普段の姿からはかけ離れていた。しかしこの人が纏う奇妙さというのはそういったものではなく、会話はできても自分とは全く違うことを考えているような……気疲れの多い学者を相手にしているような感覚を与えるところにあるような気がした。
 先ほど踏みつけられた左腕がずきりと痛み、柔らかな羽に覆われたそれを片手で抑える。
「……俺はこれからどうなるんですか」
「島へ……帰るか……残るのは難しい。そなたは、……そなたの希望を……聞いてから……」
 そのあまりに投げやりな口調に、俺は少なからず精神を逆撫でされた。
「あのですね、もっとはっきり言ってください。ここに残れないって事は、要するに死ねってことですか」
 クラーシェは緩慢な動きで振り返った。怪訝そうな顔をしている。
「何を……? 獣人は……街では暮らせない……。ここに留まることは……」
「だから島へ帰れって言うんでしょう、それが死ねって言ってることだって、そう……」
「だから、何故だ……?」
 話がかみ合わない。俺はふとあることに思い至った。クラーシェは、もしかして……。
「何故そなたは……島へ、帰ることが……? 元の暮らしに、戻るだけだろう……」
「あなたは、知らないんですか……。俺が島へ帰ったら、絶対に殺されます。配給兵に手を出したり、島を脱出しようとした獣人とかは、他の獣人によってたかって殺されて、多分、食べられてますよ。島では当たり前のことです、俺なんかが帰ったら五分ももたないです」
 クラーシェは黙って俺の話を聞いていたが、やがて
「……そうか……」
 とだけ呟いて何も言わなくなった。無意識に自らの前髪を梳くその素振りにどことなく殊勝な様子があったのは、俺の見間違いではないだろう。
 この人は本当に知らなかったのだ。島で何が起こっているのか。島の実情を。この人の仕事はただ島へ獣人を送るということだけで、その獣人が島でどうなろうと関知するところではないのだ。
 復讐、というルーペルトの言葉が脳裏を掠める。この有様では、誰かが彼女に対してそのような感情を抱くのも当然かもしれない。島での生活の過酷さに甚振られてきた獣人が、自分をそのような境遇に落とした本人がこのような気楽な生活を送っていると知れば。
 その晩はよく寝付けなかった。明確な殺意とまでは行かないまでも、クラーシェへの嫌悪が俺の頭に渦を巻いていた。

「起きろ……」
 その一言で俺は飛び跳ねるように起き上がった。
 気がつくと朝になっていた。極度の疲労に耐えられなかった俺は部屋の隅の床で眠っていた。眠るときは左腕の翼で体を覆う癖があったのだが、昨晩は怪我をしていてそれができなかったためひどく体が冷え込んでいた。
 見ると、クラーシェは既に庶民じみた格好に着替えている。街中にいても違和感のなさそうな身なりだった。それでも顔だけはやはり布で覆い隠している。
「出かける……そなたはここに留まれ」
「え、……どこへ……?」
「散歩だ」
 彼女は小さな声でそう言い残すと、寝起きで戸惑う俺を後にすたすたと部屋を出て行ってしまった。
 一体何なんだ、この人は。昨晩の嫌悪感は、今や呆れに変わっていた。何だか力が抜けてしまった。
 残された俺は、その大して広くないクラーシェの私室で弛緩した時間を過ごすことになった。一応、今の俺はクラーシェに匿われていることになるのだろうか……。
 俺は窓辺に寄り、湖を覗き込んだ。広く取られた窓の中心に、ガラクシア島の遠景が収まっている。俺は何を考えるでもなくその光景に目を奪われた。山と湖に囲まれ、雲の隙間から差し込む光を受けるあの島は、その中に渦巻く悲惨さとは打って変わって、まるで絵画のように均整が取れていた。

 顔を隠し街へ出たクラーシェは、本屋に赴き数冊の本を購入した。老婦人と店員がもめていたが、彼女はそれに見向きもせず店を後にする。
 店の前に、車椅子につながれた一匹の犬がいた。店内で買い物をする主人を待っているらしく、従順にその場を動かない。クラーシェが横を降りすぎると、その犬は何故か彼女のあとをつけてきた。布の下からちらりと犬を振り返り、クラーシェは小さくため息をつく。
 角を曲がったところでクラーシェは立ち止まり、屈みこんで犬を待った。遅れてやってきた犬は彼女の顔が目の前にあるのに驚いて
「う、わぁっ!」
 と声を上げた。
 人間じみた驚愕の表情を浮かべる犬に対し、クラーシェは小声で告げる。
「そなたの仲間なら……心配することは、ない……。島へ返すことも……絞め殺すことも……私はせぬ」
 犬は呆然とし、ただ口をぱくぱくさせてクラーシェの顔を見上げている。その様子を見て、クラーシェは面倒そうな表情を浮かべると立ち上がった。
「そなたが、街で変に目立てば……街の者に、隠し立てもできなくなる……大人しくしているがいい……。エルヴィンのためにも……」
 掠れるような声でそれだけ言うと、クラーシェは犬を置いて足早に去った。少しずれた頭の布を目深に被りなおす。

 その部屋は必要以上に薄暗く、そして奇妙に細長かった。
「四日前、島を逃亡した獣人の処遇ですが、慣例に従い一刻も早く島へ戻すのが適切かと。それに伴う、島への配給を一定期間停止することの可否に関しては──」
 部屋に置かれた細長い机につく一人の男が書面を読み上げる。机には男と同じような神殿の制服に身を包んだ男達がついている。その部屋にいる者は皆緊迫した面持ちで報告に耳を傾けている。ただ一人、部屋の最奥に他の者から離れて座るクラーシェを除いて。
「可否も何もありはしません、いつものように一週間、いえもっと延ばしてもいい」
 一人の大柄な男が立ち上がり、やや口調を荒げてそう発言した。
「しかし、あの獣人は秘密裏に逃げ出してきたと証言しています。事情を知らない島の獣人達からすれば、理由もなく配給を停められた、あるいは配給停止の理由を捏造したともとられかねず……」
「管理者である我々神殿が気にすることではない! それに配給停止の理由なら先日の──」
「先日の?」
 聞き返されて大柄な男はうっと押し黙った。
 それまで湿った目線で会議を眺めていたクラーシェが口を開く。
「何か……あったか。そなたは……前回の、食料配給係だったか……」
 クラーシェのその問いに男は表情を硬くし、どこか尊大な態度で説明する。
「前回の配給時に獣人が非常に反抗的な態度を取ったのです。いえ、我々に対して明白な殺意を向けました。我々の人道的抑制によりその場は何事も起きずに収めることができたのですが、十分に反逆行為と見なしてもいい」
 男はそう言うと数人の仲間に目配せをした。彼の言葉を支持する頷きが返ってくる。
「……その獣人とは……? 狼男か……」
 クラーシェは机の上の一点を見つめながらそう尋ねた。
「あ……いえ、どこにでもいるような、猫の姿をした雄の獣人です。細身の……よく狼男の横についている、名前も知れぬ端物ですが」
 クラーシェは彼女以外の誰にも聞こえないような音量で「ヘンリクか……」と呟いた。
「しかし、あまり抑圧を上げるとそのような反抗が寧ろ増加してしまう恐れが……」
「だからといって」
 大柄な男は自分が言っていることがさも当然であるかのように話す。
「逃げてきた獣人をあのままにするわけにもいきません、あの獣人を島へ還せば獣の考えです、配給停止への不満はあの獣人に集まりますし、それが真実なのですから」
「クラーシェ様……いかがいたしましょうか?」
 席に着く者達の視線がクラーシェに集まる。
 鬱陶しそうに手でその視線を払うと、クラーシェは低い声で答える。
「このことは……考えがある……。ともかく……配給停止は、まだ延ばせ……」
「それでは、いずれ配給は停止するということなのですね?」
 大柄な男が念を押すが、クラーシェの鬱屈とした視線に一睨みされると彼は勢いを失って椅子に沈み込んだ。
「……もう一つの議題ですが」
 最初に報告を読んでいた男が遠慮がちに始める。
「その、獣人の脱出を手助けしたという獣人ですが……これには早急に手を打つ必要があるかと。クラーシェ様によると、その獣人は飛行能力を持つということですが、これは……」
 その報告には、会議室がざわついた。
「クラーシェ様のお言葉を疑うわけではありませんが、……これは、本当なのでしょうか? このようなことが……」
「そうだ、飛行能力があれば湖を越えればいいのに」
「跳躍力があるだけでは? ただの見間違いということも」
「もしや翼を奪っても空を飛ぶことができる獣人が?」
 ゆらりとクラーシェの視線が上がる。
「……静かにしろ」
 飛び交う意見や憶測を、彼女のその一言が鎮めた。それまで重々しく表情を殺していたクラーシェの瞳に、今は見る者を萎縮させるほどの鋭い光が宿っていた。
「事実だとすれば……討ち取る必要がある……。……なんとしてでも……生かしてはおけぬ……」
 クラーシェが口を噤むと、自然と会議室は沈み込んだ。
 ややあって遠慮がちに口を開いたのは、最初にこの席の進行を任されていた男だった。
「では……島の均衡を崩す恐れのある獣人が現れた場合の例に倣い、あの獣人……狼男に狩らせましょうか」
 しばらく考え込む仕草をしていたクラーシェは、
「正体が知れぬ……調べる必要がある……。……しかし、……いずれにせよやはり、イェニーを恃むことになろう。あ奴であれば例え空を飛ばれようと……」
「待ってください、それはっ」
 配給停止を強く推していた大柄な男が立ち上がり、クラーシェの言葉を遮った。
「あのような知性のかけらもない獣が、我々の指示を聞いて大人しく従うとは──」
「黙れ。そして……座せ」
 苛立ちの凝縮されたクラーシェの眼光が大柄な男を射た。
 男の顔が見る見るうちに赤くなっていく。握り締めた拳を震わせながら、男は静かに腰を下ろした。
 クラーシェは微かなため息を漏らし、
「気を削がれた……」
 と席を立った。部屋の奥にある扉を開け、去り際に
「気丈は獣人に並び……しかし、知性は劣る……見るに堪えぬ……」
 そう言い残して彼女は部屋を出て行った。

 薄暗い神殿の廊下を巡回していた警備員は、ふとある部屋から漏れる明かりに気付いて足を止めた。
「おい、何してるんだ?」
 島への配給品が置かれたその部屋を覗き込むと、そこには昼の会議でクラーシェに睨まれた大柄な男がいた。男は配給品の一つを開け、何やらがさがさと袋の中を漁っている。
「お前……それ、明日島に持ってくやつじゃねぇか。どうして……」
 そこまで言った警備員は、男が何をやっているのかを見てはっとした。
「その薬……お前、それはやばいだろっ……!」
 男はその袋の内容物に瓶に入った液体をしみこませていた。袋の外側には「E居住区・イェニー」という簡潔な表記があった。
「何がやばいんだ、おい?」
 低い声で男は言った。その声に込められた暗憎の念が警備員から反論の言葉を奪う。
「味付けだよ、味付け。前の配給で世話になったからな……その礼だ。気にするなよ」

 時刻は夜の十一時半ば過ぎ。朝型の俺は島ではこの時間は既に眠りに就いていた。しかしあくびをするわけにはいかない。
「そなたのことは……既に知っている……」
 儀式の間には十二歳の少年が身を小さくして座っている。クラーシェは彼を見下ろしながら囁くように言った。あんなに小さな声なのに何故これほどまで人心を冷たくできるのだろう。彼女の砕けた姿を知る俺ですらそう思うほどに、儀式の晩のクラーシェは冷然としていた。
 それにしても、と自分の姿を見る。ここ数日、俺は実に奇妙な立場にいた。表向きには神殿に捕えられた獣人ということになっている……それは事実ではあるのだが、何故か今俺はこうしてクラーシェの付き人を演じている。勿論この処置がなければ獣人に鬱憤を抱える神殿の者達にひどい目に遭わされるのはよく分かっているし、そのことでは彼女に感謝もしている。だが。
「……一つだけ聞くことがある。……それによってそなたの命運が左右されることはない……正直に答えよ」
 顔を隠す布の下からクラーシェの後姿を見やる。ちなみに今の俺はシェデムの格好をしている。シェデムとはクラーシェが街を出歩くときの仮の姿なのだそうだ。その姿をしているときの彼女は外見だけでなく人格も割と豹変する。
「今何を感じ……何を思っているか……。……今、このときのそなたの……情念……何を考えている……?」
 この人は……この人こそ何を思い、何を考えているのだろう。まさか、あの神殿の女王が気まぐれや親切心で俺を匿ったりするはずがない。ならば何の目的があって……?
 ここ数日間、まるで予想もしていなかったことだが俺は彼女の近くで暮らしていた。日が経つごとに俺の中の彼女の印象はどんどん混乱していった。本当の意味で、この人は何がしたいのか理解できない。
 ただ一つ印象として残るのは──この人は何かが嫌で嫌で堪らず、しかしその何かというのはあまりにどうしようもない物事で、そのために鬱積を続けながらも神殿の長を日々勤め上げているのではないか、ということだった。
 根拠はない。ただこの人の横顔はいつも、その嫌な何かをしかと見据えている。だから彼女の顔は晴れない。──そう思えてならなかった。
「言え……フリッツ・メイヤー……。じきに十二時が訪れる……」
 クラーシェの冷ややかな声に押された少年はおずおずと口を開く。
「あの……実は俺、そんなに怖くはないっていうか……」
「それは……私がそなたを島へ送らないと……知っているからか……」
 フリッツ少年は弾かれたようにクラーシェを見た。
「何で、その、えっと……。……いや、でもそういうのとは……」
 この少年は街の扇動家に島へ渡らずに済む方法を伝授された。俺は事前にそう聞いていた。
 その扇動家の言うことは概ね当たっている。クラーシェは事前に小学校や街の市長などから十三歳を迎える少年少女に関する資料を集め、それを元に島送りにするか否かを一人で決定しているのだ。その基準は詳しくは話さないが、恐らく街に残ると厄介になりそうな素養のある者から島へ送っているのだろう。この街の仕組みに疑問を抱き始めている者……その芽を摘み取るのが、この儀式の一つの側面だ。
「俺、でも島へ行きたいっていうか、行ってみたいとは思っていたんです。あの、姉ちゃんが島にいるはずで……また会いたいと思います。それに、島も結構面白そうだし」
 とんでもないことを言う少年だ。俺は彼の言を聞いて目を丸くした。一方クラーシェは奇妙な表情を浮かべた。申し訳なさげに視線を伏せ、ため息をついたのだ。
 どこからか十二時を迎えたことを知らせる鐘の音が聞こえてきた。
 クラーシェの唇が「……許せ」という形に動いた。瞬間、フリッツの体に変異が起こる。俺は苦しむフリッツから目を逸らした。クラーシェは全ての島送りになる子ども達にこの言葉を送ってきたのだろうか。俺のときも……。
 散歩だと言って変装し、揚々と街に出て行った彼女とは受ける印象がかけ離れていた。それでも彼女の伏目がちの横顔を見ていると、その謝罪が虚偽のものであるとはどうしても思えないのだった。
 やがてフリッツの変異が完了した。その姿を見たクラーシェが鋭い声を張り上げる。
「あまつさえ翅付きか……。……連れて行け」
 その指示と同時に、部屋の左右が開いて待機していた兵士の格好をした者達がフリッツを取り押さえにかかる。
 フリッツの身体は人間からかけ離れた獣の姿に変わっていた。真っ先に俺が連想したのは伝説で騎士に倒される魔竜だった。但し背丈は俺よりも小さい。頭部は鳥類と馬を混ぜたような形状になり、鋭い角が額の中心から突き出している。全身が鱗のようなものに覆われ、手足はやはり鳥のような鉤爪へと変貌していた。そして最も際立っていたのが、その背に生えた大きな翼だった。
 似たような姿をした獣人を島で見かけたことがあるような気がする。しかしその獣人には翼がなかったはずだ。
 意識のないフリッツが男達に引きずられていくのを、クラーシェは額に手を当てて見つめていた。大きな鋏のような道具を手にした男達が現れ、フリッツの傍らについた。
 獣人に翼を持った者がいない理由を俺は理解した。神殿は、獣人の翼を切るのだ。何故? 空を飛べる獣人は、神殿にとって脅威になるからだ。

 その晩はひどく落ち着かない気分になった。
 ここ数日の間に三、四人ほどの儀式に立ち会わされたが、獣の姿に変えられる瞬間を見るのはあのフリッツという子が初めてだった。俺のときも、あんな感じだったのだろうか。
 クラーシェの私室で何もせずに待っていると、夜遅くに部屋の主が帰ってきた。いつものように粗野な振る舞いで衣装を取り去ると、彼女の特等席である窓辺にもたれかかった。用意していた紅茶を差し出すと、彼女は無言でそれを受け取り、一口啜った。
 ……いつもより彼女の周りに漂う空気に張りがない気がする。俺の気が滅入っているせいだろうか。
「俺をここに……ここに置いたのは、あれを見せ、俺に見せるためだった……んですか?」
 沈黙に耐えられなくなったわけではないが、なんとはなしに俺は口を開いていた。
 クラーシェは紅茶をまた一口啜り、
「……さぁな……」
 と投げやりな返事をした。
 ごまかしているのではない、と何故だかわかった。彼女自身判然としていないようなのだ。いつになく弱々しい神殿の女王の姿に、俺は戸惑う。
「……今日はお疲れでしょう。明日は儀式がないはずですが、もうお休みになったほうが……いいんじゃ、と……」
 かちゃり、とクラーシェが紅茶を台の上に置く音がした。
「知る必要が……ないのではない……」
 クラーシェのその言葉の意図が掴めず、俺は、え、と聞き返した。だが彼女は俺に語るでもなく言う。
「……知らないでいる必要があるからだ……。……それなのに、ガラクシアは、消えてはくれない。……ルナルカに浮き続け……ている」
 片手で前髪を梳く。──この仕草が、彼女が参っているときの癖であることを俺はこのとき初めて知った。
「遥か……この街の遠い昨日の記憶だ。……祖国を追われた流浪の民……がこの地を見つけたとき、この地は……他に想像し得ない、現に類を見ないほどの……安住の土地に見えたものだ……あのときは。……あのときは……そう……私も、誰もが希望に胸を躍らせた……」
 彼女はうわごとのように語り始めた。窓辺に寄りかかり、時に冷めてしまった紅茶を口に含みつつ、胡乱げな眼差しを窓外の闇に落としながら。
 あの島とこの街の成り立ち、その意味、そして神殿と──クラーシェという人物の役割について。

 その日もクラーシェは街へ出ていた。彼女は雑務がないときは可能な限り外出しているようだった。よくクラーシェだと見抜かれないなと感心するが、シェデムという人物を演じているときの彼女を思い出し、あれなら無理もないか、と苦笑する。あまりにイメージがかけ離れている。
 俺はそんな彼女に代わって雑務をこなしていた。といってもそれほど仕事の量はない。取り寄せられる街の子ども達の資料を整理し、また神殿の運営に関する庶務を彼女の負担にならないよう整えておくだけだ。この部屋の位置は神殿の他の者には知られていないようだったが、そういった書類などはどこからか部屋の書類受けに投函されるようだった。ここまで徹底的に隠居されては、彼女に対する奇妙な印象が一人歩きするのも無理はない。そういった印象の殆どは彼女自身が振りまいているようなものだったが。
 投函される書類の中に、他のものとは趣の違うものがあった。俺はそれに目を留め、他の書類から抜き出した。『有翼獣人討伐及び保護獣人の処遇に関する計画書』と書かれている。保護獣人というのは間違いなく俺のことだ。有翼獣人、これはルーペルトだろう。だがこの二つが何故同じ書類に名前を挙げられているんだ……?
 俺のその疑問は、文書に目を通すうちに晴れていった。なるほど、そういう方向へ話を持っていくのか……。
 しかし、俺はどうすべきなんだろうか。クラーシェはこの計画に反対するだろうか……いや。それはもうできないだろう。流石に彼女が俺を庇っていると神殿の人々に思われてしまう。……俺も、ずっと自分がここで暮らせるとは思っていない。だが危険性を考えると……忘れていたあの島での記憶に、身震いが走った。
 それと同時に、どうしてかこの間聞いた島と街の成り立ちの真相が思い出される。そう、一片の救いもないような悪夢の中で、クラーシェは一人、いつ終わるとも知れない使命に身を削っている……。
 ──俺の鉤爪がお前の喉笛を引き裂くまで、あと僅かなのさ。

 クラーシェは夕刻に神殿へ帰還した。その日も特に街で何か楽しいことがあったような素振りは見せない。ただ無造作にシェデムの扮装を解き、窓辺に腰掛ける。
「お帰りなさい」
「あぁ……」
 気のない声を返すクラーシェ。
 未だに決心の固まっていなかった俺は、思い切って彼女に尋ねる。
「……どうでした? 街で何か、いいことはありましたか?」
 クラーシェはやや怪訝そうな目を俺に向けた。何故そのようなことを訊くのかとその目が言っていたが、すぐに表情を消して湖に視線を戻す。
「……私は……私は愛さなければならない。……この街を」
 全く答えになっていない返事だった。この人はいつも、一番重要だと思う部分だけを言葉にして発する。そのために却って伝わらないことが多いのだが、しかし今の俺にとってはそれだけで十分だった。
 俺は深く呼吸をすると、意を決して『有翼獣人討伐及び保護獣人の処遇に関する計画書』をクラーシェに差し出した。
「届いていました。有翼獣人を探索・討伐するための部隊を組み、ガラクシア島に上陸、島の獣人の手を借りず有翼獣人を討伐するという内容です。島の住民には目的に関しては一切説明を与えず、ただ討伐隊に手を出した場合に食料配給を長期停止すると事前に宣言するようです」
「ほう……」
 クラーシェの静かな声が先を促した。
「その討伐隊に保護獣人……俺が同行します。目標に関する知識は多分、大抵の獣人より俺のほうが持ってますから。俺の協力如何によって今後の処遇が決められるとのことです。最後まで協力的であれば神殿で保護を続け、問題があれば島に残してくる、と」
 勿論こんなのはクラーシェに対する建前に過ぎない。俺が彼女に形として囲われていることは漏れていないだろうが、クラーシェは俺のことを必要以上に保護したがっていると取られているのだろう。どうせ討伐隊ははじめから俺を島に残す気に決まっている。そうなれば、十中八九俺は島の獣人たちに八つ裂きにされるだろう。無論俺とて黙ってリンチされる気はないが。
 クラーシェは薄汚いものでも扱うように報告書を摘み上げ、細い目を俺に向けた。
「……よいのか……」
 俺は精一杯真面目な顔を作って見せた。
「妥当な処置だと思います」
 クラーシェは押し黙って視線を伏せる。
 少し嫌味な言い方になってしまったな、と言ってから反省する。
 ……彼女には言えない。俺が島へ行こうとする本当の理由を。この、目の前にいる、二百年の歳月を経て極限まで精神をすり減らした管理人に、これ以上の心労を課すわけには行かない。
 ルーペルトが言った、恐らくクラーシェに向けられたであろう復讐という言葉を思い出す。復讐。一体どんな恨みがあるのか知らないが、その言葉を口にするルーペルトには尋常でない気迫が宿っていたように思う。
 知らなければ。あの奇妙な獣人が、何故クラーシェにそのような感情を抱いているのか。そして可能ならば……いや、何としてでも俺は止めなければならない。
 クラーシェは劇的な反応は示さない。ただ小さな声で、そうか、と呟き、それから片手で前髪を梳いた。
「……そなたは……良い気晴らしだったのだが……」
 俺に目を合わせずそう言うクラーシェに、思わず苦笑を零してしまう。彼女のほうはそれに気付かずに続けた。
「私の……二百年の職務の中で……明日には忘れ去るような刹那の気晴らしであっても……そう。そう……僅かだが……」
 前髪を梳く手が止まった。報告書を乱暴に紅茶台の上へ投げ、窓の外の島を見やる。窓ガラスに反射する彼女の影で、彼女が島を見ていないことがわかった。
「……それでは、な……」
 短いため息と共に、クラーシェは俺にそう別れの言葉を告げた。



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