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「そうだエリアス、大通りの隅の方にあったあの小さな骨董屋さんは、どうしてるかしら?」
 子どもたちの遊ぶ声とさえずる鳥の声とが穏やかな時の流れを生み出す昼下がり、ラウラは洗濯を終えたシーツを物干し竿に干しながら、興味深げにそう尋ねる。街にいた頃の同級生と再開し、共に孤児院での生活を初めてから一週間が過ぎた今も、彼女はこうして街の様子を尋ねては、彼の言葉一つ一つに注意深く耳を傾けていた。
「『セイヴェル』のこと? 店を畳んだって噂は聞いてないけれど、ろくにお客が入ってるところも見たことはないな」
 はは、と笑みを零したエリアスは、湿った洗濯物で山盛りにされた篭を運び、物干し台の傍へと下ろしたのち、彼女のほうに目を遣ると、続ける。
「ラウラ、あの小汚い店に入ったらたとえ地震が起きても三時間は出てこないからな」
「小汚いとは失礼ね。エリアスはいつもそうやって馬鹿にするんだから」
 ラウラはむっとして彼のほうを見返す。その喩えは勿論のこと作り話ではあるが、しかしあながち間違ってもいなかったのだった。
「……地区大会決勝戦のオーバータイムで僕が劇的な逆転ゴールを決めたときも、あの店で壺ばっかり見てたからな」
 次の篭を取りに回れ右をしたエリアスがぼそりとそう呟くと、ラウラは表情を一変させ、きまりが悪そうな顔をして必死に弁解の言葉を捲し立てる。
「そ……それはもう何度もごめんなさいって謝ったじゃない! 最初はちゃんとアリーナに行くつもりで出かけたのよ、でも……でも、道中で店の軒先にトムさんがいて……それで――」
 トムさんというのは、大通りのはずれにある骨董屋『セイヴェル』の店主のことである。ホッケーの試合を観戦しに行く、と約束していた日、誘惑に負けたラウラはそれをすっぽかしてしまったのである。この些細な、しかし幼い日の少年にとってはとても大きな事件が話題に上ったとき決まって彼女は委縮してしまい、ただ「ごめんなさい」と繰り返したのだった。そしていつもそうだったように、ラウラは次第にその言葉尻を弱めてゆく。
「冗談だって、もうそんなこと気にしてないからさ。大丈夫」
 再び彼女のほうを振り返ったエリアスは、そう言って意地悪そうに笑った。
「……え?」
 ラウラは呆気にとられ、思わず間の抜けた声をあげた。かつては事あるごとにこのことを持ち出してラウラを責め立てていたエリアスが、こうして笑い飛ばしてしまったのは初めてのことだった。彼女にとってそれはまさに青天の霹靂とも言えるほどに意外なことであった。
(昔はあれほど落ち込んで、そしてあれほど怒っていたのに……)
 彼の口を通して語られるトラヴィーダの街は、三年前――彼女がまだ街にいた頃――と何も変わっていなかった。それは嬉々として街の様子を尋ねる彼女の期待を少しだけ裏切ったが、同時に彼女はどこか安心させられた心地があった。
 そして、変わらない街の様子とは裏腹に、彼そのものは大きく変わっていた。それは彼女が彼と再開してから薄々感じていたことではあったが、先の何気ない会話で彼女は初めて彼が「変わった」ということを強く意識させられたのだった。
 「気にしてないから」。彼がそう言って笑ってくれたことは勿論のこと嬉しくはあったのだが、同時に彼女の中にはどこか戸惑いのような、落ち着かない感情が生まれていたのも確かだった。ガラクシアに来てから過ごした三年間はすなわち、彼に触れていなかった空白の三年間と捉えることもできる。その空白の中で彼が何を見、何を感じようと、自分は部外者でしかない。現在の彼に触れるうちに次第に浮かび上がったその事実が、彼女をどうしようもなく不安にさせ、その瞳を少しだけ曇らせていた。
「あーっ、待てえこの野郎!」
 暫しぼんやりと思いを巡らせていたラウラは、慌てたように叫んだ彼の声を聞いて目の前に意識を戻す。そこには、湖岸の強い風に運ばれてゆく洗濯物を必死に追いかける彼の姿があった。ガラクシアでは、洗濯物を干すときはしっかりと押さえておかないと強風に飛ばされてしまうのである。ラウラはくすりと微笑んだのち、心の底からの安堵を込めて、言う。
「もう、何やってるのよー! 昔っからそういうとこ、変わらないんだから!」
 わざとらしいほどに明るく弾んだその声は、数瞬前の不安を払拭するためのものである。それは彼女も自覚していた。だが、久方ぶりに眩しく晴れ渡った空の下で穏やかに、そして幸せに流れていく時間の中では、そこかしこに立ち込める黒い靄の存在さえも忘れ去ってしまえそうな気がしてならなかった。

 この穏やかな日々が永遠に続くはずはなく、また、ガラクシアにおいて彼は異分子である。それは彼女も、そして彼自身も自覚していた。


 午後の昼下がり、珍しく雲間から顔を覗かせた陽もそろそろ傾きはじめる、そんな時刻。洗濯物の仕事も一通り終えたエリアスは、いつものように一人で散歩をしていた。彼はガラクシアに来て以来、孤児院を中心とした区域を毎日のようにこうして練り歩いていた。無闇に歩き回らぬようユリウスから諭されているので、必要以上に遠くへは行かないようにしているが、それでも彼は、あるときは周囲をくまなく観察しながら、またあるときはぼんやりと考えごとをしながら、荒れ果てたガラクシアの地を歩いて回ったのだった。
(これで一週間、か)
 ふと彼はそんなことを考えながら、小さな亀裂だらけの路面を踏みしめる。ガラガラ、と崩れた瓦礫の欠片が小さな粉塵を上げ、そして再びもとの静寂が訪れた。湖岸から吹く風の音だけを残し、彼がここへやってきたあのときも、そして今この瞬間も、ガラクシアはこうして空虚な声を上げていた。
 座るのにちょうど良さそうな大きさの岩を見つけたので、彼は何も考えずその上に腰を下ろした。ふう、と大きな溜め息を一つ吐くと、湖の向こう側に広がるトラヴィーダの街を視界に入れた。その曖昧な輪郭にどうしても焦点を合わせることができなかったので、彼はすぐにそれを諦め、目を閉じた。
(この島は、どこか寂しい)
 ラウラもいれば孤児院の子どもたちもいる。寂しいはずなんてどこにもない。だがしかし、どこかこの島は悲しみを孕んでいるように彼には思えた。轟々と吹く風の音も、煤けた曇り空も、荒れ果てた地面も、呑気な鳥のさえずりでさえも、それらは例外なく、何らかのかたちで虚無というものを内包しているようだった。
「今日で、一週間になるな」
 背後から低く唸るような声が聞こえ、エリアスが振り向くと、今朝から孤児院を留守にしていたユリウスの姿があった。その大きな体躯を目にするといつも咄嗟に身構えてしまうエリアスだったが、その緊張も日々の生活を共にすることで次第に解けつつあった。
「ええ、ユリウスさんがいなかったら、今ごろ他の獣人に殺されてしまっているところでした」
 そう言われた大男はエリアスから少し距離を置くようにして立ち、彼がしていたように湖岸の街を眺める。エリアスも、それにつられるように再び正面へと向き直った。
「……ユリウスさんは、きっと思っていますよね」
 数瞬の間をおいてから、エリアスは続ける。
「僕をこのまま孤児院に置いておくわけにはいかない、って」
 ユリウスは彼のほうを一瞥したが、しかし特に表情を変えることはなく、普段通りの静かな声で答える。
「俺個人の感情や、《神殿》の掟を抜きにしても、おまえが今後この島で生きていくのは不可能に近い」
「そう、ですよね」
 尋ねた彼のほうも、その答えに対して落胆や憤慨といった表情を浮かべることはせず、それが当然のことであるように淡々と答えた。
「俺やおまえが食事の時間に口にしている食物を、俺たちがどのようにして手に入れているか、おまえは知っているか」
 その突然の問いかけを少し怪訝に思いながら、エリアスは答える。ガラクシアの住人は、街から派遣される《神殿》の遣いから支給される食べ物によって生かされているのだということを彼は知識として知っていたし、ユリウスが孤児院の子どもたちを連れて総出で出かけていくのを幾度か見ており、その度に彼は一人で留守番をしていた。
「たしか、《神殿》のひとが配ってくれるって……」
 言いかけて、エリアスは彼が言おうとしていることに思い当たり、そのまま口に出してみる。
「僕のぶんの食べ物は、配られないんですね」
「その通りだ。配給のときには、顔と名前とを厳密にチェックされるからな」
 ユリウスは小さく頷き、普段通りの厳しい声でそう言った。エリアスが毎日のように口にしている食事は、彼以外の者に対して配分されたものだった。しかし彼は元来豊かな生活に慣れきった街の住人であり、特に今もなお両親の庇護下にある、子どもだった。分け与えられることが当然、とまではいかないが、彼はそのことに対して感謝はすれど必要以上の罪悪感を感じることはなかったし、ユリウスのほうもとりたててそれを糾弾するつもりでこのことを話に上げたのではない。
 しかしエリアスは「これ以上匿い続けるわけにはいかない」とこの孤児院を追い出されてしまう可能性を考えずにはいられなかった。元より自覚はしていたことなのだ。このガラクシアは、他人に頼りきって生きていけるほど甘い場所ではない。
「だがそんなことは、今はどうだっていい」
 彼の顔色を見、その思考を察したユリウスは、念を押すようにそう言い、続ける。
「それよりも気がかりなのは、基本的には三日おきに行われていたはずの配給が、今回は四日経ってもまだ行われていないことだ」
「……もしかして、僕が街を出たことと何か関係が?」
 だとすると、一大事である。人一人が行方不明になって一週間も経てばさすがに街でも騒ぎになるだろうし、そうなると《神殿》の耳に入らないはずがない。それにあの晩、自分が舟に乗って漕ぎ出してゆくところを誰かが見ていたとも限らないのである。
「いや、それともこの間現れた『同族殺し』の影響なのかな……」
 何者かによる「同族殺し」が近頃頻発しているらしい、という噂はエリアスも耳にしていた。ユリウスは首を横に振り、執りなすように言う。
「いや、そんなに深刻に考える必要はない。最近は定期的に行われていたというだけで、稀に何日も行われなかったかと思えば何事もなかったかのように再開することも少なくはない。それにかつては完全に不定期だった時期もあった」
「そう、ですか」
 エリアスはわだかまる気持ちを振り払うように、風で乱れた前髪を撫で付けながら、そう応えた。
 僕はこのままここにいていいのか、とは彼のほうからは訊けなかった。ユリウスはそれ以降黙ってしまい、何も言い出しそうにはなかった。
 湖岸にはそれっきり沈黙が降り、再び数分前までと同じ様相となった。ここに立っている二人ともがそろそろ孤児院に戻ろうか、と考え始めたそのとき、 孤児院に暮らす子どもたちの一人、マイケルの元気な声が聞こえた。
「おっちゃん! 新入りの子を連れてきたぜ!」
 二人が一斉にそちらを向くと、そこには今朝遊びに出かけていったマイケルが得意げに立っていた。その後方には、彼に手を引かれるようにして連れてこられたであろう見慣れぬ獣人の姿があった。頭部は鳥類と爬虫類を混ぜたような形状をしており、全身は鱗のようなものに覆われ、両の手には鋭い鉤爪があった。そして、額の中心からは鋭い一本の角が突き出している。その姿はまるで、伝説にしばしば登場するドラゴンから翼を剥いだような出で立ちだった。
「そいつをどこから連れてきた、マイケル」
 その見知らぬ獣人はユリウスに睨みつけられ、怖気づくように半歩ほど退がった。見たところ、手を引いてきたマイケルよりも幼い面立ちをしており、身長もすこぶる低いようだった。
「どこって……船着き場のあたりでかくれんぼして遊んでたら、茂みにかくれてたジョンの奴がとつぜん大声出してさ。あわてて皆で行ってみたら、こいつが倒れてたんだ」
 そう得意げに話すマイケルは「な?」と、確認するようにその獣人に問いかける。獣人は何も言わず、こくりと頷いた。
「はじめは死んでるかと思って驚いたよ。でもジョンがこいつの鼻の穴に棒きれを突っ込んだら目をさましたから、ただ寝てただけだって分かったんだ」
 エリアスはその光景を想像して思わず噴き出しそうになったが、ユリウスのほうは表情一つ変えず、黙って彼の話を聞いていた。エリアスは咄嗟に笑いを押し鎮め、その代わりを繕うように、慌ててマイケルへと訊ねる。
「……さ、さっきの『新入り』というのは?」
「そうそう、そのあと話を訊いてみたんだ。そしたらこいつ、今朝に連れてこられたばかりなんだってよ」
「獣化した直後、ということだな」
 ユリウスは、間髪いれずにそう言った。そして『新入り』に向かって、問う。
「おまえ、自分の名前は覚えているか」
 稀ではあるが自らの名前さえ覚えていない獣人もいる。この問いは、その『程度』を見るための第一段階でもあった。
 不意に話の矛先が自分へと向いたことに戸惑いながら、『新入り』はまるで名乗るのがあたかも耐え難い苦痛であるかのように、わざとらしく不機嫌そうな顔をして小さく答える。
「……フリッツ。フリッツ=メイヤー」
 エリアスはその名前を聞いた直後、すぐさま目を見開いた。どこかで聞いた、というような話ではない。その名前は、彼にとってとても身近な、街の人間の一人だった。
「フリッツ……?」
 エリアスは驚きを隠せない面持ちで、恐る恐るその名を口にした。フリッツと名乗ったその獣人はそんな彼の姿をちらりと見、再び目を逸らす。
 フリッツ=メイヤー。バーゼルト家の斜向かいに位置するメイヤー家の三男であり、ラウラ・メイヤーの三つ歳下の弟である。
「……エリアス、兄ちゃん」
 フリッツは忌々しげな声で、見知った彼の名を呟いた。
「なんで、なんで兄ちゃんがここにいるんだよ!」
「え、おまえエリアスと知り合いだったの?」
 隣にいたマイケルが、驚いたようにそう言った。出会い頭にまるで拒絶しているような言葉を向けられたエリアス本人も驚いたが、横からこのやりとりを眺めていたユリウスのほうはもっと驚いていた。
 フリッツ=『メイヤー』。その姓は、孤児院で暮らしている少女、ラウラ=メイヤーと合致していた。このフリッツと名乗った獣人はさらに、その少女と親しいエリアスのことを知っていたかのような口を利いている。つい一週間前に現れたエリアスとの再開、そして。
(今度は家族との再会、か……)
 彼女を中心として激しく揺り動く周囲。彼自身はその環の中に取り込まれていた。何かが起ころうとしていたガラクシア。その『何か』が本格的に胎動を始めている。かつてから彼は心中でそう感じていたし、その疑念今この瞬間、次第に確信へと変わりつつあった。
 しかしそんなことは意に介さず、突如として繋がった一人の少年と一人の幼い獣人との会話は続いてゆく。
「獣化を逃れて、のうのうと暮らしてたんじゃなかったのかよ!」
 ユリウスには、フリッツがエリアスのことをあからさまに疎んじているように見えた。罵倒しているわけではないが、感情を露わにして一方的に言葉を浴びせている。そして驚いたことにフリッツは、獣化してしまった今でも街にいた頃の記憶を詳しく憶えているようだった。ユリウスなどはガラクシアに連れてこられ、目を覚ました直後には既に過去の記憶はもやがかかったように遠くのものとなっていたものだった。
「そう……僕は獣化を免れて、街で暮らしていた」
 エリアスはまるで後ろめたいものがあるかのように、苦い顔をしてそう応えた。
 三年前、エリアスが無事に儀式の日を終え、そしてラウラがガラクシアへと連れて行かれた日、フリッツは何事もなかったように街で暮らしているエリアスを無意味に妬み、憎んでいた。「なぜエリアス兄ちゃんは獣化を免れたのに、姉ちゃんは獣化しなければならないのか」と、。《神殿》の下した選択に抗うことができないのは明白であったが、幼き日のフリッツにとって、その結果は不条理以外の何者でもなかったのだった。
「あるとき突然、気になって仕方がなくなったんだ。ガラクシアへと連れて行かれた、ラウラのことが。だから、僕はラウラに会うためにここへ来た」
「だから何だって言うんだよ……そんなこと言っても姉ちゃんは獣人で、兄ちゃんは人間のままなんだよ……! ……そんなの、何の意味もないよ!」
 フリッツはいつしか激昂し、まるでエリアスが悪人だとでも言うように、糾弾にも似た文句を並べ立てた。
「そんなことは僕にだって分かってる。でも――」
「その辺にしておけ、二人とも」
 泥沼化を始めた言葉の応酬を見かねたユリウスが、静かに割って入った。
「風も強くなってきた。続きは孤児院に戻って思う存分やれ。……マイケル、帰るぞ」
 ふと我に還ったエリアスが、ユリウスのほうを振り返った。分厚い壁のような彼の身体の向こうで広がる空は次第に橙色に支配されつつあるようだった。
「フリッツと言ったか。……おまえも、ラウラに会いたければ俺達と一緒について来るんだ」
「え……」
 ユリウスとマイケル、そしてエリアスは踵を返し、孤児院のある方角へと歩き始める。無関係だと思っていた大男の口から姉の名前が出たことに虚をつかれ、ぽかんとしていたフリッツは慌てて、小走りにその二人の男の背中を追った。


 孤児院へと戻ってきた面々を出迎えたラウラは、一週間ぶりに洗いかけの皿を取り落とし、割った。たとえ獣化の影響で姿が変わってしまっていようと、二人は相手の姿を見るなり互いを認識することができた。そして三年ぶりに顔を合わせた姉弟は、嬉しそうに互いの名前を呼び合った。エリアスのときとは違い、特に頭痛がするといったこともなかったようだった。
 依然としてフリッツはエリアスに対して敵意を向けていたし、エリアスのほうも孤児院に着いてからは終始どこか不機嫌そうな顔をしていた。しかし、幼馴染に続いて弟とも再開を果たしたラウラは、彼女がこの島に来てから一番と言っても過言ではないほどに、とても幸せそうに振る舞っていた。
 その日の晩、夕食の後片付けを終えた後、彼女はガラクシアで長く暮らしてきた者として、そして何よりも姉として、フリッツにこの島での生活に関するあらゆることを教えて聞かせた。それは孤児院の子どもたちが寝静まるまで、そしてフリッツ自身が首を縦に振り始めるまで延々と続き、気が付くと最終的に広間に残って起きていたのはユリウスとラウラだけとなっていた。
「あら、こんなに遅くなっちゃった」
 フリッツが完全に眠りに就くのを見届けたのち、はっと時計に目を遣ったラウラは、とぼけたようにそう言った。ユリウスは、心なしか疲れきったような声で言う。
「随分と長く話していたな。孤児院の役割分担や獣人として知っておくべき掟はまだしも、配給所での食べ物の貰い方なんてその場に行けば分かるだろう」
 言いながら、ユリウスはフリッツの許へとゆっくり近付くと、その小さな身体を抱きかかえるように持ち上げた。彼の腕の中にすっぽりと収まったフリッツは、んん、と小さな声を漏らし、再び柔らかな寝息をたて始める。
「こいつは俺が寝床まで運んでおく。おまえは戸締まりでも見てきてくれ」
「はーい。……あれ、そういえばエリアスは?」
 ラウラはそう言って、きょろきょろと辺りを見回した。古くなった時計の秒針がカチカチと音をたて、いつまでも同じ環の中をあてもなく回っていた。
「あいつなら、いつになく早いうちから寝床についていたぞ。随分と拗ねた様子だったが」
「拗ねてた?」
 ラウラは心底不思議そうに、首を傾げながら言った。ユリウスのほうも彼が拗ねていた理由について見当はつかなかったが、かと言って全く理解できない、というわけでもなかった。ユリウス自身も、今日の晩は気疲れのようなものを少しだけ感じていた。
「……ま、いいか。おやすみなさい」
 ラウラはそう言うと、戸締りを確認するために入り口のほうへと駆けていった。彼女の背中が暗がりに消えたのを見届けると、ユリウスは息を大きく一つ吐き、手許で丸くなって眠るフリッツを起こさぬようゆっくりと寝床へと向かっていった。



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