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 闇夜の中でも殊更黒く映える返り血が噴き荒ぶ。右胸から右肩にかけてを鋭い爪に引き裂かれた獣人の身体が、地に臥した。
 しばらく、黙って獲物を見つめていた。妙だった。普段だったらすぐに齧りつく目の前の肉が、全く欲しくならない上に、興奮が収まらなかった。食料を得るため。普段の明確な生存欲求に従い犯す殺しは、正体を見破られないために、これ程までに短絡的で直截的な行動に出たりはしない。気付けば呼吸が荒いままだ。考えもまとまらない。
 自分は今、どうして目の前の獣を襲ったのだろう。舌打ちをした。いくら考えても、たった数秒前に考えていたことが思い出せない。いや……違う。自分は今、どうして目の前の獣を襲ったことに、疑問を感じたのだろう。頭が、割れるようだった。よろめき、路地の壁に手を突く。考えが……。考えがまとまらない。







 肋骨の痛みも引いてきたある日、ルファはアパートの近くにあるベンチでイーヴァインと二人、並んで座っていた。日差しが肌に心地良くあたり、いつもの寒さも今日は鳴りを潜めていた。二人は特に話をするでもなく、ただぼうっと陽にあたっていた。
 ここしばらくは、湖岸に行くこともなくなった。というのも、ルファ自身、人間を食することに対しての興味がすっかり失せてしまっていたからだ。興味があるにはあるが、それは人間を食することに対してではなく、人間の持つ感情に対してだった。ヘンリクにあって自分にない、人間のような所作や感情をどうすれば自分も理解することができるのか、その疑問を解くヒントが、あのとき邂逅した人間には備わっているのかもしれない。そう思うと、興味はそちらにばかり行く。
「イーヴァインさん」
「ん?」
「私達の元が人間だった、って前に会ったにんげんが言ってたんだけど、本当かな?」
 ただ日にあたっているのも飽きたので、それとなく沸いてきていた疑問をぶつけた。敬語というものを使い忘れたが、イーヴァインも注意し忘れている。面倒なのでこのままでいいだろう。
「さあ。どうだろうな。正直に言って私も幼いころの記憶がないんだ。気がついたらここに連れて来られて、気がついたらここで過ごすことになっていた」
 様々な知識に精通しているはずのイーヴァインだったが、ルファの疑問には首を傾げるだけだった。
「そう。私も、気がついたらここにいて、気がついたら住むアパートがあって、気がついたら配給を貰ってた。だから、元が人間でもおかしくはないっていうか……」
 そこまで喋ったところで、ルファは突然、後頭部を何かで殴られたような気がした。瞼の裏に様々な知らない顔が浮かび、一瞬で消えた。
「ど、どうした?」
 慌てたようなイーヴァインが視界の端に映るが、ルファの事しか見ていない。殴られたわけではないようだと、かろうじて考えることができたが、今度は長柄の刃物で頭蓋を刺し砕かれたような鋭い痛みが走り、頭を抱えてベンチから転がり落ちた。喘ぐような声が自分の口から零れ、ルファはそこでようやく、この間と同じ、自分の中の「何か」の仕業だと思い至った。それも、以前の二回と比べ、幾段も強烈な痛み。
『ねえ、ルファ、今度の誕生日――』
 知らない人々の顔が流れた後は黒く塗りつぶされていた感覚の中、今度は耳元で激しく反響するように音声が流れた。ルファは追い討ちをかけるようなその音声が流れ終えるまで必死に目を瞑り、気が遠のきそうになるのをどうにか堪えていた。
 そしてその音が消えると、痛みは嘘のように引いた。
 息をすることすら忘れていたルファは、一度息を吐き出してから、速く浅い呼吸を繰り返した。
「大丈夫か?」
 イーヴァインの問いにやっとの思いで頷き、手を使ってベンチに這い上がった。背もたれに寄り掛かると、冷や汗が背中を濡らしていることに気付いた。
 体調を心配したイーヴァインに自宅で眠るよう勧められ、ルファは部屋の前で彼と別れたあと、寝室に向かった。
 着ていた長袖を脱いで背面部分を触ると、酷く濡れていた。いくら暖かいとはいえ、今は冬季だ。尋常の汗ではない。先程の痛みが原因で間違いないだろう。それにしても先程の痛みは、かつて味わったことの無い痛みだった。自分が痛みの直前まで考えていたことと、何か関わりがあるのだろうか……。
 カンカンカン、と扉が三度ノックされた。考えを中断したルファは、慌てて代わりの服を探し、家で着ているパーカーをひとまず被った。扉を開ければヘンリクがいた。

 彼は居間に通されるとまず、イェニーの所在を訊いた。
「見てないよ。最後に見たのは、この間の配給の時」
 この間というのは、配給人とひと悶着あった日から、また三日後に行われた配給の事だった。ルファとヘンリクは、殴られたのとは別の配給人から配給を受け取ったが、量も減らされてはおらず、普段通りの配給だった。あまりに普段通りに過ぎ、不気味に感じたのを覚えている。
「そっか」
 彼は落胆したように溜息を吐き、ダイニングテーブルの椅子を引いて座った。ルファもその正面の椅子を引いて座る。
「どうかしたの?」
「今、島内で獣人の死体が次々に見つかってるのは聞いてるよね」
「うん。イーヴァインが心配してたよ」
「死体は、爪で裂かれたり牙で喰い破られたり色々で……。それをやったのは、全部イェニーなんじゃないかって噂が流れてる」
「え……」
「いや、噂自体は根も葉もないものなんだよ。殺された奴の中には屈強な奴もいて、そいつを殺れるのはイェニーぐらいだと誰かが言い出したらしい」
 そう、イェニーは確かに、時折獣人殺しもやっている。しかしそれはあまりに空腹な時だけで、ここまで表立っては殺さない。計画的に綿密に、配給人や警備隊の捜査が及ばないほど巧妙に殺害する。
「僕はイェニーの仕業じゃないってことを証明したい。でも、こんな時に限ってなかなか捕まらないんだ。隠れているのはやましいことがあるからだとか言って、殺された獣人の仲間が躍起になって探しているから、それより早く見つけたいのに……」
 獣人には少なからず仲間意識もあり、ルファとヘンリク、イーヴァインのように一緒に行動している者たちもいる。仲間が殺されれば当然恨みに思う。自分もヘンリクやイーヴァインが何者かに殺されれば、必ず探し出して、刺し違えてでもその獣人を殺すだろう。いくらイェニーとはいえ、噂を信じて彼に恨みを持った獣人が束になってかかれば、生き延びられるかどうかは分からない。
「調べたけど、今回の死体はどれも致命傷以外の損傷はなかった。イェニーは無意味な殺しはしない。死んだ獣人の肉が毎回その場に残っているのは有り得ないんだ」
「うん……イェニーは食料を得るためにしか殺しはしない。私は知ってるからいい。でも、イェニーを知らない人たちからの疑いを、どうやって晴らすの?」
「それは、分からない」
 彼はそう言うと、右手で髪を掻き毟った。
「どうすればいいんだ……」
 ルファは、悩むヘンリクを見つめていることしかできなかった。







 ルファはヘンリクを手伝い町中をくまなく探したが、結局イェニーを見つけることはできなかった。その間にも死体はどんどん増えていき、初めに死体が見つかってからの四日間を合計すると十七になっていた。イェニーに対する畏敬の念は、もはやただの畏怖に取って代わり、彼を庇う声はどこからも聞かれなくなっていた。
「誰かがイェニーの仕業に見せかけてるんだよ、きっと」
 ヘンリクまでもがイェニーを疑うのは悲しいことだと感じたルファはそんな気休めを言ったが、ヘンリクは死人が出るたび徐々に、イェニーの仕業でないと断定しなくなっていった。それに比例して、ヘンリクの表情も曇りがちになった。いつも笑みを浮かべている彼がそのような状態になり、ルファはどうしていいのか分からなかった。ただ傍にいるだけでしかない。
 そしてイェニーの行方が知れないまま、次の配給日が来た。
 配給の知らせが町内放送のスピーカーから流れるのを聞いたルファは、部屋を出てイーヴァインと合流し、アパートの入口まで降りてヘンリクを待っていた。しかし、しばらく待っても来なかったので、仕方なく二人だけで配給所に向かった。杖をついて歩くイーヴァインの顔も、どこか陰りが見られる。この島に来たころから知っているだけに、イェニーの事が気に掛かっているのかもしれない。
 ヘンリクを長い時間待っていたためか、配給所には既に長い列が出来ていた。溜息をついて、D居住区の列に並ぶ。
「お腹すいたね」
 ここ最近は三日ごとの配給が続いたために食料の配分を間違え、四日空いた今回は昨日の朝で全て食べ終えてしまっていた。昨日の午後からは何も食べていない。
「ああ。せめて、定期的な配給にしてほしいものだ」
「うん。小食の私でもお腹が空いてるんだから……他の獣人は気が立ってるよ」
「そうだな。それが一番の問題だ」
「やっぱりイェニーも、配給には来るのかな」
 来ないほうがいい、とルファは思った。姿を見せた途端、仲間を喪った獣人が彼に襲いかかるだろう。ヘンリクはまだ来ていないようだが、もし彼の目の前でイェニーが襲われたとしたら、ヘンリクは助けに入るかもしれない。そうなれば、彼はイェニー共々殺されてしまう。
「他よりも体格が恵まれている彼が来ないということは考えられないが……」
 同じことを想っているのか、イーヴァインは言葉を濁した。
 それから少しの間黙って並んでいたが、ルファの耳が、意識するよりも早く大袈裟に動いた。聞き覚えのある声がする。
「にんげん……」
 呟いてから、そんなはずはない、と思い直した。人間に近い綺麗な姿を持った獣人はいるが、本物の人間となるとあくまで別種だ。獣人は獣人、人間は人間。下手を打てば匂いで別種と感じ取る獣人もいる。配給のような、獣人が多く集まっているところに姿を現すなど死地に赴くに等しい。ルファと対峙した人間も、その辺りの感覚は嗅ぎ取っているはずだ。
「何か言ったか?」
 イーヴァインが問いかけてきた。ルファは静かに首を振った。

「次」
 イーヴァインと話している間に、列の先頭まで来ていた。一歩前に出ると、以前肋骨を殴ってきた配給人が目の前に居た。今日は彼の担当のようだった。彼はいつものように蔑んだ目をルファに向け、薄く笑った。ルファはすぐに伏し目がちになった。この配給人は騒動の前から苦手だった。
「何をしている。早く名前を言え」
「ル……ルファ。D居住区」
 彼は案外淡々と配給品の入った袋を渡してきた。手を伸ばして受け取ると、彼は愉快そうに口を開いた。
「この間は散々恥をかかせてくれて感謝してるよ。まさかイェニーに友人なんてもんが居るとは思わなかった」
 配給人が配給に関すること以外でルファに口をきいたのはこれが初めてだった。ルファはどうこたえていいのか分からず、その目を見返した。
「そのイェニーも、今はもういないが」
 嫌な言い回しだった。
 怪訝に思ったルファが意図を問い質そうとした所だった。列の後方で妙に甲高い音が聞こえた。目の前の配給人もルファと同じように驚いて、後方を見つめる。少しして、また甲高い音。ルファは、配給の場に不釣り合いなその音が、悲鳴であることに気がついた。思わず配給人と顔を見合わせると、彼は驚いた顔をすぐに隠し、口の端を微かに上げた。
「どうした。行かないのか? 探している奴が見つかるかもしれんぞ」
 
 ルファはイーヴァインを残したまま配給袋を片手で抱え、悲鳴を聞き列の構成を乱し始めた人混みを縫って走った。途中でパンが一つ落ちたが気にせず駆け続けると、ようやく人混みの後方に辿り着いた。数十もの獣人が四散するように逃げていく中、今度は低い叫び声が耳に飛び込んできた。聞こえてきた方向に目を合わせると、逃げ惑う獣人たちを追う一つの影が見受けられた。そこに近づこうとして、ルファは足を止めた。
 イェニーだった。いつものどこか理知的な立ち振る舞いは消え去り、獰猛な狼と化した彼が、次々に獣人を殺していた。見たことの無いイェニーへの恐怖で棒立ちになったが、突っ立っていたルファが前面に居る列に突進してきたので、どうにか横に跳んだ。充分に距離はあったはずだったがそれでも間一髪だったらしく、次の動きを見届けようとルファが振り返った目の前で、鮮明な赤が吹き荒れた。爛爛と血走った目、刃物のような爪、口もとから覗く堅牢な歯牙。以前の飢餓の際に自分を襲ったものより、幾分も恐怖を沸き立たせる横顔だった。
 姿を見せれば他の獣人に殺されてしまうなど、的外れに過ぎる杞憂だった。そのまま自分に向かってくるのではと思ったが、彼はC居住区の列に突っ込んだ。列の後方で異常に気付いていた者たちは上手く避けたが、そのせいで、行列の中程に居て良く状況を呑みこめていなかった獣人たちの塊に、イェニーが襲いかかった。まず、振り向いた誰かの首から血飛沫があがった。イェニーは横一文字に薙いだ腕をすぐさま返し、二人目の獣人が左肩から右腹部にわたって爪で裂かれ痙攣しながら倒れた。首を噛み砕かれた、胸部を突き破られた、目玉や脳を撒き散らした。ほんの僅かの間で五人が死に、ようやく中程に居た獣人たちが逃げ始めたが、イェニーは手を緩めない。血染めの爪を振るい、逃げの一手しかない背中たちを串刺しにして、やりたい放題だった。
 ルファは自分の体が震えているのをそこでようやく自覚した。ヘンリクの友人が、ヘンリクと仲の良かったイェニーが、感謝の言葉を聞くと面映ゆそうだったあのイェニーが、何の意味もなく同種を殺している。死体が次々に見つかっていたのは、紛れもなく、イェニーの仕業だったのだ。
 駄目だ、と思った。こんな場面をヘンリクに見せては駄目だ。しかし震えが止まらない。
 勇敢にも彼に立ち向かって行った獣人たち――おそらく仇討ち目的の連中――が次々に殺されていく。最後に残った一人は逃げようとしたがその前に爪で頭を貫かれた。
 駄目だ。こんな場面を見たら、ヘンリクは、今よりももっと、笑わなくなる。笑えなくなる。自問した。笑わなくなってもいいのか。あの優しいヘンリクが、笑顔を見せなくなってもいいのか。
 自問の答えはすぐに出た。そんなこと、許容できるはずがなかった。
 一刻も早く、ヘンリクがこの場に来るよりも早く。
「仕留めないと」
 あの心安らぐ笑顔とは、もう会えない。ルファは配給の入った袋を地面に放り捨てると、右足で地面を踏み付けた。自分に仕留められるのか、とは考えなかった。仕留めなければいけないのだ。
 口火を切ったのはルファだった。年若い容姿の獣人を噛み殺して、次の標的に移ろうとイェニーが中腰になった時に、踵を蹴り下ろした。次の標的となろうとしていた獣人は驚いたように腰を抜かしたが、すぐに持ち直して逃げ去って行った。地面に顔を打ち付けたイェニーはルファが次の蹴りを打ち据える前に立ち上がり、爪を突き出してきた。ルファは体格差を生かして潜り込み、腹を目掛けて膝蹴りを入れ、その大きな体がよろめいたところで後方に跳んだ。距離を取ったつもりが着地と共に爪が右腕に刺さる。爪が抜かれる際、杭を穿たれ、すぐさま引き抜かれたかのような痛みが走った。ルファは表情を変えず、桁外れの動体視力で捉えた襲い来る左手を、蹴り上げる。いくら堅く鋭くても、爪は爪だ。激しい外圧には脆い。小指と薬指の爪が折れて舞う。
 しかしそれだけだった。息つく間もなく右腕が振り抜かれ、小さく宙返りをして紙一重で避けてからは防戦一方になった。足を後ろに後ろに蹴って避けるが、すぐに追いつかれて爪がルファを裂こうと振り抜かれる。かろうじて避けながら後退していったが、後方への連続的な跳躍は体力を奪い、跳べる距離が段々と小さくなっていった。そしてあまり前方に気を取られて足元をおろそかにしたためか、何かに躓き、ふっと足の力が抜けた。転んだ、と思うより前に身体全体を使って横に転がり、串刺しは免れた。
 ルファは体勢を立て直して、攻撃を外し隙のできたイェニーの後ろに飛び背中を取ると、渾身の蹴りを叩き込んだ。人間だったら即死しているであろう蹴りを受け、彼は呻き声を上げた。ルファはその僅かな間隙を見極めすぐさま間合いから脱すると、そのまま方向を変え、懸命に駆けた。

 距離を稼いだところで振り返る。イェニーは追って来てはいなかった。膝に手をつき、乱れた息を整える。あのまま一人でかかずりあっていれば追い込まれて死んでいただろう。昔にイェニーとやり合った時とは別人だった。今のイェニーは、何か身体の制御が利いていないような……そんな印象のする強さだった。様々な汗でぐしゃぐしゃになった長袖のシャツを動かして胸元に冷たい空気を送り込み、それからまた息を整えた。
「ルファ、この騒ぎは?」
 少しは体力が戻ってきて、もう一度イェニーに対峙しようと決意したルファに、後ろから声が掛けられた。
 ルファはその声を聞いてあまりに驚いて、肩をびくりと震わせていた。咄嗟にイェニーの爪にやられた右腕の傷を左手で押さえて隠し、どう説明しようか迷っているうちに、ヘンリクはルファの前に回り込んできていた。
「その腕」
 傷口は隠せていたが、傷口から流れる血は隠せていなかった。大きな血管を外れていたためそれ程多くは流れていなかったものの、シャツの白地からは赤黒い血が染み出していた。
「見せて」
 ルファは腕を抑えたまま、首を振った。
「いいから」
 ヘンリクが苛立たしげに言ったが、ルファはもう一度首を振った。
 するとヘンリクは傷口を押さえている左手を強引に引き離した。ルファは、抵抗を諦めた。
「爪に、やられたのか」
 悲鳴がヘンリクの呟きに重なる。
 ヘンリクは俯き加減のままルファのシャツの肘から下を破き、傷口の上で強く縛った。
「ルファに、こんなことが出来るのは」
「違う」
 ルファは首を振った。
「違うよ」
「ありがとう。でも、気遣いはいらない」
 彼は、ルファの後ろに目を向けていた。ルファも体を後ろへ向ける。イェニーは一向に衰えを見せず、未だに暴れまわっていた。ヘンリクはルファから完全に視線を外し、歩き始めた。
「僕が止める」
 ルファは咄嗟に彼の腕を掴んでいた。
 ヘンリクは優しさなど微塵も感じさせない瞳でルファを見据えた。思わず掴んだばかりの手を離す。彼に翻意を促すのは、無理だと気付いた。
「私も……手伝う」
 ヘンリクの顔は見ず、ルファは落胆を隠した。ヘンリクがこの状況を目の当たりにする前にイェニーを仕留め損ねた自分にはもう、彼の負担を少しでも軽くしてあげることしか出来なかった。
 
 夥しい死体の中で、一体の獣人だけがイェニーに相対していた。獣人の方は既に満身創痍と言った様子だった。イェニーは攻撃を仕掛けず、窮鼠の獣人の出方をじっと観察しているようだった。良く見ると、イェニーの右手の爪はすべて先端の鋭さを欠いていた。残っているのは、先程ルファが薬指と小指の爪を折っておいた左手の、三本だけ。
「あの時の……」
 その獣人はルファが人間を襲った時、直前で邪魔をした熊型の獣人だった。膝をついた彼の、全身を覆う黒々とした毛先の所々から血液が滴り落ちている。
 仇打ち目的の連中や自分とヘンリクはともかく、なぜこの獣人はイェニーに向かって行ったのだろう。ルファが戸惑っている間に、ヘンリクがイェニーに飛び掛かっていた。ヘンリクの姿を捉えても、イェニーは我に返ることはなかった。鈍く赤みを帯びている瞳でヘンリクの姿を捉え、躊躇なく左手の爪を繰り出す。ヘンリクは肘を素早くその左手に叩き付け、残った三本のうち、二本の爪の先端を欠かせた。既に普段の彼ではない。配給人に食ってかかった時の顔だった。
「ねえ、この熊の連れは!」
 ルファはその間に倒れていた獣人の隣に走り、逃げ離れゆく人々に向かって怒鳴った。しかし、ルファの声は耳に入っていないようだった。
 周りを見渡す。配給の行われていた受付が近くにあったが、配給人たちは銃を構えて警戒しているだけで、イェニーを射殺しようとする動きはなかった。獣人を保護するつもりは全くないようだ。逃げる獣人たちはその配給人たちよりも遠くに離れていく。
「君、一人? 自分で歩ける?」
「お前は、この間の……」
「質問に答えて」
「いや……ああ、一人だ。自分では歩けない」
 低い声がそう告げる。ルファは溜息を吐いてから振り返る。ヘンリクはまだやり合えそうだ。ルファは熊型の獣人の脇に体を入れ、担ぎ、歩き始めた。
「何故お前のような輩が俺を助ける」
 彼の言葉を無視して、ルファは獣人たちが逃げた方向へ一歩二歩と進んでいった。ふと気付けば、獣人たちの塊から抜け出し、逆走してくる獣人の姿があった。
「なんだ、連れ、いるんだ」
 ルファは呟くように言うと、熊型の獣人をゆっくりと地面に降ろした。走ってきた獣人の顔を確かめると、奇縁なことに、あの時喰らい損ねた人間、だった。人間はこちらの顔を見て驚いたが、ルファは何もせず彼の動きをただ見ていた。
「どうして、襲ってこないの?」
 彼も、こちらに襲うつもりがないと分かると驚き以上の反応は見せなかった。熊型の獣人に肩を貸しながら、問い掛けてくる。人間に聞きたいことは色々あったが、早くしないとヘンリクが危ない。
「気まぐれ」
 ルファは人間の瞳を見詰め返してから、すぐさま反転した。



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