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「つっ……」
 ルファは寝返りを打ったのを機に普段通り上半身を起こしてしまい、痛みに顔を顰めた。あの人間を喰らい損ねた後から、腹のやや上の辺りと、背中に痛みが残されている。触診をしたイーヴァインは、恐らく肋骨にヒビが入っているか、折れている、と言った。背中は打撲。触られた箇所が痛かったというだけで分ってしまうものなのだろうか、とルファは訝ったが、イーヴァインの言うことだから、と納得した。この島には医者などいないから、外傷は自分で治すしかない。軽傷と侮っていた者が翌日急激に体調を崩しそのまま息を引き取るということも、ときたま発生する。前に大怪我を患ったときは、知識豊富なイーヴァインにいろいろと助けてもらった。ただの隣人だというのに、それだけで、必死に。だからルファは、彼のために何かをするということに抵抗はなかった。彼が窮地に追いやられたら自分の命に代えても惜しくない人だと密かに思っている。
「どう? 体調はいい?」
 ヘンリクが問いかける。昨日今日と繰り返された質問に、ルファは顰めた顔をそのままにしてそれに答えた。
「いいも悪いもないよ。ただ安静にしてるだけなんだから」
「ご……ごめん」
「それで? 誰だか分かった?」
「探しては見たけど……まだ、分からない」
「本当にちゃんと探してるの?」
「……ごめん」
「鬱陶しいからいちいち謝らないで」
 ルファはヘンリクを睨んだ。
 気絶から目を覚ませば、熊のような風貌のあの男と人間、どちらも消えていた。
 気に入らなかった。人間を取り逃がし、あの男の言葉通りに気絶させられた自分、怪我の具合、どれを取っても。あの男の体格にしては全てが軽すぎたし、完全に手加減をされている怪我の具合だった。顔に至っては一つも傷がない。
 手加減されるということが、ルファにとっては一番の屈辱であり、苛立つ所だった。目の前で人間を取り逃がしたことよりも、だ。ヘンリクは、熊のような風貌と、ただ強いという漠然とした情報だけを頼りに、ルファに怪我を負わせた人物のことを調べてくれている。
「でも、そんなに口が回るなら、問題なさそうだね」
 ヘンリクは言い、微笑んだ。ヘンリクは倒れている自分を最初に見つけて、ここまで運んでくれたらしい。いつもなら戻っている時間に戻らない自分を不審に思って湖岸まで探しに来てくれたという。それは本当に有り難いが、今は本当に気分が優れなかった。
「……ねえ、私に、今は構わないでよ。苛々してるの、見て分かるでしょ。ヘンリクに八つ当たりしてばっかり」
 睨むのを止め、溜息を吐いた。
「いいよ。イェニーも最近姿見せないしさ、僕もすることがなくて。話し相手がいないのって、退屈だろう? それに、身の回りのことも手伝える」
「……もう、わっかんないなぁ、君のこと。何でわざわざ嫌味言われに来るの?」
 そう問い掛けたとき、扉が三回叩かれた。
「おーい、ルファ」
 イーヴァインの声が聞こえ、ヘンリクが立ち上がって玄関先に向かった。
「ほら、こういう時も困るし」
 途中でわざわざ振り返り、言い訳めいた口調でヘンリクが言った。ルファはその背中をぼうっと見つめていた。

 イーヴァインは、湿布代わりなんだが、と言ってから薄手のバスタオルを差し出した。
「里芋を擂り潰して、小麦粉と少しの生姜とで混ぜ合わせたものをな、こうして塗れば湿布代わりになると、昔、近所にいたじいさんに教えてもらってな。背中の打撲に効くと思って持ってきた」
「……ありがとうございます。いつもいつも本当に助かります」
 以前、彼に教えてもらった話し方を試してみた。
「適当なものがなくてタオルになってしまった。このまま巻こうか?」
「そうしてくださるとありがたいです」
「うんうん、その言葉遣いができるのは、礼儀正しくていい子だけだ。ヘンリクにもその調子でもう少し優しく当たってやるんだぞ」
「は、はい」
 イーヴァインは満足げに頷いた。
 それからルファは、肋骨を再び傷めないようシャツを脱いで、タオルを巻いて貰いやすいようにした。
「う、だ、だからいきなり脱がないでくれっていつも言って……」
 ヘンリクが慌てて目を逸らす。ルファと同じく性欲のないイーヴァインは「難儀だな」と笑いながら、背中の患部からお腹にかけてタオルをゆっくり巻いてくれた。
「なんか、かゆいかも」
「む、ちょっと、量が多すぎたか? かぶれたら外しなさい。里芋のかゆみは強烈だからな」
「うん、分かった、イーヴァイン」
「言葉遣いが戻ってるぞ。イーヴァインさん、だろう?」
「分かりました、イーヴァインさん」
 ルファは笑って言い直した。






 ルファは背を伸ばして、肌寒いガラクシアの町を見つめていた。いつもと景色が少し違って見える。
 いまルファはヘンリクに背負われながら、町内放送を聞き付け、三日ぶりの配給を貰いに行く途中だった。凭れかかると肋骨の状態が悪化しそうだったので、足をしっかり支えてくれているヘンリクの肩に手を乗せるだけだった。本人でなければ配給を受け取ることはできないから、ヘンリクの心遣いが嬉しかった。
 イーヴァインも、遠出するときに使う鉄製の杖を突きながら、ゆっくりと隣を歩いていた。通り過ぎる獣人たちは、彼に挨拶をしない者はいなかった。時折、ルファとヘンリクにも挨拶が成される。挨拶が交わされたのは近所だけで、配給所に近づくたびに見知らぬ獣人たちが増え、挨拶をしなくなっていった。
「イーヴァインさんがいるから、大丈夫だと思うけど……。ルファが怪我をしてると、不安だなあ」
「またそんな弱気なこと言って……誰かに襲われたらちゃんとヘンリクも追い払ってよ?」
 喋るたびに口から零れる息が、白く広がっては消えていく。
「僕はあんまり強くないから……」
 ルファは、苦笑いをした彼が弱くはないことを知っていた。襲われれば冷静に対処して反撃するし、前の飢餓の時には獰猛な一面も覗かせていた。ただ、他の獣人と殺し合うことを好まず、闘争心がないだけだ。もし人間に生まれていたなら、本当に穏やかな人だったに違いない。
 そんなことを考えていると、もう配給所が見えていた。そして見覚えのある後ろ姿が視界の隅に入る。何列かに分かれて並んでいる行列右の中ほどに、彼はいた。
「イェニーが並んでるよ?」
 彼と仲の良いヘンリクを気遣って、行列の中でも際立つ長身を指差しルファが言うと、
「あれ、ホントだ。でも、今日は、話し掛けないほうがいい日かもしれない」
 目の良いヘンリクはそう返事をした。イーヴァインは杖を使い必死に背伸びしているが、見えていないようだ。
「どうして?」
「雰囲気が、そんな感じ。下手に喋りかけたら、喰われそう」
 ヘンリクはイェニーとよく一緒にいて、話しているのを見かける。何故近付くもの全てが敵のような彼と、闘争心の欠片もないヘンリクが一緒に居られるのか疑問に思い一度聞いたことがある。それによればヘンリクは、雰囲気や感覚、そういった抽象的なもので彼に話しかけるタイミングを計っているのだという。そして時折イェニーが、自分の話を聞いて笑う瞬間に何故だかすごくほっとするからだとも言っていた。
「ふうん。じゃあ、いっか」
 ルファの言葉を潮に、ヘンリクたちは行列に並んだ。
 
 配給を貰う列は、居住区によって分けられている。
 並んだ後で、それぞれの居住区担当者のいる場所へ向かう。ルファ達は全員、D居住区だった。イェニーは、E居住区。
「D居住区のヘンリク。配給を受け取りに」
 そう言うと、配給人は書類をざっと見た後、部下に指示をして、中程度の食欲を持つ獣人用の箱から食料を持って来させ、ヘンリクに押し付けた。
「あ、の、同じくD居住区のルファ」
 背負われたまま言うと、いつものような蔑む目線が、一層強まった。
「……馬鹿にしているのか?」
 異様に低い低音を耳が捉え、ルファはヘンリクの背から降り、彼の前に立った。この配給人の機嫌を損ねれば、しっかりとした食料が貰えなくなりそうだったためだ。
「ち、違……う。肋骨を怪我してて、背負われないと、ここまでこれなくて」
「……そうか」
 彼は納得したように頷くと、肋骨の辺りに視線を転じてから、書類に目を落とした。そしてヘンリクと同じように、部下に食料を持ってこさせ、受け取った。
 すると配給人は、左手でその食料を押し付けるふりをして、右手を下から素早く振り上げ、ルファの肋骨の辺りを強く殴った。

 息が詰まり、悲鳴を上げることもできなかった。
 容赦のない、よく訓練された拳打を真正面から受けた壊れかけの肋骨は、瞬く間に激痛を走らせる。
 ルファが痛みに耐えきれずよろめいたところを、ヘンリクがゆっくりと左手を回して支えた。
「何をするか!」
 イーヴァインが激昂したのを、ヘンリクはルファを抱いたまま制し、ルファの身体をイーヴァインに預け、「ちょっと、お願いします」と呟いた。
「やだなぁ、配給人さん。彼女、肋骨を怪我してるって言ったじゃないですか」
「……そうだな。見て分からないか? だから、だ」
「やめてくださいよ、そういうのは。僕たちだって、ちゃんと、痛みも感じるんですから」
「……いいから、早く持っていけ。そこの薄気味悪い女の食糧だ」
 ヘンリクに、ルファの食糧の入った紙袋が押し付けられる。
 その瞬間、ヘンリクは配給人の肘の辺りを掴んだ。
「……貴様。何をする」
「肋骨を怪我してるって言ったんだよ、こっちは」
 激しい怒りを湛(たた)えた冷静な声音で、低く言った。
 ヘンリクの目の瞳孔が急速に散大し、配給人の腕が激しく軋み始めた。
「……くっ! 離せ。さもないとこの場で貴様を処刑する!」
「知るかよ。やめて欲しいなら地面に額をこすりつけて謝れ。それともお前の腕、このまま食い千切ってやろうか?」
 配給人は自由の利く左手をばたつかせ必死にヘンリクのことを殴っていたが、ヘンリクはものともしない。
 既に配給を中断した各配給所の部下が集まり始めていて、ヘンリクのことを囲み、どう対応するべきか迷っていた。
「ヘンリク、やめてっ!」
 止めるなら、ここしかなかった。
 ルファはイーヴァインに支えられていた身体を無理に動かし、凭れかかるようにして彼の肩に組みついた。
 しかし彼は、配給人の腕を離そうとしない。
「やめなよ、殺されちゃうよ、ヘンリク……!」
 ルファは必死に訴えるが、彼は聞く耳を持たなかった。
 このままでは、処刑される。処刑されてしまう。
「……着剣」
 戸惑っている部下たちに、受付の配給人が静かな声で命令した。
 それでも彼は瞳孔の開ききった目で配給人を見据えたまま、腕を掴んで離さない。
「ヘンリクっ!」
 肋骨の痛みが酷く思うように力が入らなかったが、必死に彼の背中に爪を立てて、叫んだ。
 ヘンリクとルファ、イーヴァインの周囲を半円に囲んだ部下たちは、長柄の銃に、磨き上げられた刃物を次々着剣していく。
 そして部下たちは一斉に銃剣を構えた。
「……刺し殺せ!」
 だがその命令は、実行されることはなかった。

 ある者は戸惑い、ある者は畏怖を籠めた眼差しで、一点を見つめていた。ヘンリクを、ではない。ヘンリクの向こうに立った人影を、だ。その人影はヘンリクの腕と配給人の腕とを掴み、強引に引き離していた。
「やめとけ」
 ようやく配給人から視線を外したヘンリクの腕を掴んだまま、彼は言う。ざわつく周囲の声をものともせず、一本筋に響いた声が、予想だにしていなかった声が、ヘンリクに縋り付いていたルファの耳元で響く。
 マスクに籠った、冷徹な声。
「イェニーだよな、あれ……」
 配給人の部下の一人が慄き呟くのを、ルファはヘンリクに縋り付いたまま聞いた。
「本当に申し訳ないが……こいつは俺の友人だ。見逃してくれないか。まだ、腕を掴んだだけだろう?」
 イェニーが配給人に向けて言った。
「……ゆうじん? あ、ああ。友人か」
「そう。友人」
 配給人は、あまりにも意外な言葉がイェニーの口から出て、呆けたような顔で長身のイェニーを見上げていたが、やがて一歩下がると、右腕を擦った。
「無事に解放してくれたら、何もしない」
「……いいだろう。お……お前が言うなら」
 すっかり気勢を殺がれたように、彼は言った。



「良かった……」
 ルファは配給の場を後にした途端に力が抜け、その場に倒れこみそうになったが、またヘンリクに支えられた。
「肋骨は? 平気だった?」
 ヘンリクはすっかりいつもの調子に戻っていて、ルファの顔を見つめて言った。
「平気だよ。まだすごく痛いけど、悪化は……それほどしてない、と思う。たぶん。折れた感じは、しなかった」
 ルファが言うと、居心地悪そうに先を歩いていたイェニーが足を止めた。
「……俺、帰るから。ここで」
 いつもと変わらぬ調子でルファを一瞥してから、今度は自宅があるほうへと足を向けていた。
 イェニーは、獣人たちの間ではもちろん、配給人にも恐れられている。その力は精鋭ばかりの配給人たちを全て一人で皆殺しにできるほどだと噂されていて、実際、配給人たちが十五人がかりで挑み鎮圧に失敗、四名が死亡する惨事となった生態系荒らしの獣人殺しを、大量の食糧と引き換えに依頼され、たった一人であっさりと殺したこともあった。それから、イェニーは配給人たちの間でも絶対に敵に回してはいけない獣人と目されている。
 ルファはそんな彼の背中に向けて、精一杯の笑顔で声を掛けた。
「ありがとぉっ!」
 彼の背中が少し面映ゆそうだったのは、自分の思い違いだろうか。






 
 イェニーと別れてから、ルファとイーヴァイン、ヘンリクは、ルファとイーヴァインの住んでいる集合住宅に辿り着いた。
 ルファはヘンリクに背負われたまま、イーヴァインが一段一段ゆっくりと上っていく様を見ていた。
「ごめん。手、貸せないや」
「怪我人がそんなことを気にするな」
 優しく微笑むと、またせっせと階段を上り始める。一段、一段。

「じゃあ、また明日」
 イーヴァインと部屋の前で別れた後、ヘンリクは鍵を開け部屋に入る。
 慣れた様子で靴を脱ぐと、ルファの靴も器用な手つきで脱がしてから、そのまま奥の寝室まで歩いていき、気遣うように降ろした。
「……僕も、帰るから。それほど悪化してないみたいで、良かった。うつ伏せで寝ちゃわないようにね」
 彼はあの時……配給人の腕を掴んだあの時とは正反対の柔和な表情で、微笑んだ。
 ルファはそんな彼を見て、胸から自然に溢れて出る「何か」を感じていた。
「……ヘンリク」
「……ん?」
 玄関で靴を履きながら振り返った彼に、ルファはゆっくり近付いていった。
「ありがとね。代わりに怒ってくれて。嬉しかったよ、私」
「い、いや……ホント、ごめん。もう少しで、ルファにも迷惑がかかるところだったし……」
「またそうやって謝る。いいよ、そんなの。迷惑でも何でもないから」
 靴が置いてあるたたきに足を置き、閉じられた玄関の扉の前に立つ、ヘンリクに歩み寄った。それほど広い空間ではなく、当然のように、身体が触れ合う。
「それと、もう、いいや、あの熊男。探さなくても」
 満たされる欲は相も変わらず無かったが、心がどうしようもなく温かくなっていく。
「へ? ど、どうして? あれだけ……あれだけ悔しがってたじゃないか。それに、人間の行方だって……」
「……自分でもどうしてか分からないけど。ヘンリクが、殺されそうになった時から、なんだか、変な感じなの」
 ヘンリクの腹の辺りに両手を置き、頬を彼の胸元に当てた。
 彼はきっと顔を赤くして、自分のことを見ている。
「少し、分かりそうかもしれない。食欲以外の、ことも。……あのにんげんはきっと、この気持ちが何なのか、知ってるんだろうなぁ。なんだか、羨ましい」
 そう言うと、ヘンリクがルファの身体をこの前とは段違いに力強く、抱き寄せてきた。
「……なら、それが分かる時が来るまで、僕はルファの側に居たい」
 肋骨が痛い、と文句を言おうとしたが、ルファはその言葉を聞いて、口を開くのを一旦止めた。
 代わりに、
「今までも、ずっと側にいたよ?」
 と、からかうように答えた。



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