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 ヘンリクが帰った頃には、夜になっていた。ほとんど寝ていないが、習慣として根付いたものはそう簡単には変わらない。今日も湖岸に行こうと思い、立ち上がった。いつもと違う日常を過ごしたルファは、少しばかり、期待していた。今日はなんだか、獲物が現れそうな気がした。何の根拠もない直感だったが、抱き締められても感じることの無かった、不思議な高揚感が胸を満たした。
 自分に残されているのは食欲だけだということをルファは再確認し、動きやすい服装に着替えた。

 階段を降りて町に出、それからいつもの湖岸に向かう。長袖のTシャツにジーンズ。それだけでは肌寒いので以前イーヴァインに作って貰った薄手の外套を羽織って、ゆっくりと歩く。街灯が少ない夜の街路は薄暗かったが、夜目の利くルファにはあまり関係がなかった。
 湖岸までの路は深い霧に包まれている。やはり、いつもとは違う雰囲気が漂っていた。今夜は何かがある。ルファはその場に軽く跳んだ。一蓮托生の存在である足も既に、準備が整っていた。
 そこで、頭上の耳が大袈裟に反応を示した。湖岸で発した形容しがたい音が入り込んでくる。
 何の音だろう、とは考えなかった。考えるのは性に合わない。自分の頭に浮かんだ直感を信じて、ルファは走り始めた。

 噴霧に濡れて額に張り付く前髪を一度掻きあげてから、島を覆っていた鉄柵に、昨晩まで見られなかった穴が開いているのを見つけた。人為的に開けたとしか思えない歪め方で破られている。これを開けたのは人間だろうか。いや、そんなことはどうでもいい。穴に歩み寄ってそこに横付けされたボートに乗り、中を探った。そこにあったのは体を隠すために使ったと思われる大きな布きれが置いてあるだけ。しゃがんで布切れに触れたルファは、笑った。
「まだ近くにいる……」
 温か味を残す布切れを放り出し、地面を蹴った。
 更なる加速をしようとした辺りで、危うく木にぶつかりそうになり、避けた。注意しなければ、と思い獲物を前に興奮していた頭を鎮め、一旦深呼吸した。この濃霧では夜目の利点はないも同じだ。興奮して獲物を逃したら元も子もない。
 頭上の耳が跳ねたのは、もう一度深呼吸をした時だった。左前方、数十メートルも離れていない場所に、砂利を踏みしめる音がしたことを確認した。落ち着けた心は一瞬で逆戻りし、ルファは何も考えずにそこへと向かった。

「にんげん……」
 間違いない。あの背中は、確実にそうだ。時折、他の獣人も散歩していることがあるが、濃霧が少しばかり薄れ視界が広がっていたルファは、島に来る配給人たちの姿かたちと照合し、断定した。
 呟いた声が聞こえたのか、その人間は後ろを振り返った。ルファは外套を一息に脱ぎ去り、人間に投げつけた。そして一瞬で距離を詰め、その柔らかな体を蹴り飛ばした……はずだったが、足が捉えたのは人間の体ではなく、頑丈な何かだった。
「……!」
 ルファの急襲に、人間が息を詰めたのが分かった。彼が戸惑っている間に、脛を使った蹴りを入れようとした。しかし、またしても阻まれる。濃霧で良く見えなかったが、鉄パイプのようなものだった。その手に持たれていた物はルファの蹴りを受け止めるほど、頑丈だった。脛がじんじんと痛む。邪魔だ。まずあれを蹴り落とそう。
「きみは、この島の住人なの?」
「……喋る言葉は、同じなんだ?」
「え?」
 再び呆けた様な素振りを見せた人間の手の甲を狙い、異常に柔らかい関節を使って真上から真下に踵を叩きつけたが、それも避けられた。霧が目に入って鬱陶しい。冷静になれ。確実に狙え。自分に言い聞かせる。
「ねえ、僕の言葉が通じてるの? 僕はきみに危害を加えたりするつもりは全くないから、話せるのなら……話をしようよ」
「……でも私は、君のこと、食べたいなぁ」
 人間というのは、随分と危機意識が低い生き物のようだ。事ここに及んでさえ呑気に説いた彼は、自分の言葉を受けようやく脅威を覚えたのか、すぐさま後ろに飛びずさった。その人間の背後に、濃霧で隠れていた木が現れた。彼は音を立てて勢いよくぶつかった。ルファは絶好の好機を逃すまいと力を込め、蹴りを叩き込む。しかしそれも避けられた。今度のものは恐らく、偶然の回避。
 木に直撃した蹴りはその木皮(こはだ)を削り、さらに抉った。人間は首を曲げてかろうじて避けた。彼の身代わりとなった木皮がぼろぼろと零れ落ちる。
 蹴りを四度も躱されたが、結局のところ、人間の身体能力で躱すことができたのはどれもが僥倖だったらしい。
 余裕を取り戻したルファは、笑みを浮かべ、すぐに追撃を加えることはしなかった。どうせ直に終わるのだから、少しの間だけ、人間そのものと言葉を交わすというのも面白そうだ。
「なんで君のこと狙うか、教えてあげようか?」
 彼は黙って、ルファの言葉に耳を傾けていた。
「人間の肉って、おいしいんだってさ。配給に来る奴らは殺しちゃ駄目なのが掟だから、肉を正当に得るために、ずぅぅっと上陸してくる奴を待ってたの」
 ゆっくりと歩み寄ると人間は、
「……さっきの『食べる』というのは、そのままの意味だったんだな」
 と言った。
「そうだよ。今頃気づいたの?」
 また、笑顔が零れる。
 待ち望んだ獲物が、今、目の前にある。笑わずにはいられない。
「……きみ、名前は」
「私? ルファっていうの。よろしくね。君、もう、死ぬんだけどさ」
 ルファはそう言うと、彼の脇腹に軽めの蹴りを叩き込んでやった。
 妙な声を出して転がった後、彼はその場にどうにか肘を立てて起き上がろうとした。だがそれすらも果たせず、そのまま吐瀉物を地面に吐きだした。かくも弱き、人間の体。しかしその柔らかな肉は、絶妙な味を引き立たせてくれることだろう。
「ルファ……きみも、元々は人間だったはずだ」
 彼はどうにか手を突き、ルファの目を真っ直ぐ見つめて言った。
「人間を食べるだなんて、そんなことは……止めるんだ」
 こんな格好で言っても説得力ないけどさ、と彼は少しだけ笑み交じりに言った。
「私の元が、人間?」
 何を言い出すかと思えば。
 素直に命乞いをされるよりも興味を引かれたのは確かだが、それだけだった。自分と、いま目の前にいるこいつが、どう考えたところで同じ種族のはずはない。配給に来る奴らの蔑んだ目を見ていればわかる。自分たちは明らかに、異物だ。
「思い、出せないのか……? きみも、僕と同じように、十三歳の誕生日の日に《神殿》へ召集されたはずなんだ……!」
「はっ……」
 馬鹿言わないで、と嘲笑の形を結びかけた唇は震え、言葉を紡ぐことはなかった。
 体中の血液が、一度に大きく脈打った。
 再び、将来の夢と題された作文を読んだ時のような頭痛が駆け巡り、心臓が早鐘を打つ。
 何だ?
 この前といい、今日といい。
 自分ではない自分の映像が、脳裏で再生されていく……。
「くっ、う……!」
 あまりの痛みに、獲物を前にして頭を抱えてしまうが、すぐに律して手を離し、
「……お前っ! 何をしたァっ!」
 力の限り叫んだ。
「僕は何もしていない! その反応……きっと獣人になったときに、何かあったんだ。どこか記憶の片隅で、憶えているはずなんだ……!」
 人間の言動に気を取られているうちに、彼は目の前で立ち上がろうとしていた。
 頭痛に耐えながら、信じ難いという思いでそれを見つめた。力を抜いた一撃であれだけ損傷を受ける脆い体を持ちながら、どうして立ち上がる。これだけの力量差がありながら、どうして無意味な行動をする。獣人には、こんな奴はいない。皆、力量差を知れば強者の糧になろうと従順となる。
 ……知らない。こんな生き物は、知らない。頭痛を捻じ伏せた脳内の司令塔が運動神経に次の行動を伝達し、ルファは立ち上がろうとしている人間に向けて、全霊の蹴りを見舞って締めようとした。
 そこでルファは、妙な感触が足先に伝わったのを感じた。

「そういうのは、良くないな」
 全く面識のない獣人が、自分の放った人間への蹴りを太い腕で受け止めていた。上手く視界の利かない霧の中から身体を滑らせた彼は、熊のような風貌をしていた。
「誰だ……」
 ルファと同じように湖岸を散歩する獣人の姿も時折は見かけるが、横槍など全く想定していなかった。無関心でいればいい物を、正義漢気取りが。ルファは余計なことを仕出かしてくれた獣人に対して少なからぬ苛立ちを覚え、吐き捨てるように言った。
「この辺りの散歩が日課でね。ただの通りすがりだよ。……どんな理由があろうと、同族殺しを黙って見過ごすわけにはいかないさ」
 彼はそう言うと、どっしりとした構えでルファに対峙した。彼の背後で、人間は力尽きたように地面に伏した。
「どけ! そいつは人間だ。同族殺しには当たらない」
「人間? 言い訳にしちゃタチが悪いな。そんな嘘に騙されるとでも思ったのか?」
「……ここで私とやったら、君も同族殺しだよ?」
「殺す予定はない。気絶させて終わりだ」
「ずいぶん自信家なんだね。……死になよ」
 ルファは地面の上で軽く跳んでから、一気に男の懐に入った。巨体が眼前に迫るが、不利とは思わなかった。自分より体の大きい敵にはいくらでも隙ができることを、経験で知っていた。体格差を侮って死んだ獣人も少なくない。
 男はすぐさま一歩下がって、太い腕を振り抜いた。しかしこの程度のスピードなら、イェニーに比べたらどうということはない。男のように下がって避ける様なことはせず、軽やかな体重移動を使い躱した。間を置かず足の強靭なバネを使って跳び上がり、男の顔面目掛けて一撃必殺の右回し蹴りを叩き込む。
 死んだ。
 蹴りが衝突する寸前、そう確信したが、しかし男の首は折れなかった。折れるどころか、打撃がまるで効いていないようだった。男の頭部は頑強の一言で表せた。そんなことがあっていいのだろうかと慌てたが、向かいの老人、イーヴァインの異様に堅い皮膚を思い出し、態勢を立て直そうとルファは足に力を込めた。しかし後ろに跳ぼうとした時、体に似合わず鋭敏に反撃へと移った男が体当たりを仕掛けてきて、ルファはその場に押し倒されてしまっていた。
 起き上がる間も与えられず、足をずしりと掴む手があった。不味いと思ったのも一瞬、ルファは足を掴まれたまま振り回された。
 景色が反転した後、彼の手が離れ背中と臀部に激痛が走る。硬い地面に叩き付けられ息が詰まり呼吸が出来なくなったが、呼吸どうこう以前に命の危機を感じたために素早く立ち上がったルファは、既に余裕を失っていた。激痛が焦りを生み出す。焦りが平常心を奪う。骨はいってないようだが、背中全体を締め貫くような痛みがある。
 あと少し、あと少しで、あれだけ焦がれた人間の肉を口にすることができるというのに。無駄口など叩いている間に、早く食しておくべきだったと今更のように後悔した。……こいつには、勝てる気がしない。
 気が弱った隙を、相手は見逃さなかった。
 剛強な腕がルファの肩をいつの間にか掴み、強烈な膝蹴りを腹に打ち込んできていた。上半身の筋力は他の獣人より劣り、組み付かれるとどうにもならなかった。あまりに一方的な打撃だった。一回、二回、三回……。そこまで数えて地面にもう一度叩き付けられたルファは、攻撃と体中の激痛に耐えるようにうずくまり、考えるのをやめた。



***



 破られていたはずの鉄柵は、破れる以前と見分けがつかないほど綺麗に修復されている。誰もいなくなった水辺で、舟を引きずる者の姿があった。
 彼……と呼ぶべきなのか、彼女と呼ぶべきなのかは分からない。他の獣人とは比べようもないほど醜いその顔を微かに顰めながら、彼はただ一点に向かって舟を引きずっていた。ただ、黙々と、目的の達成のために。彼は万能ではなかった。だからこそ、地道に積み上げていく必要があった。




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