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 無言で袋が押し付けられた。今日の配給だ。
 ルファは、目の前の男から耳に向けて蔑んだ視線が注がれていることに気付かぬふりで袋を受け取って、後ろに並ぶ獣人たちに場所を譲る。
 配給者から離れた場所まで歩き中を開けてみると、牛乳瓶三本に五本のフランスパン、コンビーフ、ソーセージの缶詰がそこそこの数、入っていた。小食という分類をされている自分は、他の獣人よりも分量が少ない。
「肉があるだけマシか……」
 呟くと、袋を閉じて歩き始めた。
 
 とある北国にある山間部。そこを抉る様にして居座る湖の中心に浮かぶ島。町は一つ、それもそんなに大きくない。
 自分が生活している空間について、知っているのはそれだけだった。何故自分たちと、この島に食料を供給に来る人間と外見が違うのか。何故この狭い町に押し込まれ、生活しなければならないのか。そういったことは、どうでもよかった。食欲さえ満たされていれば、それで何も問題はない。
 町を歩いて自宅への岐路についていたルファは、ふと民家の窓に映った自分の姿を見つめる。
 指は四本。あの島に来る人間より一本少ない。第二指と第三指の間は根元がくっついて、あまり動かせない。耳もやけに角ばった形をしていて、頭の上というなんだか変な所についている。
 これらの特徴を持っている動物は、なんとなく知っている。確か……カンガルー、だ。
 人間でいう女のような外見をしていながら、部分部分でなぜかその特徴が混じっている。
「なに突っ立ってんだ」
 話し掛けられ、振り向く。
「あ、イェニー。おはよ。今日はヘンリク一緒じゃないんだ。……にしても、人相悪いね」
 イェニーは二メートルを超える身長を有し、目付きが異様に鋭い。だが、口元にしたマスクがその威容を僅かばかり抑えている。僅かばかり、ではあるが。
「もしかしてあたしの配給、奪いに来たの? やだなあ。イェニー、強いから」
「……お前の蹴り技を相手にするのは骨が折れる。別の奴を狙うから心配するな」
 彼はそれだけ呟くと、路地裏に消えて行った。


 ルファは集合住宅の三階に住んでいたが、階段を数段飛ばしで上がっていくと、すぐに部屋の前に着いた。
 配給は基本的に昼間なので、いつも夜に動いているルファとしては眠くて仕方がなかった。
 扉を開けて、部屋の中をよろよろと歩いて行き、いつも寝る場所にしている布団に辿り着くと、倒れこむようにして眠った。





 この島には仕事という概念はなかった。それぞれがそれぞれ、好きなことをやっていた。知能が特化し人間のように工芸物を作って時間を潰す者もいれば、管理者側から時折持ち込まれる本を読んで知識を深める者もいる。逆に知能がそれ程特化せず戦うことにしか興味が持てない奴らは、町にある闘技場のような場所で相手を探す。狭い管理された場所とはいえ、そこそこ楽しくやっているようだった。
 
 ルファは毎日、意味もなく島をうろついていた。知能も特に退化せず特化せず、戦闘にも興味を持たないルファは、人間が紛れ込んでいやしないかと、期待して歩き回っている。カンガルーという動物は草食らしいが、自分は違った。それだけを食べて過ごすこともできるが、やはり肉が欲しかった。缶詰程度では満足できない。配給に来る人間を見ていると、いつも蹴り殺して食い千切りたくなる。
 イェニーの場合は雑食で何の肉でも食べられるからいいが、彼の真似をして一度他の獣人を殺して口に運んだ時は、不味くてとても喉を通らなかった。それ以来、ルファの憧憬の対象は人間に向けられていた。昔、人肉を食したことのあるという獣人が自慢していたのを耳にしたこともあって、ずっと憧れ続けていた。
 配給に来る彼らを殺せば簡単だが、いつも集団で行動してある程度練度も高い彼らを殺すのは容易でなく、何より破ってはいけない掟の一つだった。彼らを殺すと、配給が止められてしまう為だ。配給は獣人にとって最も重要な食欲を満たす源。この掟を破った町の住人は必ずリンチに合い、惨殺されている。ルファに人肉の旨さを語っていた獣人も、二日後、首から下がないという無残な姿で街角に転がっていた。
 どうして無秩序な町でこの掟だけが徹底されているのか。答えは簡単だった。共食いを防ぐため。以前配給が止められたとき、この町の住人は共食いで飢えを凌いだ。本来草食型のルファは草さえ食べていれば問題ないものの、他の肉食型の獣人はそうはいかない。もちろんルファも狙われた。あの時は、異常に発達した脚力を活かした蹴り技で生き延びた。イェニーにも襲われたことがあるが、マスクの下に隠した鋭い牙に大怪我を負わされつつ、どうにか撃退することに成功した。
 あの状態に戻ることは、いくら獣人とはいえ誰も望んでいない。


 だから、期待しているのだ。人間が迷い込むことを。掟に関わりなく、リスク無くその肉を手に入れることのできる時を。
 柵に囲われたこの島からは容易に脱することはできないが、外からならばどうにか侵入できることを彼女は知っていた。
 だからいつも、彼女は簡単な言葉で綴られている本を片手に、鉄柵の近くの地面に腰を下ろし、島の外に広がる湖の情景を探っていた。人気がなく他の獣人に襲われる可能性も無きにしも非ずだが、特化した耳と脚力で凌げると自負している。今日も朝までここに居ようと思い、ルファは湖面を見つめ直した。






 本を読み終え特に変化も無いので帰宅すると、アパートの階段を上がっている途中で、反対に階段を降りてくる隣人、イーヴァインとばったり会った。
「おはよう」
 彼はルファと目を合わせると人当たりのよい笑みを浮かべた。
「おはようございます」
 ルファも小さく笑顔を作って会釈した。イーヴァインは、二十歳前後のルファよりも相当な年上で、確か六十歳前後だったと記憶している。
 イーヴァインの皮膚全体はどこか緑がかっていて、動きがとても遅い。耳と手、異常な脚力以外人間と共通点ばかりの自分とは違い、彼は見たまま、甲羅がなく背の高い亀だった。腰は曲がっていて、背も、亀として見れば高いとはいえ、ルファの胸辺りまでしかない。
「下までお連れしましょうか?」
 危なっかしい足取りでゆっくりと一段一段降りていくイーヴァインの背に、声を掛ける。緩慢な動作で振り向いた彼は、
「お願いしようかな」
 と、また笑みを浮かべた。


 イーヴァインの手を取り下まで送り届けると、ルファは手を擦りながら、また階段を上り始めた。握られていた四本指の右手が、まだ痛みを発している。彼はああ見えて怪力で、体重も見た目以上にある。一度、背負って下階まで降りようとしたが、自分の筋力では到底背負えはしなかった。
 最上階まで上がると、配給の日の夜に無料で配られている地域広報冊子が自室の扉の前に落ちていたので、拾ってから部屋の中に入った。イーヴァインさんが置いてくれたのだろう。どこの地域の広報冊子かというと、島外にあるという――人間たちが住んでいるのだろうか?――街、トラヴィーダのものだ。
 出る前に布団を広げておいたのですぐにでも潜り込もうと思ったが、トラヴィーダの広報冊子が気になったので、広げてみた。街の子供たちが笑顔で勉強に熱中する姿や、学校の役員へのインタビューなどが書き連ねてあるだけだったが、ルファは顔を綻ばせながら読んだ。
「この肉付きのいい子なんか、おいしそう……」
 伸ばした足を軽くぱたぱたと上下させながら物騒な独り言を呟いた彼女は、ページを繰って、そのページで目を留めた。小学生の子供たちが書いたという作文がそこから数ページに渡り掲載されていた。
 小学校卒業文集・将来の夢。ページタイトルにはそうある。
 しょうらいの……なんて読むんだろう。あとでイーヴァインに聞いてみよう。ルファは思ったが、それは子供の文章を見てすぐに解決した。
『しょう来のゆめ
 ぼくのしょう来のゆめは、この町から出て、人形げきをすることです。このあいだ、この町に来てくれた、おじさんが、とても楽しい、人形げきを見せてくれて、かっこよいと思ったからです。先生は、やめておきなさい、まわりの人に言っては、だめよ、と、こわい顔でしかりましたが、なりたいのだから仕方がありません。』
 そこで、ルファは頭の奥底に於いて鋭い痛みが走ったのを感じた。それから、頭全体に鈍痛が広がる。
 しかし気にするほどではない。放置し、二作目を読む。
『将来の夢
 私の将来の夢は、神官に連れていかれてしまったお姉さんを、神官の手から取り戻すことです。どうしてお母さんも、お兄さんも、悲しい顔をしないんでしょうか。お兄さんは、お姉さんにずっと思いを寄せて過ごして来たのに、いなくなっても少しも悲しそうではありません。だから私が、代わりに方法を考え、神官からお姉さんを取り戻してあげたいです。』
 最初に読んだ乱雑な文章とは違い、知性の感じられる分かりやすくまとまった文章だった。
 ようやくルファは夢という単語を理解することができた。要するに、強い願いのことなのだろう。
「わたしの、しょうらいの、ゆめ……」
 ルファは何気なく、呟いた。
 ……そんなもの、ない。
 そう考えたところで再び、頭痛がした。
 初めは無視していたルファだったが、次第にその痛みは耐え難いものになっていき、先程のようにすぐには収まらなかった。そして遂には頭を抱えて、うずくまる羽目になってしまった。力の限り目を閉じ、ハンマーのようなもので脳内を激しく打ち鳴らし暴れる「何か」を必死に抑える。

「……やめ……て……い、痛い……!」
 あまりの痛みに、その「何か」に対して、情けない声が口からついて出た時、瞼の裏に一つの光景が瞬間的に蘇った。
 教室。壇上に立つ先生。机。一人の女子に視線を注ぐ生徒たち。立って何かを発表しているのは、人間のような姿をした、昔の自分……。
 耳は、その映像に合わせて音を紡ぎ、
『私の将来の夢は、このおかしな街から逃げ出し――』
 数秒で、映像は途絶えた。



 ルファは痛みが徐々に治まっていくのを感じ、ゆっくり息を吐いた。
 それから、どうにか布団に移動した。湖から吹く湿った風に長時間当てられていた服がごわごわして気持ち悪かったので、服を脱いでからうつ伏せに倒れこんだ。






 カンカンカン、と扉をノックする音で、ルファは目覚めた。窓から見えた太陽の傾斜は、それほど変わっていない。一時間程度というところか。
「ちょっと待ってて」
 気安く言いながら、扉を開いた。そこにいたのはヘンリクだった。

「何か、用?」
 部屋に彼を通したルファは、布団に座り、無意味だと分かっていながら正面に座るヘンリクに訊いた。
「いや、特に、用ってわけじゃ……。何か、無いかと思って」
 ヘンリクは、極めて人間的な所作で視線を流しつつ、言う。
「何かって?」
 顔を近づけて訊くと、彼はさらに動揺し、頬を赤くして目を逸らした。
 そこでルファは気づいた。自分が薄着すぎるのかもしれない。この島、ガラクシアに住む女たちは性的に成熟せず過ごしている者が多いそうだ。理由は聞かされていないが、再教育ではそう教えられた。そしてルファも多数派の例外ではなく、友人と恋人、男と女の区別があまり付かない。そのため、つい自分の格好など忘れてしまうのだが、男の中でも人間により近い形を保っているヘンリクのような者は、異種であると認識できる程変貌した姿の女に対しては種族保存の防衛本能からか性欲が働かないものの、ルファのような人間に近い形をしている女に対する性欲は、残っていることがあるらしい。しかし、性行為は配給人抹殺に次ぐガラクシアの禁忌のひとつ。そのため、こちらが気遣ってあげなければならないのだ。大切な友人を失わないためにも。
 ルファは積み上げてある洗濯物の中から太ももの辺りまで隠れる大きなトレーナーを探し出し、下着の上から着直した。フードと呼ばれるものが付いている、配給人からの支給品のひとつだ。
「君は一人で暮らしてるから、襲われて食料奪われないか、とか、やっぱり心配なんだよ」
「大丈夫だってば。どうしてそんなに心配するの?」
 ルファは穏やかな気持ちを以って、呟いた。
 ヘンリクは、自分を気に掛け、何度も訪ねてくれる大事な友人の一人だ。腕っ節は弱いと自称するが情報は早く、ガラクシアの中で何かが起こるとよく教えてくれる。猫のような目に鋭い爪が外見的特徴だが、爪はきちんと短く揃えられていて、どこから観察しても人間にしか見えない。彼は原形を上手く留めることのできた一人だ。
「僕はイェニーと行動しているからいいけど、君は、助けを求めても向かいのイーヴァインさんしか頼れる人がいないじゃないか」
「イェニーを倒したこともあるんだよ。私。そう簡単に、やられないよ。それに、三回ノックする以外の来客は、ちゃんと確認してから開ける。イーヴァインさんも、ヘンリクよりは強いよ」
「それでも心配なんだ。最近は、ドアごとぶち破るバケモノも居るって言うし……」
 笑みを浮かべているルファはその言葉にはすぐに返答せず、しばらく黙って、ヘンリクを見つめた。
「それにさあ、イェニーだってどこまで信用できるか……。腹が減ったら知り合いだろうと誰彼構わず襲うかもしれないし」
「……」
「ど、どうかした? 急に黙って」
「……前から思ってたけど、ヘンリクってやっぱり、私のこと、好きなんでしょ」
 髪を弄りながらヘンリクを見つめた。
「な……そんなわけ……!」
 ルファは余裕のある笑みを浮かべながら、ヘンリクの顔に手を伸ばし、右手で彼の頬に触れた。
「ほら、すぐ赤くなる。何かの本で読んだよ。人間は、異性を意識すると顔が赤くなるって」
 ヘンリクは返答に詰まり、俯いた。
「私も、ヘンリクのことは気に入ってるよ。残念なことに、性欲は欠片も無いけどね」
 彼といると、穏やかな気持ちになるのは確かだった。確かだったが、恋愛感情というものは無いと、はっきりと言える。再教育で禁じられたことは、どうあがこうと、反逆できないのだ。ただ、先程脳内で暴れまわっていた「何か」が開放されれば、分からないとも思える。
「だから、諦め……」
 そう諭すように言い掛け、右手を離そうとすると、突然引き寄せられ、体を強く抱き締められた。
 一瞬、その行動自体に驚きを感じ、焦りを覚えた。頭を抱えるヘンリクの手が、切なくなるほど優しい感触としてあった。

 ……だが、思った通りだ。何も、感じない。ただ、体がくっついているだけだ。高揚も、恥じらいも、満たされる欲も、何もない。
「あ、ごめ、ついっ……」
 ヘンリクが慌てて体を離そうとしたが、ルファは背中に手を回し、彼のことを引き止めた。
「いいよ。別に。ヘンリクが、こうしたいなら、それで……」
 彼は恐らく目を白黒させているのだろう。
 ルファは無理なく笑顔を作り、囁いた。
 
 
 それから少し、悲しくなった。




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