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 それじゃあまた明日、と言って手を振る同級生に向けて小さく手を振り返した後、自らの帰路へとついた少年、エリアス・バーゼルトは、朱と橙に染め上げられた夕空を見上げ、ふう、と一息ついた。面倒な学校での一日を終え、路上市場に寄り道をして商店を一通り冷やかしたあと、ルナルカ湖のほとりで何をするともなく水面を眺めて、日が暮れたら家に帰る。それがこの静かな街に暮らす彼にとっての、日常の愉しみだった。
 とある国の北部、山間に位置する美しい湖畔に、その小さな街はあった。『トラヴィーダ』。それがその街の名前である。
 周囲の他の街からは少し離れた場所にひっそりと物静かに佇むその街は、雪が降るほどではないものの気温はすこぶる低く、冬の寒さは厳しいものだった。そんな街での生活は決して楽ではなかったが、それでも人々はささやかな日々に満足して暮らしていた。
 エリアスは足早に街の大通りを抜け、小さな路地に入る。路地裏の路上市場では、食べ物や日用品、そしてアクセサリーまで、様々な種類の出店が狭い道の両側に並び、夕刻の書き入れ時に一人でも多くの客を呼び込もうと、店主たちは各々の商売に精を出していた。
「ママー、この髪飾り欲しい!」
 色とりどりの石や綺麗な飾り物を広げている屋台の前に駆け寄った幼い娘が、陳列されたアクセサリーを指差して、嬉しそうに言った。小走りにその後を追う母親は苦笑しつつ、優しい声で言う。
「アーニャも来月で十三歳になるんだものね。仕方ないわねえ、大切にしなさいよ」
「うん! ガラクシアに行っても大事に持っていくね!」
 無邪気な笑みをふりまきながらそう言った娘に、母親は眉をひそめ、諭すように言う。
「こらっ、縁起でもないこと言わないの。まだ行くと決まったわけじゃないでしょう」
 エリアスは、どうにも釈然としない面持ちをしてこの母子のやりとりを横目で見ながら、しかし歩みは緩めずに路地を進んでゆく。
――皆はどうして、平気で従っていられるんだろう。
 この街トラヴィーダには、他の地域には見られない独特の風習が一つだけあった。子どもが十三歳の誕生日を迎える日、彼らは《儀式》によって選別され、運の悪いことに獣へと姿を変えてしまった子どもは、街と隣り合う広い湖『ルナルカ』の中心に浮かぶ島へと連れて行かれ、一生をその島に閉じ込められて過ごさなければならない、というものである。老朽化した建造物の廃墟が水上に浮かんでいるかのような外観をしたその不気味な島は、『ガラクシア』と呼ばれた。
 九歳のときに西の都からトラヴィーダに引っ越してきたエリアスは、およそ七年の間ここで不自由なく暮らし、今ではすっかり街の生活に慣れてはいたのだが、しかし今も尚、この風習だけはどうしても受け容れることができなかった。自分の子どもが何の理由もなく連れて行かれて、二度と会えなくなるのである。
――家族は、悲しいに決まってる。
 《儀式》はすべて《神殿》と呼ばれる組織が取り仕切っており、子どもたちが《儀式》によって獣の姿へと変身してしまったその瞬間から、街の住人は決してその姿を見てはいけない、とされていた。そのまま《神殿》に属する兵士に連れられてガラクシア島へと渡り、一生涯そこに閉じ込められるれるのだ。その理不尽な連行に、街の住人は決して抗うことはできない。と言うよりむしろ、住人たちは抵抗するどころか、それを自然なこととして受け容れていた。七歳のときにこのトラヴィーダへと引っ越してきたエリアスには、その習慣化した風習をどうしても理解することができず、彼の心の片隅ではいつも曖昧な形をした疑念がもやもやと渦巻いていた。
 エリアスもまた三年前の誕生日に《神殿》へと召集され、《儀式》によって選別された者の一人である。彼の身体は《儀式》を終えても特に変化は見られず、その日のうちに家へと帰ることが許された。ほとんどの子どもはそうして何事もなく帰ってくるのだが、勿論のこと獣に姿を変えてしまう子どもも少なからずいる。彼の当時のクラスメートからも六人の子どもが獣化してしまい、彼らはその十三歳の誕生日に《神殿》へと出かけたきり、二度と家へと帰してはもらえなかった。

 市場の並ぶ薄暗い路地を抜けると、そこには静謐な雰囲気を漂わせる大きな湖が広がっていた。ルナルカ湖である。そしてその湖のほぼ中心には、獣人となった子どもたちが連れて行かれる島・ガラクシアが浮かんでいた。獣となった子どもたちは保護され、あの島で暮らしているのだと街の人々は言うが、あの廃墟のような島で人が生活するという想像がつかないからだろうか、エリアスにはどうしても現実味が湧かなかった。幾人かの同級生がある日を境に街からいなくなった、ただその事実だけが、ぽっかりと空いた穴を埋めるようにして確かに浮かんでいた。
 ルナルカ湖を囲ようにして造られた小路の上をとりとめもなく歩いていたエリアスは、一人の女性が枯れ草の上に座って、ガラクシア島のほうをじっと眺めているのを見つけた。長い髪の毛を後ろで一つに束ねて皺だらけのコートを羽織ったその女性は、左手に鉛筆を持ち、膝の上のスケッチブックに風景の素描をしていた。
「こんにちは、イザベルさん」
 エリアスが後ろから声をかけると、その女性は彼のほうを振り返り、答える。
「君だったかエリアスくん。調子はどうだい?」
「まあ……いつも通りですよ」
「ははは、そうかそうか。相変わらず冴えないねえ君は」
「余計なお世話です」
「……むぅ。そうやってさらりと流してしまう辺りも相変わらずか」
 イザベルはそう言って肩をすくめてみせた後、手元のスケッチブックに視線を戻し、素描を再開した。エリアスは彼女の背後に立って身を屈め、スケッチブックを覗き込みながら言う。
「またここで風景画、描いてるんですね」
 彼がこのルナルカ湖を訪れたとき、彼女はいつもこうしてルナルカ湖のほとりで鉛筆を片手に風景画を描いていた。エリアスのほうも、毎日とはいかないまでも放課後にぶらりとルナルカ湖を訪れることは多かったので、二人は昔から頻繁に言葉を交わしていた。
「破滅と構築、崩壊と秩序。それらすべてを幻想のベールを纏って佇むこのルナルカとガラクシアの姿は、他の何ものにも代えがたい美を有している。君もそう感じるからこそこうして足繁く通っているのだろう、少年?」
 恍惚とした面持ちで言葉を紡いでゆくイザベルに、エリアスは苦笑しつつ応える。
「その感覚は僕にはちょっとよく分からないです……そうじゃなくて、いつもこの場所でしか描いてないですよね。ルナルカは広いし、他にいい眺めの場所は沢山あるはずなのに」
「なあに、ここからの眺めが一番美しい、そう思うだけさ。君がどうしてもこの場所を独占したい、と言うのなら譲ってあげないこともないが?」
 そう言ってぱたん、とスケッチブックを閉じるイザベルを見て、エリアスは慌てて言う。
「いえいえ、他をあたりますよ。ご心配なく」
「ふむ、そうかね。まあ君には君だけの、特別な場所があるのだろう」
「そうですね……そんなところです」
 彼女の言う通り、彼には彼の、いつもの場所があるのだった。いつも変なところで勘のいい人だなあ、とエリアスはぼんやりと考えながら、彼女に別れを告げると、再び小路を歩き始めた。
 それから少しだけ歩くと、少し薄暗く奥まった場所に着いた。そこに作られた小さな石造りの階段から湖岸へと降りることができるその場所は、湖周辺の遊歩道の中では比較的薄暗く、訪れる者に少し違った空気を感じさせるのだった。ここまで来れば街の喧噪もより遠いものになり、辺りは風の音と木々のざわめき、そして湖に住む水鳥たちの鳴き声だけとなる。心を落ち着けるには最適なその場所で、エリアスは石段の半ば辺りに腰を下ろし、肩から掛けていた鞄を枕にして寝転がった。視界はぼんやりとした曇り空で満たされ、左端のほうには灰色のガラクシア島が見えた。
(特別な場所、か……)
 ふと、仲良しだった同級生、ラウラの姿が浮かんだ。九年前、エリアス含むバーゼルト一家が国の西方に位置する都からこの静かなトラヴィーダの街へと移り住んできた直後、見知らぬ土地で一人も知り合いのいない彼と一番初めに話をしたのが、彼らの新居から道を挟んで斜め前に暮らしていた女の子のラウラ・メイヤーだった。穏やかで優しい反面引っ込み思案なところのある彼女は、新しく引っ越してきた名前も知らない男の子にすすんで話しかけるような性格ではなかったのだが、彼女の家族たちが引っ越しの手伝いを買って出た折に、ラウラも一緒に手伝いをしてくれたのである。彼女は人見知りこそしながらも一生懸命に働き、埃だらけだった借家も数時間後には見違えるように綺麗になったのをエリアスは今でも覚えている。彼女のお陰で学校にもすぐに馴染むことが出来、毎日というわけではなかったが家を出る時間が重なれば一緒に登校もしていた。



 晴れた空から降り注ぐ光が湖面に反射して眩しい輝きを放つ昼のルナルカ湖に、素朴で優しい笛の音色が響く。湖岸には一人の幼い娘が、熱心に土笛を吹く姿があった。そのたどたどしい演奏をじっと座って聴く者が一人。その娘と同じくらいの年齢の少年である。人通りの少ないこの場所で、湖と、木々と、風と一緒に奏でられるその優しい音色を、水辺で遊ぶ鳥たちとエリアスだけが、じっと時間を忘れて聴き入っていた。
 やがて娘は、曲の結びを示す最後の音を丁寧に吹ききると、その小さな唇を唄口からゆっくりと離した。同時にパチパチ、と小さな拍手が鳴る。
「また上手になったね、ラウラ」
「そ、そんなことないよ……」
 そう言って頬を紅潮させた娘は、その土笛を丁寧にハンカチで包むと、ワンピースのポケットにしまった。いつもこの湖畔でこっそりと練習していたのを、音に誘われるようにして偶然やってきたエリアスに見つかったのがひと月ほど前のことだった。予想外の聴衆に慌てふためいたラウラだったが、彼に「また今度ここに来るときは誘ってよ」と言われ、律儀にもその都度声をかけるようにしている。彼と一緒に来るようになってこれで三回目だった。
「いつも飽きもせずに聴いてくれて、ありがとう」
「飽きなんてしないよ。それに」
 エリアスはそう言って、湖のほうへと視線を移す。遠方には、薄くもやのかかった島が、幻のようにぼんやりと浮かんでいた。
「ここでこうしてると、何だか心が落ち着くんだ」
「私も。ずっとこうしていたいくらい」
 ラウラがそう言ったのを最後に、二人の間には心地よい沈黙が降り、辺りを風音と水音、そして木々が擦れ合う音で満たされていった。彼らと同じ年頃の別の子どもたちは遊びたい盛りで、じっとしている時間があれば外で走り回って遊びたがるものである。しかしエリアスは昔からじっとして何か別のことをぼんやりと考えるのが好きだった。別段無口なわけでも内向的なわけでもないのだが、時折心を休めたくなることがあるのだ。またラウラのほうも元来大人しい娘だった為、こうしているのは嫌いではなかったし、この場所でエリアスと一緒にいることで、なにか普段の自分と違った自分になれるような気がしていた。
 まるで時間が止まってしまったかのように感じられるほど長い沈黙を続けていた二人に、街の時計台が鐘を鳴らして時の流れを告げた。ぼんやりと景色を眺めて心を休める二人はいつも、この音で目を醒まし、そして現実に立ち戻るのだった。
 娘はふと思い出したように、言う。
「エリアス、今日はみんなとホッケーの約束してる日じゃなかったの……?」
 その言葉を聞いたエリアスは初め、何を言っているのか分からない、といった具合にぽかんと口をあけていたが、
「……あああ! 忘れてた!」
 やがて弾かれたように立ち上がった。彼は街の子どもたちと一緒にアイスホッケーで遊ぶのが日課であり、今日もその約束をしていたのだった。
「ごめん、今日はもう帰らなくちゃ!」
「ふふふ。またね、エリアス」
 エリアスは街のほうへ向かって一目散に走っていった。笑いながら見送るラウラは、彼の姿が並木の向こうへと出て見えなくなってしまうまで、その背中を名残惜しげにずっと見つめていた。

 その一年後、十三歳の誕生日を迎えたその娘は、二度とこの場所に来ることはできなくなってしまう。
 永遠を感じながら寄り添う二人を引き裂くのはいつも、街から零れる淡々とした呼び声だった。



「んん……」
 いつの間にか眠ってしまっていたエリアスは周囲の肌寒さに目を覚ますと、慌てて周囲を見回した。彼がここに来たときから結構な時間が経ったようで、数刻前まで黄昏時だったと思われる空は不思議な紫色をしており、街のほうでは温かな灯の明かりが控え目に、ぼんやりと夜空を照らしている。エリアスはふと、つい先程まで見ていた夢が、目を醒ました今でも鮮明に脳裏に残っていることに気が付いた。
(あれは、僕らが十二歳の頃の記憶だ)
 斜向かいに住んでいるメイヤー家の一番上の娘、ラウラ・メイヤー。二年前に《儀式》の選別を受けて獣へと姿を変えてしまった彼女はそのままガラクシアへと連れて行かれ、現在は島で他の獣たちと静かに暮らしている、と街はずれの教会のシスターであるカテリーネさんに聞かされた。
 暮らしている、と言われても二度と逢うことは叶わない。その報せはエリアスにとって、長年親しくしている友人の死を聞かされるのと同等だった。深い喪失感が彼を満たし、そしてそのやり場のない茫漠とした想いはやがて、彼女がいなくなったことを当然のこととして受け容れている周囲の大人たちに対する疑念となり、それは憤りへと変わり、そして最後には諦めとなった。ある日を境に彼の生活からぽっかりと抜け落ちてしまったラウラの存在が頭から離れず、虚ろな日々をただ送っていたエリアスは、それまで毎日のように友達を誘って遊んでいたアイスホッケーにも全く楽しみを見い出すことができなくなり、きれいさっぱりとやめてしまった。
 当然のことながら、彼の記憶の中に残っている彼女の姿は、淡々と流れる時に削られ、次第に薄れてゆく。しかしそれと相反するように芽吹き始めた、一つの想いがあった。
(あの日の僕は、この場所でぼんやりと湖を眺めるのが好きだった。けれど)
 その想いもまた時間によって削られてゆく。しかし失せてしまうことは決してなく、その想いは今現在の彼の心の片隅に確かに浮かんでいた。
(それだけじゃ、なかったはずなんだ)
 いつも隣に座っていた、彼女の存在。それがなくなった今、こうしてこの場所に座っていても、幼き日々に感じていたあの何とも言い難い感覚を再び得ることは、決してないのだ。そしてその感覚の正体こそ、彼の人間としての成長の証であり、それは獣となってしまったガラクシアの住人たちには芽生えることはないと言われている。
(……ん?)
 エリアスはふと、すぐ目の前の湖岸に一艘の小さな舟が浮かんでいるのを見つけた。ここに来たときにはこんなものは浮かんでいなかった、ということは即ち、眠っている間に流れてきたのだろう。ゆらゆらと揺蕩う水面に同調するように、その小舟もまたゆらゆらと上下していた。
 大人たちは言う。「私たちを導いてくださる《神殿》に、逆らってはいけません」と。
 大人たちは言う。「あなたは人間なのだから、ガラクシアに入ってはいけません」と。
 舟を造ることは《神殿》の掲げるお触れによって禁じられている。ガラクシアとの行き来が可能になれば、獣人たちが島から溢れ出して街の住人に被害を与えてしまう危険性がある為である。
 そして彼の目の前には、どこから流れ着いたのだろう、木彫りの小舟が浮かんでいた。流れゆく時間に曝され、薄れていきながらも、決して消えることのないラウラの姿が、彼の脳裏を瞬くように過切る。遠い記憶に刻まれた、あの優しい土笛の音色が聴こえた気がした。

 決意を固めるのに、そう時間はかからなかった。大急ぎで家に戻ったエリアスは、家中の道具を手当たり次第に集め、カバン一杯に詰めていった。中には明らかに必要のない荷物もあったが、何かもやもやとした、ある種の予感のようなものにかき立てられて夢中になっていた彼にとっては、必要か不必要かということは全く問題ではなかった。たちまち一杯になったカバンを背負うと、最後に壁際に立てかけてあったアイスホッケーのスティックを左手に取った。皆と一緒に遊んでいたあの頃の記憶と共に、いつも勝負を目の前にして感じていた緊張感が沸き上がり、彼に勇気を与えてくれた。

(あの舟があれば、ガラクシアにだって行ける)
 どこからともなく現れた光が、消えてしまわないうちに。
(絶対に、ラウラを連れ戻してみせる)
 熱く滾るこの決意が、揺らいでしまわないうちに。
(そしてもう一度、一緒にあの場所に行くんだ)
 胸の奥底に秘め続けたその想いを、忘れてしまわないうちに。

 部屋のドアノブに手をかけたエリアスは、はっと何かを思い出したように踵を返すと、引き出しの奥から小さな巾着袋を引っ張り出し、暫し視線を手許に落とした。彼がそれを握る手に僅かな力を込めると、素朴な麻の布で織られた袋の向こうからひんやりとした、しかしどこか温かい感触が還される。その小さな重みは、ラウラが十三歳の誕生日になる前日、《神殿》へと出かけていく直前に彼に預けてくれた土笛のそれだった。大切にしまってあった土笛は今も変わらず、彼女のぬくもりを宿していた。
 エリアスはその巾着袋を懐にしまうと、今度こそドアノブを回し、そして勢いよく外へと飛び出した。北方の街・トラヴィーダの冷たい夜風に小さく身震いをしたエリアスは、風の吹いてきた方角――ルナルカ湖、そしてガラクシア島のある、方角――を見遣ると、やがてそちらへ向かって駈け出した。夜の空気はとても厳かで、そしてどこか冷然とした表情をしていた。
 この小さな街、トラヴィーダに暮らす一人の少年は今、静かに『戦い』を始めた。




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