chk_1

 静まり返った真夜中のルナルカ湖の漣が、松明の炎をゆらゆらと映し出していた。
「……誰か、そこにいるのか?」
 夜警の男が岩陰に向かって問いかける。入ってはいけないはずの湖から、不自然な水音が聞こえたのを確かめに来たのだった。だが岩場には彼の呼びかけに答える声はない。
 男は同僚と目を合わせると、気配の正体を確かめるために岩の上へ慎重に身を滑らせた。
「ちょっと待ってください」
 そのとき、突然小さな声が聞こえてきた。次いで子どもの頭が大きな岩陰から現れ、
「あー、すみませんね。す、すぐ出ますから」
 と、やや怯えた様子で言った。中性的な声だったが、暗がりに覗くその顔は少女のものだった。
「どこの子だ。こんな時間にこんなところで何をやってるんだ」
「すいません、ちょっと……まぁその……」
 少女は出て行こうとするのを躊躇うように岩陰に半身を隠し、頭から濡れた顔だけを覗かせている。下半身は水面の下に浸かっているようだった。
「何だ……? とにかく出なさい、湖から」
 岩の上の男は少女に対する警戒を強めつつ、岩の上を半歩進んで少女へと手を差し伸べた。
「あぁいや、俺、大丈夫ですから」
 しかし少女は男の視界から逃れるように岩陰に身を引く。
「大丈夫も何も……。とにかく、湖に入ってはいけないんだ、すぐ出なさい」
「分かってます。一人で出られますから」
 そう言いながらも少女は胸元まで湖面に浸かってしまう。
 夜警の男は中々上がってこない少女に軽い苛立ちの視線を向け、手を借りようと背後にいる同僚の方を振り向いた。
 そのとき、突然大きな水音がしたかと思うと夜警の男は首の根を猛烈な力で引っ張られ、湖から一瞬で跳び上がった少女の小さな体に背から羽交い絞めにされた。
「うわっ!?」
「動かないでください!」
 抵抗を試みた男の首筋に小型ナイフの刃先が突きつけられる。すぐ耳元で、少女のものとは思えない獰猛な声が怒鳴った。
「抵抗はやめてください! 大人しく俺を逃がして……」
 訳も分からず下手に動くに動けなくなった男はそのとき、自分の動きを縛る少女の左腕の感触が奇妙にごわごわしていることに気づいた。まるで人間の腕ではない何かによって強く締め付けられているような感触だった。
「ひ、ひゃぁぁぁっ!!」
 同僚の男が悲鳴を上げ、即座に懐から警笛を取り出し力の限り吹き鳴らした。
「あーもう……もう少しだったのに……!」
 耳元で少女が低い声で毒づいた。身動きの取れない夜警の男はそこで何かを察し、
「あ……お前……!」
 その表情が凍りついた。
 警笛を聞きつけ、早くも他の夜警たちが次々と岩場に駆けつけてきた。灯りを持った者が人質を抱えた少女を照らし出し、その場にいた全ての人間が息を飲んだ。
 男の喉にナイフを突きつけたままその場に硬直している少女の左腕は、人間のものではなかった。それは灰色と茶色の入り混じった羽根に覆われた、艶のない濡れた翼だった。
 誰かがその少女の姿を見て叫ぶ。
「じ、獣人だ! 獣人が逃げてきたぞ!」

 そっと水面に顔を出し、鼻で息継ぎをする。恐る恐る辺りを見回してみると、すぐそこに石が詰まれた湖岸が見える。湖面を照らす松明がいくつか並べられているが、人の姿は見えない。岸辺には夜警がいると思っていたのに、今は丁度交代の時間なのだろうか。
 何にせよ機だ。俺は心の中で、よしっ、と拳を握り締めた。無意識に水面下で水をかく前足の先に力を入れたが、途端に体のバランスを崩して顔が水没し鼻から少し水を吸う。何やってんだ。まだ気を抜くには早いぞ。
 湖の中からでは岸辺の詳しい状況はよく分からない。できるだけ松明などの明かりから離れ、上陸できそうな岸を見つけてそっと地上へ這い上がる。体中の長い毛が肌に張り付いて気持ち悪い。身を振って湖の水を振り払った。茂みを揺らして思ったより音を立ててしまい、慌てて身を強張らせる。辺りに人の気配はない。いや、もし誰か近くにいたとしても別に不審には思われないはずだ。湖から一匹の犬が上がってきただけなのだから
 それにしても久しぶりの地面だ。島を出てから一時間ぶりか。いや、この地面はもう島の地面じゃない。そういう意味では一年半ぶりだ。結構な距離を泳いだ分全身が疲れ切っていたが、まだ足を止めるわけには行かない。
 似たような三階建ての家屋が並ぶ住宅地から、俺はそっと街中へと入っていった。直線の少ない九十九折の通りに差し掛かって、ようやく本当に帰ってきたのだという実感が沸いてきた。この街は湖畔の傾斜面に作られているから、あちこちに坂がある。道も入り組んでいて、子供の頃はよく迷ったものだ。
 静まり返った夜の通りを抜け、四方を家々に囲まれた小さな公園へと俺はやってきた。あの懐かしい一本杉が変らない姿で俺を迎えてくれた。
 ここが待ち合わせ場所ということになっていた。一緒に島を脱出した仲間、エルヴィンとの。片腕が翼であることを除いては人間そのものという中途半端な変身を遂げた獣人だが、翼さえ隠せば人間になりすまして街へ入ることもできるはずだった。
 しかし奴の姿は公園には無い。街の人間に見つかったのでは、という不安もなくはない。だが俺がこうして潜入に成功しているんだ。あいつもきっと大丈夫だろう。今はあいつの幸運を信じて、ここで待つことにしよう。
 俺は一本杉の根元に座り込んだ。濡れた体に秋の夜風が当たって寒い。だが懐かしい寒さだ。昔遊び慣れたこの公園の土の感触も俺の心を落ち着かせてくれる。

 老婆は本から目を上げ、眼鏡を外した。目頭に手を当てて静かにため息をつく。壁にかかった時計は十時を回っていた。本を置き、老婆は自分の乗る車椅子を自分で動かして窓際へ行った。窓を少しだけ開けて夜気に当たる。ふと下方へ視線をやると、家の隣にある小さな公園の入り口に黒い影が動くのが見えた。それは毛の長い野良犬のようだった。犬は疲れた足取りで公園の中心の杉まで歩くと、その根元に座り込んだ。
 そのとき、階下で家の玄関を叩く大きな音がした。扉の音の後に何やら切羽詰った様子の会話が聞こえてきた。
 老婆は窓を閉め、部屋の外へ出た。どたどたと階段を駆け上がってくる音が聞こえる。
「バジリウス、こんな遅くにどうしたのですか」
 階下から現れた中年の男に彼女はそう声をかけた。大きな音を立てる彼を咎めるような口調だった。
「ああ、緊急の召集らしいんだ。今からちょっと出てくるよ」
「何事ですか」
 落ち着いて尋ねる老婆に対し、バジリウスは首をかしげる。
「分からない。理由は何も聞かされなかったんだけど、湖の見回りらしい」
「そうですか。けれど、あまり大きな音を立てないように。フリッツが起きて──」
 老婆がそう言いかけたとき、奥の扉が開いて十二、三歳ほどの少年が姿を覗かせた。
「……何? 何かあったの? お父さん」
「何でもないよ。フリッツは明日も学校だろ、もう寝なきゃ、な?」
 バジリウスはそう言い、眠い目をこするフリッツの背を押して自室へと戻らせた。
 バジリウスが騒々しく玄関から出て行くと、老婆は車椅子を動かして部屋に戻った。窓際から外の景色を覗くと、先ほどの犬はまだ公園の木の下に横になっていた。その公園の前を、夜警の格好をした男が数人明かりを手に走り過ぎていった。
 少し視線を上げて家々の屋根の向こうを見る。凹凸の多い街並みの向こうに湖畔から急傾斜をなす小さな岩山が聳え立っている。その更に向こう側、山の中腹には街のどの建物よりも大きい建造物があった。
 老婆は窓のカーテンを閉め、再び本を手に取ると読書を再開した。

 神殿の兵役が公園の前を通り過ぎるが、俺には目もくれなかった。当たり前だ、この犬の姿で怪しまれるわけがない。夜警も含めて街の人間は獣人の姿を見たことが無いはずだ。だから、こんな見てくれの獣人もいるのだということを知らない。
 恐らく、皆俺の姿を見ても野良犬だとしか思わないだろう。口に出して言えば分かってくれるかもしれないが、それはできない。言葉を喋る犬はこの世界にいてはならない。俺がいるべきなのはどうあってもあの島なのだ。
 どうだ、生きて島から帰ってきたぞと、胸を張って自慢してやりたかったのに。

 その夜、俺はあの奇妙な晩の夢を見た。俺は一人、十三歳の誕生日を迎えた小さな子供の姿で広い部屋の中心に縮こまっている。
 部屋の奥には一人の女がおり、変に仰々しい台座に座って俺をじっと見ている。クラーシェ様、街と島を管理する神殿の中心人物だ。
 儀式の間に入って畏まる俺に対し、クラーシェは徐に妙なことを語りだした。
「……お前は……どうだろうな……。……私の未来に……必要か……? ……それとも……余分か……?」
 クラーシェは、ふぅむ、と息をつき、それからしばらく黙り込んだ後また意味不明な発言を繰り返す。俺は奇妙な威圧感に冷や汗を流しながらも黙って耳を傾けた。
 神殿を統べているのは若い女性で、儀式の夜に一度だけ対面することになるというのは聞いていた。もっと浮世離れした、眩しい感じのする人だと思っていたのだが、俺の想像と実際の彼女は随分と隔たりがあった。外見はどこにでもいそうな三十前後の女性だったのだが、その顔が不思議と印象的だった。
 クラーシェは少しだけ眉を寄せ、やや上目づかいに俺を見ていた。その表情は俺のことを深く観察しているようでもあったし、「こいつはおかしい、異常者だ」と自分で自分に主張しているようにも見えた。曖昧な印象しか残っていない。ただ何を考えているのか分からない不気味な人だったというのは確かだ。
「お前は……」
 やがてクラーシェは不意に、
「……よくないな。邪魔だ……」
 と小声で呟いた。後になって考えると、それは丁度時刻が夜中の十二時を回った頃だったのだろう。
 直後に俺の体に異変が起きた。体中の筋肉という筋肉が引きつり、全身に激痛が走った。関節が外れるような嫌な音がして、それから先は気を失っていたので覚えていない。とにかく、目が覚めたとき俺は暗い地下の牢獄みたいな部屋にいて、そしてこんな毛の長い犬の姿をしていた。

「おーい、生きてるかー」
 すぐ近くで子供の声がして、俺ははっと驚き目を覚ました。顔を持ち上げて視界を覆う自分の毛を振り払う。すぐそこに、興味深そうに俺の目を覗き込む男の子の顔があった。
「おっ、生きてる! おばあちゃーん! こいつ生きてたー」
 こいつとは随分と酷い呼び方だ。俺は鼻を鳴らしてさりげなく憤慨を示した。この子供は見たところまだ十三歳になっていないだろう。人の事情も知らないで無邪気なものだ。
 いつの間にか朝になっていた。通りを人が疎らに行きかっているのが見える。疲れていたとはいえ寝すぎてしまったかもしれない。あたりを簡単に確認してみるが、公園にエルヴィンの姿はなかった。不安が頭を過ぎる。
 男の子は背後へ向かって手招きをしている。見ると、公園の入り口から日傘を差した老婆が車椅子を動かして近づいてくる。
「フリッツ、あまり近づくんじゃありません。手を噛まれるかもしれませんよ」
 老婆は厳格な声でそう男の子を諭した。老婆といっても車椅子に乗っているために年をとって見えただけなのかもしれない。実際は初老といったところだ。車椅子に腰掛けた彼女の背筋はしゃんと伸びていて、何だか普通に立って歩けそうにも見える。俺が昔街にいた頃も、車椅子を動かす彼女の姿を通りで目にしたことがあるような気がする。
「ねぇ、これさ、うちで飼ってもいいかな。野良犬みたいだし」
 老婆にフリッツと呼ばれた少年は俺を指差してとんでもないことを言い出した。冗談じゃないと思って立ち上がろうとした俺の頭が、何かによってぐっと上から押さえつけられる。
「そうですね……」
 値踏みするように呟くと、老婆は顔色一つ変えずにゆっくりと俺の頭から自分の靴をどかした。
 俺は怒りと悔しさで身を震わせていたが、下手に彼女たちを傷つけるわけには行かない。あくまでもそこらへんにいる野良犬として振舞わなければならないのだ。少なくともエルヴィンと再会するまでは。
 と、老婆が急に身を乗り出したかと思うと、俺の口を手でがっしりと掴み何かを俺の首に巻きつけた。慌てて身を捩るが老婆の力は思ったより強くて俺の口を離さない。口が解放されてすぐ俺は理解した。首輪を巻かれたのだ。見ると俺の首元から伸びるロープを老婆がしっかりと握っている。
「いいですかフリッツ。お父さんが反対したら、すぐに捨てますからね。それと、飼うと決めたからにはちゃんと世話をすること」
 ちょっと待て、勝手に決めるな。
「よしっ! ありがとおばあちゃん! お前、これからよろしくなー」
 フリッツはロープを引っ張って強引に俺の顔を自分の顔に向けた。屈託無く笑う少年の顔がたまらなく憎たらしく見えた。あまりに頭に来たので、我慢できず一吼えして二人を威嚇する。
「わふぅ」
 フリッツは俺の鳴き声に一顧だにせず、
「ねぇ、名前何にしよっか?」
 とはしゃいでいる。老婆は首を振ってそれに答える。
「犬に名前なんていりません。犬で十分でしょう」
「えーでも……」
「犬に名前なんてもったいないでしょう?」
 老婆は酷な言葉を繰り返した。もともと名前にこだわりがあったわけでもないらしく、フリッツは素直に頷いて彼女に従った。
「それでは」
 ロープが引かれて首が痛い。仕方なく俺は立ち上がった。なんて屈辱だ。ガラクシアに入った最初の晩よりも酷いかもしれない。島でこの世の地獄は粗方見回ったと思ったのだが、こんな苦痛が残っていたなんて。
 老婆が俺の顔を覗き込み、静かな声で言う。
「マルガレッタ・メイヤーと申します。これから家族の一員として、お互い助け合いましょう。よろしくお願いしますね、犬さん」

 日が昇った後も眠り続けていたバジリウスは、朝の散歩から彼の母親が返ってきた扉の音でようやく目を覚ました。着替えを済ませて階段を下りると、テーブルの上には既に朝食が並べられていた。瓶に入ったままの牛乳、スライスされた大きなフランスパン、その後ろにコンビーフやソーセージが遠慮がちに並んでいる。食事は二人分用意してあり、その片方の前に車椅子に乗ったマルガレッタがおり、朝食を食べていた。
「……また肉かい?」
「挨拶が先ですよ、バジリウス。おはようございます。昨日はお疲れ様でした」
「ああ、ごめん、寝過ごしたみたいで」
 マルガレッタは首を振り、バジリウスに椅子を勧めた。
「早く食べてしまってください。フリッツはもう食べて学校に行きました」
 バジリウスは、そうかい、とマルガレッタの向かいにゆっくりと椅子に腰を下ろした。パンを一口かじってから、ぼそっと呟く。
「……あの子も、もうすぐ卒業か」
「そうですね」
 マルガレッタは短く返すと、それきり言葉を絶って黙々と朝食をとり続けた。
 バジリウスは煮え切らない顔でパンをかじり、そこで初めて目の前の母親の隣に、毛の長い大型犬が腰を下ろしているのに気づいた。
「ど、どうしたんだ? 拾ってきたのか? それ」
 それ、と犬にフォークを向けたところで、犬がげふんと鼻を鳴らした。目の前の床に置かれた皿の上に盛られた残り物の餌を、口をつけずじっと見ている。マルガレッタは、あぁ、これですか、と事も無げに答える。
「公園で寝ていました。野良犬のようなのでうちで飼うことにしたんです。ほら、前から言っていたでしょう。力のある犬でも近くにいたらどんなに便利かって。きちんとしつければ車椅子を牽かせられるでしょう。私は色々と体が不自由ですから助かります。ほら、新聞を取って来なさい」
 犬が抗議するようにまた鼻を鳴らしたが、マルガレッタがその背を押すとのそりと立ち上がって廊下へ姿を消し、少ししてから口に新聞をくわえて戻ってきた。マルガレッタの椅子の前に放り出した。必要以上に強く加えていたらしく、新聞は唾液まみれの上に酷く拉げていた。マルガレッタは無言で餌の皿を取り上げる。犬は一瞬、げ、といった目で皿を追ったが、やがて諦めて床に臥せった。
「ところで、昨晩は何があったのですか? あんなに遅くに呼び出されるなんて」
 何気なくマルガレッタは尋ねた。バジリウスは釈然としない様子で答える。
「詳しくは教えられていないんだ。ただ夜警の間で噂があって」
「何です?」
「神殿に賊が侵入したとか何とか……本当かどうか分からないけど」
 マルガレッタはしばらくの間黙って手を止めていたが、やがて
「どうでしょうね」
 とだけ呟くと、また食事を再開した。

 どことなく暗澹とした雰囲気が漂っていないでもないこのトラヴィーダでも、昼間はやはりそれなりに活気がある。子どもが五分の一の確率で連れ去られることを除いてはそれなりに豊かな街だからだ。誰もが笑顔で通り過ぎる、とまでは行かないが、とりあえずこの街の住人は十分な食料にありつけてるわけだし、今日明日の自分の身を案じながら暮らしてるわけでもないだろう。至って平和だ。俺が戻ってきたかった世界だ。
「何をよそ見してるんですか。車椅子が横に揺れてかないませんよ」
 背後で老婆がぴしゃりと言った。
 今こうして俺はマルガレッタの車椅子を牽きながら通りを歩いているのだが、これは戻ってきたと言えるのだろうか。言えないよな。老婆に対する憤りより疲労と空腹のほうが頭を占めていた。一体、俺は何でこんなことをやっているんだ?
 この街は坂が多い。というよりも、あらゆる場所が多かれ少なかれ傾いているのではと感じる。昔はそれほど気にならなかったのだが、この体になって地面が顔に近づき、更に今、気を抜くと勝手に動き出してしまう車椅子を牽いて歩く中で俺は改めてそのことを思い知った。もう十月だというのに、真夏の日のように俺の息は上がっている。
 そんなことを気にかける様子も無くマルガレッタは
「次の角を右に曲がってください。……ああ、下り坂でしたか。真っ直ぐ行きましょう。もっと高いところへ」
 と指示を出してくる。右に曲がりかけていた俺は、あまり調子に乗るなよ婆さんと視線に感情を込めて振り返るが、マルガレッタは背もたれにもたれかかって遠くの空を見ていた。俺は奥歯を食いしばって針路を元に戻す。
 背後から、思い出したような声でマルガレッタが言う。
「それにしても、あなたは私の言葉がきちんと理解できているのですね。素晴らしく賢い野良犬で私としても大助かりです。こんなに頭のいい犬は見たことがありません」
 どきりとして思わず足が止まった。そうだ、何で気づかなかったんだ。普通の犬ならここまで完璧に指示を聞いたりなんて出来ないだろうに。こんなことを見落とすなんて、街に戻れたことで油断していたのか、俺は。
 恐る恐る背後を振り返ってみる。彼女は先ほどと同じ姿勢で空を見ていた。
「どうしたんですか? 早くお行きなさい」
 俺に一瞥もくれず彼女はそう言った。
 俺はまた歩き出す。マルガレッタは俺の正体に感づくまではいっていないようだ。だがこれからはできるだけ犬の知能を意識しながら生活するようにしよう。全く、あの島を脱出できたのに結局枷はついて回っている。
 少し行くと家並みが途切れ途切れになり、道の端に上へと続く狭い階段が現れた。彼女はその前で止まれと言う。
「この上に行きたいのですが、斜面に沿う道は随分と大回りなのですよ。この階段が近道なので」
 彼女は言いながら、なんと自分の足で普通に車椅子から立ち上がった。軽く服のしわを伸ばすと、ぽかんとする俺のほうへ向き直り、
「私はここから上がるので、あなた、向こうの道から上まで車椅子を牽いてきてもらえませんか。道は分かるでしょう、街の野良犬なんですから」
 と、どこまでも自分勝手なことを言ってすたすたと階段を上っていってしまった。
 彼女の姿が見えなくなったところで俺の頭に沸々と怒りの念が沸いてくる。階段が上れるなら最初から自分で歩け、と叫びたくなった。俺は馬車の馬か。見ろこの体、大して力のない犬だぞ? というか人間だ、元は。
 駄目だ、もう我慢できない。こんな扱いをずっと受け続けるなんて、耐えられるはずがない。大体、道を回って来いだなんて元々犬に出来るわけが無いじゃないか。ここで逃げ出しても何も不自然なところはない。というかそのほうが自然だろう。俺の前足じゃ器用なことは出来ないが、頭を使って頑張れば首輪だって外せるはずだ。
 エルヴィンのことも気がかりだ。一晩明けても現れなかったんだから、考えたくはないが神殿の連中に捕まってしまったかもしれない。俺はその可能性を重く受け止めるべきだ。
 俺は回れ右をして、空の車椅子を牽きながら歩き出した。車椅子が緩やかに坂を滑り出し、俺を追い抜いた。と、ふと見た階段の上に、見覚えのある人影を見つけて俺は一瞬気を抜いた。首が紐に引っ張られて転びそうになり、思わず踏ん張る。まさか、あの人か?

 それほど長くない階段を上りきったマルガレッタは、少し湖側へ迫り出した道端に立って無言で景色を眺めていた。下に置いてきた犬はまだ姿を見せないが、彼女は特にそのことを気にかけている様子は無かった。彼女が立つそこからは湖畔の曲線に合わせて立ち並ぶ街の家が殆ど見渡せる。
「あっ……あの、こんにちはっ」
 突然後ろから声をかけられ、マルガレッタは振り返る。修道服を纏う一人のシスターが駆け足で近づいて来た。あまり着慣れていないのか、どことなく疲労感の滲む彼女の顔に皺一つない修道服が浮いているように見える。
「あら、こんにちは、カテリーネさん。お久しぶりですね」
「え、ええ。ご無沙汰です。散歩ですか?」
 マルガレッタはまだ二十五にも満たないであろう若い修道女にやわらかく微笑みかけた。
「ええ。……ややお疲れのようですが、お仕事のほうはどうですか?」
「はい、まぁ、おかげさまで……はい」
 カテリーネは語尾を濁して視線を泳がせる。
「あっ、今日はその、実は人探しを頼まれていて、少しお尋ねしたいことがあるんです。メイヤーさんのお宅は第四段通りの公園の隣でしたよね、確か」

 からからと背後で車椅子の車輪が回る音がする。道の傾斜はこの街の中では緩いほうだが、しかしマルガレッタが指示した道は非常に遠回りで、最初逆方向へ歩いていた分も手伝い俺は完全に舌で息をしていた。
「バーセルトさんのというと、エリアス君ですか? うちの孫がまだいた頃はとても仲がよかったのですが、ここ暫く見てませんね。失踪? この狭い街でですか。それは……」
 よく通る老婆の声が聞こえる。道の先に、普通に自分の足で立つ老婆の姿が見える。その隣にいる修道女の格好をした女性を見て、俺は自然と足を止めた。カテリーネだ。あの人が視界に入らなければ俺はどこへなりと身を消していたはずだったのだが。
「随分遅かったようですね。早く来なさい」
 マルガレッタが俺を手招きする。俺は最後の力を振り絞って足を動かした。カテリーネがマルガレッタの横から顔を覗かせて俺を見、
「こんにちは」
 と翳りのある笑顔で挨拶をかけてくれた。俺は思わず何か言葉を口にしそうになるのを抑えてわんと鳴く。両親のいないこの俺が、この街に戻ってきて唯一人もう一度会いたいと願っていたその人が、一年半前と何ら変らない姿で目の前に立っている。但し、俺を遥か頭上から見下ろしながら。
 マルガレッタはカテリーネに向き直ると、
「私の見た限りでは、昨日の夜からは特に変った出来事はありませんでした。お役に立てなくてすみませんね」
 と話を締めくくった。何の話だっただかよく分からないが。
「そうでしたか……。いえ、ありがとうございました。私、急ぐので、それでは」
 相変わらず何だか無理をして張り出しているような声でそう言い切ると、彼女は踵を返してばたばたと慌しく去っていった。いつも面倒な仕事を押し付けられ、嫌と言えず街中を走り回っていた、かつての彼女の姿が思い浮かぶ。何も変らない。それに比べ、俺は随分と変ってしまった。外見も、恐らく内面も。
 蹴躓きながら坂道を駆け下りるカテリーネの後姿を見送っているうちに、あれだけ切らしていた息がいつの間にか収まっているのに気づいた。俺があたふたしてる間に、彼女との再会は呆気なく終わってしまっていた。
 俺を養ってくれていた教会は、神殿が執り行う儀式によって心を痛めた親族の悲痛を和らげるといった活動を行っているのだが、カテリーネはそういう相談事が生来非常に不得手であり、頻繁に街中から苦情を集めていた。本人に悪気はないのだが、気の利いた言葉が咄嗟に思いつかないのだろう。
 夜中に一人机に向かい、ぼそぼそと泣き言を垂れていた姿が思い出された。見かねた俺は適当に慰めたりしていたのだが、彼女は下手に年上の威厳を保とうとしていつも俺の前では空元気を演じていた。どちらが養う側なのか分からなかったが、俺はその関係が何だかとても気に入っていたのだ。
 一年半前、俺の儀式の夜のこと、俺は自分の行く末がもうすぐ決まってしまうと思うといても立ってもいられなかった。当然島へは行きたくなかった。だがそうやって怯える姿を、どうしてかカテリーネには見せたくなかった俺は、出かける前に
「じゃぁちょっと行ってくる。もし俺が島に行っても、あんまり落ち込むなよな。俺、死んだりしないから」
 と平然を装ってカテリーネに言ってみたのだが、それを聞いた彼女は、うん、まぁ、と何やら別のことを考えている様子だった。その後、それが今生の別れとなるかもしれない送り際で、カテリーネは俺に向かってこんなことを言ったのだ。
「あのね、私の昔の友達で、島に行っちゃった子がいるんだけど……もし島に行ったら、その子に会ってきて欲しいの。私は元気にしてるって、伝えて欲しいんだけど」
 俺は呆気にとられて彼女を見ていた。「会ってきて」って何だよ、会っても帰ってこれないんだぞ、分かってるのか? 結果的に帰ってきたがそんなのは問題じゃない。そういうことを悪意なく言える人間だった。
 実に彼女らしい見送りだった。神殿への道中では緊張を落胆に近い感情が圧殺していた。今でも思い出すだけでため息が出る。俺が帰ってきたと知ったらどうだろう。泣いて迎えてくれるだろうか。……いや、それはないな。きっと腰が抜けるほど驚いて、それから酷く困ったような顔をするだろう。
 それでも構わないと俺は思っているのだが、彼女の方はどうだろう。



inserted by FC2 system