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 冷ややかな空気に満ちた薄暗い地下牢に、長く尾を引く足音が響いている。人が入るにしてはやや大き目に作られた檻の前を、三十前後の外見をした一人の女が悠々と通り過ぎていく。流れるような美しい長髪は彼女の歩みに合わせてゆったりと靡いている。
 女は通路の最も奥にある独房の前で足を止め、その中で膝を抱えて蹲る一人の少女に目を落とした。一見して十代半ばほどのどこにでもいるような少女だったが、その左腕は白い羽毛に覆われていた。巨大な鳥の片翼を人の腕に継ぎ足したような奇妙な体だった。
「……ここに二度、入った者は……お前が始めてだな……」
 女が小声で囁くように言った。が、少女は女の言葉に顔を上げようとせず、じっと前髪の隙間から女のほうを上目遣いに覗いていた。
「……顔を上げろ、脱走者」
 女はやや声を落として言った。だが少女はまたしても答えず、もぞもぞと動いて女の視線から逃れ、牢獄の壁のほうを向いてしまう。

「そういえば今日、カテリーネさんに会いました。相変わらずお疲れのようでしたよ」
「カテリーネ? あー、お姉ちゃんのときの」
「ええ。人探しで走り回っていました。気苦労の絶えない方です」
「人探しって、もしかしてバーセルトさん所の子かい? お客さんがそんな話をしていたのを聞いたんだ。どうしたんだろうね、こんな狭い街で……」
 テーブルの上で交わされる会話が耳に入ってくる。夕食時にどの家でも見られる、平和な家族の団欒だ。聞いていると、どうも今この家に住んでいるのはマルガレッタ、その息子バジリウス、更にその息子のフリッツの三人しかいないらしい。フリッツの母親は彼が生まれて間もなく病でこの世を去り、彼の姉は例の儀式であの地獄へと送られてしまったらしい。
「おや? また食べないのですか?」
 突然声が近くなったと思ったら、マルガレッタが椅子を引いてテーブルの下を覗き込んできた。俺が少ししか口をつけていない餌皿の残飯を見て眉を顰める。
 俺は慌てて味気の落ちた残飯をかっ食らった。また取り上げられては堪らない。雑草を食べて飢えを凌いだ数日前までの暮らしを思えば随分な贅沢だ。ここには暴力に身を委ねて他人の僅かな配給を強奪するような獣はいないのだ。
「あっ、いけねっ! 宿題やるの忘れてた!」
 突然フリッツがスプーンをがしゃんと置いた。
「作文の宿題ですか? そういう事は早くから片付けるよういつも言っているでしょう」
 マルガレッタが厳格な声で言った。どうやらこの家では子どものしつけは父親のバジリウスではなく祖母のマルガレッタの役目らしい。フリッツとその姉に俺は少しだけ同情する。
「小学校の卒業作文か。懐かしいなあ。僕は何て書いたっけ」
「バジリウス、暢気なことを言っていてはいけませんよ。フリッツは学校が終わったらすぐ誕生日が来るのですから、居残りはできないんですよ」
「分かってるよ。あー面倒くさいなぁ……」
 むくれるフリッツ。そうか、こいつはもうすぐ儀式を迎えるのか。そういえばそろそろ学年が終わる季節だった。
 俺が適当に聞き流していると、フリッツは次にとんでもないことを呟いた。
「島に行けたら、もう学校なんか行かなくて済むのに」
 ……何だって?
 思わず顔を上げる。なんてこと言うんだこいつは。島がどれだけ恐ろしい場所なのか、教えてやりたくなる。
 が、フリッツを諌める父親と祖母の言葉が、瞬時に俺の憤慨を別のものへと変貌させた。
「こら、滅多なことを言うものじゃありません」
「そうだぞ、島には恐ろしい獣がいっぱいいてだな」
 ぞくり。
 背筋に嫌な感触が走り、鳥肌が立つ。気持ち悪い。その感情がどういうものに起因するのか、自分でもすぐには理解できなかった。
 こいつら、島に連れて行かれることをまるで別の街の学校の寮に入ることのように感じている。あそこで一日に何匹の獣人が獣人に殺されていると思っているんだ。それだけじゃない、飢え死に、野垂れ死にだって珍しくないんだぞ。
「ちぇっ。でもさでもさ、島に行ったら、お姉ちゃんに会えるんだよ? そしたら俺、また一緒に暮らすんだ」
「はいはい。でもまずは無事に小学校を卒業することから考えないと」
「バジリウスの言うとおりです。さ、部屋に行って宿題を終わらせてきなさい」
 その二人の口調に、俺は更なる違和感を覚えた。根本的に違う。こいつら、本気でなんとも思っていない。島の恐ろしさを分かっていないというのは、島の内実は神殿しか知りえないから無理も無いが、それ以上に不気味なのは身内と一生会えなくなることすら重大なこととして受け止めてはいないってことだ。
 何なんだ、この“正常”な雰囲気は。何故そうも平然としていられる? 母親の病死、姉の島行きで身内が離れていくことに慣れてしまっているのか? 馬鹿な、だって……だって、家族なんだろ?
「おや、どうかしましたか?」
 マルガレッタが机の下を覗き込んできた。俺の興奮が伝わってしまったらしい。俺は何も考えていない振りをして顔を逸らす。

 居間に置かれたラジオから、二ヶ月ほど前から二つに分断されているという隣国の首都の混乱を報じる声が聞こえてくる。俺がいない間に東西の対立は随分深刻になったらしいが、耳をそばだてているうちに急に電波の入りが悪くなり、ニュースは聞こえなくなってしまった。
 俺は鼻を鳴らして木の床に寝そべる。眠くはない。食事が終わったときからずっとこの違和感の正体について考えている。この家族が持つ平穏な空気について。
 考えてみれば、この家族に限ったことではないのかもしれない。この街に住む人間は皆、多かれ少なかれこの状況を受け入れて生きている。受け入れている以上、また慣れてもいるのだ。子どもは五人に一人の確率で身元を離れる。そういうものであると。
 一年半前のことを思い出す。カテリーネはあの別れ際、俺になかなか酷いことを言った。何故あんなことが言えたんだ? いくら人の気持ちを推し量る能力が絶望的に乏しい彼女だからといって、島へ行くと仮定して用事を頼むか? そうだ、彼女も慣れているのだ。そして恐ろしいことに、あのときの俺もそうだった。彼女の言葉に落ち込みはしたが、それに対してここまで違和感は抱かなかった。
 あのとき俺は何を思っていた? 気遣いのできないカテリーネに対して、しかしそれが彼女という人間なんだと諦めてはいなかっただろうか。その場その場では上手い対応ができずとも、心の奥底では俺がいなくなったら寂しがるだろうと安易に決め付けてはいなかっただろうか。島の現実を見て改めて街へ戻ってきた今、考え直すとそれがどれだけ甘い考えか身に沁みて感じられる。彼女は本当に俺のことを心配なんてしていなかったのかもしれない。俺がいなくなったところで誰がいなくなったところで、この街では特別なことではない。皆それに慣れている。親も祖父母も友達も、引き離される子ども自身も。
 この街は……島に負けず劣らず異常だったのだ。いや、住人の意識のずれは島よりも酷いのかもしれない。
「バジリウス、ここまで夜風が入ってきますよ。まだ直してないのですか」
 暖炉のそばで本を読んでいたマルガレッタが突然声を張り上げた。台所の奥で皿洗いをしていたバジリウスが顔を出し、
「ああ、ごめん。忘れていた」
 と謝った。マルガレッタは小さくため息をつき、ストールをたくし上げる。
「もう十月だというのに、裏口の窓が閉まらないなんて隣の方に笑われますよ。それに物取りにでも入られたらどうするんですか」
 顔を上げて裏口のほうを見ると、擦りガラスの窓が中途半端に開いていた。その先には夜の公園が見える。
「物取りはあんな小さな窓から入れないよ」
「言い訳はおやめなさい。野良の動物が食べ物を求めて入ってくるかもしれません」
 ねちねちと小言を言うマルガレッタに、バジリウスは等閑な返事をして台所の片付けに戻った。マルガレッタは車椅子を少しだけ暖炉に近づけてまた本へと目を戻す。
 二人の会話を頭の片隅で聞き流しているうちに、俺はある決心を固めていた。抜け出すのだ。この家から、そしてこの街から。島を出ても神殿の支配からは出られていなかった。その意味ではこの街も島と大した違いはないのかもしれない。なら逃げよう。エルヴィンを神殿からどうにかして助け出して、一緒にこの街を去るんだ。街を出たところで行くあてなんてない。だが、いくら島内では弱かったといっても人間より丈夫なはずの獣人の体だ。冬に入っても何とか生きていけるはずだ。
 心のうちでそう決意をしたとき、ふとカテリーネの顔が頭をよぎった。旅立つ前に何か言い残しておこうか? ……いや、駄目だ。忘れるしかない。痕跡は残せないし、大体彼女に会いに行って島を抜け出したことを告げても、喜ぶどころか気味悪がられるだけだろう。目に見えている。

 朝日が差し込む食卓で、マルガレッタは一人質素な朝食をとっていた。車椅子の足元には噛み千切られた紐が落ちている。昨晩まで犬の首輪に繋がれていたものだった。
 どたどたと騒々しい音がして、バジリウスが階段を駆け下りてきた。
「まずい、遅れる! ごめん、朝は抜くよ」
「そうだろうと思って用意してません」
「あ、そう……あれ? あの犬は?」
 バジリウスは犬の不在に気づき、マルガレッタに視線を向けた。マルガレッタはなんでもないことのように答える。
「残念なことに逃げられたようですね」
「そうか」
 バジリウスもそれほど興味が無いのか、そこで会話を打ち切ると玄関に向かった。急いで出かけようとする彼に、マルガレッタが思い出したように声をかける。
「あなたのお店、今日が入荷日でしたね?」
「え? そうだけど」
 マルガレッタは車椅子を動かして玄関まで移動し、扉の前で止まった。
「ついでですので連れて行ってください」

 街外れから続く岩山に挟まれた細道を暫く行くと、急峻な山肌に杭を打ち込むような形をした巨大な建物が見えてくる。陽の光と湖からの反射光を受けて眩しく輝く、白く塗り上げられた宗教的な建造物、神殿だ。そこを根城にして儀式を執り行う連中のことを神殿と呼ぶのはこの建物の外観のためだろう。一応対外的には宗教味を隠して街役場ということになっているらしいが、役場というのは門の前に銃剣を持った見張りが立っているものなのだろうか。
 何の咎めも無く神殿まで来ることができたがここは立ち止まらざるを得なかった。物陰に隠れて見張りたちの雑談に耳を澄ます。
「そういや、あんたんところの息子さん、いなくなったんだって?」
「そうそう聞きましたよ。どうしたんです」
 尋ねられた中年の男は、いやぁ、と肩を竦めて見せた。
「どうしたもんでしょうなぁ。近頃あんまり話をしてなかったもんで、家出でもしたかもしれんですわ。それならまぁ、ちっとは生意気なことも言えるようになってきたところだったんで何とかやっているでしょうが」
 この男だけ言葉の訛りが他の奴らと少しだけ違っていた。外から来て居ついた住人だろうか。この街は出て行く者はほとんどないが、外からやってくる者はごくたまにいた。景観がいいのと、非常に住みよい気候が揃っているからだろう。
 どうやら奴らは茂みから様子を窺う俺の姿には気づいていないようだ。姿を見られるのは避けなければ。ひょっとしたら島から俺が消えたことがもう神殿に伝わっているかもしれないのだ。
 しかし困ったな。崖に打ち建てられたような神殿へ入る道は本当にここ一本しかない。崖上から飛び降りて侵入できるかもしれないが、俺はそこまで身軽ではないし第一派手に気づかれるだろう。
「……しかし疲れましたね。何もないとわかっているのにこんなものを持って」
 岩に銃剣を立てかけ、肩を鳴らす。
「湖畔の監視台に立たされるよりはましです。この間なんて本当に辛かった、何せ……おっと」
 男は言いかけて口を噤む。
「何ですか? あっ、そういやあんた、おとつい湖で一騒動あったときそこにいたんでしょ? 何があったんですか、あれ」
「い、いや、一応口止めされてまして」
 一昨日というと、もしや俺たちが上陸したときのことか? 俺は聞き耳を立てる。
 男は暫く言い渋っていたが、やがてここだけの話ですよ、と声を潜めて話し出す。
「実は島から獣人が一匹抜け出してきたんですよ。いや、恐ろしかった。こう、見た目は普通の女の子なんですが、左腕がなく代わりに大きな翼が生えてましてね」
 間違いない、エルヴィンだ。やはり捕まっていたのか。一つ訂正するなら、エルヴィンは見た目は女子でも元は男なのだが、そんなことは今はどうでもいい。話を聞いていると、どうやらあいつは今神殿の地下牢にぶち込まれているらしい。儀式で変身した獣人が再教育される間入れられるあの場所だ。よし、なんとなくではあるが場所の目処はつく。仲間の無事が確認できたのとそれがどうやら手が届きそうな場所にいることを知って少しだけ安堵の息をつく。
 あとは侵入方法だが、時折しも午前十一時を知らせる鐘が街のほうから聞こえてきた。見張りたちは交代の時間だと言って門の内へと引き上げていく。
 今だ、今しかない。
 気配が消えるのを見計らって俺は音を立てないようにそっと茂みから飛び出ると、門へと一直線に飛び込んだ。
「まずい、忘れるところだった」
 げっ。
 目の前に突然先ほどの見張りの一人が現れ、その足に俺の体は勢いよくぶつかる。
「うわっ! 何だ、くそっ!」
 転げそうになった男の足に蹴り飛ばされる。まずい、思いっきり見つかった。見張りは置き忘れた銃剣を手に取るとその鞘で俺の頭を殴る。文字通り尻尾を巻いて逃げようとするが、意外に身動きの素早かった見張りによって首輪を掴まれてしまう。
「このっ! 何だぁ……? 野良犬か?」
 そうだ、ただの野良犬だ、だから放せ!
 無理に暴れたのがいけなかったのか、駆けつけた他の男によって顎を掴まれてしまう。
「どうしたんですか。この犬は?」
 試しに唸ってみるが、口を掴まれていては脅しにも何にもならなかった。
「突然門の中に飛び込もうとして、妙な犬だな……本当にただの野良犬か?」
 疑る嫌な目がぐっと俺の目を覗き込んだ。頼む、見逃してくれ。捕まるわけには行かない。捕まれば恐らく島に戻される。戻されるだけならいい、恐ろしいのはその後に来る神殿による配給停止だ。そうなったら他の獣人たちに八つ裂きにされるのは目に見えている。
「野良犬でもこんな凶暴なやつ、野放しにできますか。処理場へ連れて行きます」
 処理場!? 駄目だ、そっちはもっと駄目だ!
「小型獣用の檻って、どこでしたっけ」
「謁見室の北の倉庫です。取ってきますよ」
 着々と話が進んでいく。すぐに目の前に小さな檻が用意され、無理矢理それに押し込められる。待て待て、何だこの手際のよさは。必死に抵抗を試みるも檻の扉が閉ざされてしまう。冗談じゃない、出してくれ!

 この街トラヴィーダでは、野良の犬や猫の姿を滅多に見ない。それはあらゆる獣に敏感な神殿が、見つけ次第処理場で処分しているからだという噂を聞いたことがあったが、俺は今まさに身を以ってそれを実証しようとしていた。抵抗を続ける俺に手を焼いた神殿の男は、人通りの目を避けて裏道を通った。心なしか辺りが暗くなっていき、俺はほとんど恐慌状態になって檻の中で暴れまわる。
 そんな状況だったから、よく通る聞き覚えのある声が道端から聞こえてきたときはその声の主を中心に辺りが一気に明るくなったかのように感じた。
「すみません、待っていただけますか」
 マルガレッタだった。車椅子に新品と見える本を積み、一人で車輪を操作しながら近づいてくる。
「その犬はうちの飼い犬です」
 見張りの一人が俺の首輪を確認する。俺も知らなかったのだがそこにはメイヤー家の名が刻まれていたらしく、見張りたちは上辺だけの謝罪を述べて俺を解放した。
「私が少し目を離した隙に、脱走してしまったのです。大人しい犬なのにこんなところまで来るなんて、どうしたことでしょう」
 マルガレッタは相変わらず威圧的な目で俺を見下ろす。その真意は読めない。
 助かったのか? いや、目の前の危急からは脱したが、逃げ出したメイヤー一家に連れ戻されるとなれば似たようなものか。男たちの怪訝そうな視線を背に感じながら俺は大人しく車椅子の隣を歩いた。ここで逃げれば見張りの男たちがまた捕まえに来るかもしれない。街に入って人目が途絶えたところで逃げ出せば──
「大人しくしていなさい」
 俺の考えを見透かしたようにマルガレッタが言った。
「神殿に捕まればことです。あなたがどうなろうと私のあずかり知るところではありません。しかし連中にあなたの正体が知れた時その首輪の持ち主である私がどんな立場に立たされるか想像もできないほど愚かなのですか、あなたは」
 足が止まる。何だと。今この老婆は何と言った。俺の正体?
 マルガレッタは車椅子を止め、振り返って俺を見た。
「どうしました。いい加減、犬として不自然な動きは慎んだらどうです」

 昼下がりの薬局に、顔を大きなフードで隠した一人の女性が入店した。店内は閑散としており、彼女のほかには店員の親父と一人のシスターしかいない。シスターは店員に何やら苦情を言っているようだった。
「ですから、早く取り寄せてってずっと前から言ってたじゃないですか。街に薬屋さんはここしかないのに、対応悪いですよ」
「ああもう、申し訳ありませんでしたって言ってるでしょう。あ、いらっしゃい」
 店員に挨拶を投げかけられ、顔を隠した女性は小声でこんにちはと返した。シスターは更に店員に食い下がろうとしたが、店員は彼女をうまく避けて顔を隠した女性への接客を始める。
「今日は何の御用でしょう。まだ夜眠れないようでしたら……」
「いえ、最近はかなりよくなってきて。けどまた古い頭痛がぶり返してきましたので」
 病弱そうな声で女性は言った。頭痛ですか、と店員は棚を探し始める。そこへシスターが、
「あ、頭痛ならこれがよく効きますよ」
 と店員の背後から薬を手に取って女性に渡した。後ろで店員が肩を竦める。この店では店員よりも常連であるこのシスターのほうが薬の効用に詳しいのだった。
「大変ですよね、私もよく使います」
 顔を隠した女性は薬を受け取ると、フードを少しだけ上げてシスターに微笑んだ。
「ありがとう、カテリーネさん」
「あ、名前覚えていてくれたんですね」
 シスターはやや恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ここで時々見かけますけど、いつもお昼過ぎにいらっしゃるんですね。どんなお仕事をなさってるんですか?」
 その質問に女性は少し言い淀んだ後、
「ええっと……自営業です」
 と曖昧な答えを返した。

「おーいフリッツー! 今日どうだ、練習出れそうかー?」
 下校する生徒がわらわらと校門へと向かう校庭で、フリッツは友人の声に振り返った。小さな体に大きな用具を担いだ友人たちが、一人早く帰ろうとするフリッツを手招いている。
「悪い、今日は無理っぽいんだ。ほら俺、まだその……書いてないから」
 友人たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに何のことか気づいて悪戯っぽい笑いを浮かべる。
「そうだそうだ、お前、まだ小学校の宿題終わってないんだったよな! 一人だけ卒業できないぞ、あー?」
「だっ、大丈夫だって、もう殆ど書けてるんだぞ!」
 フリッツはそう粋がって見せるが、友人たちは半分も信じていない様子で彼に別れを告げると街の北西にあるアイスリンクの方へと走り去っていった。
 一人残され校庭に佇むフリッツはため息をつく。手提げ鞄から取り出した作文の用紙は、最初の一行しか埋まっていなかった。
『ぼくの夢 フリッツ・メイヤー』
 また深いため息をつく。
「ほう、まだ宿題が終わっていないのかい、少年」
 突然声をかけられ、フリッツはびくっとして振り返った。暮れなずむ薄暗い湖を背に一人の女性が立ってフリッツの宿題を覗きこんでいた。その姿を見てフリッツはすぐに彼女が誰であるか気づく。名前は分からなかったが、小学校へ通っている子どもたちは皆彼女のことを知っている。いつも校庭裏の湖畔で湖の絵を描いている絵描きの女だった。毎日見かけるが、話しかけられたのは初めてだった。身を強張らせるフリッツの姿を見て、絵描きはふっと含み笑いを浮かべ、黒帽子の鍔を正した。
「いやいや、怖がらせてしまったかな。しかし少年、見たところ君はその作文に何を書けばいいのか考え付かないといったところのようだけれど」
 フリッツはびっくりして頷いた。絵描きは切れ長の目を細めて笑う。
「何故書けないのかな?」
「だ、だって……将来何になりたいかなんて、特にないし。お父さんみたいに本屋でもいいし、神殿で働いてもいいし」
「なるほど、それは困った困った」
 芝居がかった仕草で絵描きは肩を竦めた。フリッツの目を覗き込むように顔を近づける。
「それなら、一つ私が教えてさしあげよう。そこに何を書けば“正解”なのか」

 結局俺はマルガレッタに連れられて彼女の家へと戻った。家に入るとすぐ彼女は玄関の扉を閉め、新しい紐を俺の首に繋げた。今更だが間違った選択をしたような気になる。
「どうしたのです。こっちへ来て暖炉にあたったらどうですか」
 何となく居心地が悪くて玄関口に座り込んでいた俺に、マルガレッタが声をかける。この家には俺と彼女の二人しかいない。あれは、完全に人間に接する者の態度だ。
 俺は長いこと考えていたが、決心して口を開いた。
「……知ってたのか、俺のこと」
 犬の口から、少年の声(多分)が出る。マルガレッタは片眉を上げて俺を見た。それから堅い笑みを浮かべる。
「口が利けるのですね。面白いです」
 ぞくりと背筋が冷たくなった。裏口のほうから冷たい空気がここまで流れてきているのだ。俺は警戒を緩めずにそっと暖炉の前へと移動した。
「どうなんだ。あんた、神殿と繋がりのある人間なのか。俺が島を逃げ出したことをもう神殿は知っていて……」
「誰にでも分かります。あなたは賢すぎました。よくそれで犬の振りができるだなんて思いましたね」
 ということは、マルガレッタはただの一般人なのか。とりあえず胸を撫で下ろす。
「俄かには信じがたいことでしたが、あなた、私が窓が壊れていると言った言葉を理解してそこから逃げ出しました。獣人であると考えるしかありません」
 裏口の壊れた窓へマルガレッタは視線を送った。
「しかし堂々と我が家の首輪を嵌めたまま捕まるとは……賢すぎるというのは些か褒めすぎだったようです」
 彼女は完全に俺を見下した声でそう言った。やはりこの老婆は有害だ。
「もういい。で、これからどうする気だ」
 街の人間なら獣人に対して多少の恐れはあるだろう。俺はやや声に凄みを加えてそう言った。だがマルガレッタは全く態度を変えない。
「不本意であろうとあなたをうちの犬であると神殿に言ってしまったのです。あなたをここにおいておくしかありません」
「俺も不本意だ。実に」
「島にラウラという娘はいませんでしたか」
 俺の言葉を無視して唐突に老婆は言った。
「……聞いたことがない。あそこじゃ、俺は顔が広いほうじゃなかったしな」
「それだけ弱ければ仕方ありませんね」
 老婆は首を振ってため息をついた。畜生、言い返せない。
 俺はそれから、島を抜け出した経緯を語った。大して長い話ではない。
 島での生活は、細かなことには触れなかった。どうせ、明日の生に不安を抱くなんて感覚は話して聞かせたところで理解できないだろう。
「でもすぐに気づいたんだ。あの島で怖いのは暴力や飢えだけじゃない。皆が忘れていくんだよ、トラヴィーダにいたときのことを。大抵の獣人はどんどん馬鹿になっていったよ。名前を忘れる奴すらいたんだ」
「あなたはどうだったのです」
 マルガレッタは膝元に開いた本に視線を落としていたが、その頁は先ほどから捲られていない。
「俺は随分頑張ったさ。ずっと意識してると、そんなに記憶が薄れたりはしないんだ。でもエルヴィンは──」
 俺と誕生日の近かったエルヴィンは、神殿の地下牢で再会し、島でも協力し合って生きていこうと誓った。最初のうちはよかった。力を合わせればそれなりに生活していけそうだとも思った。でもあいつはどんどん記憶を失っていった。元々ちょっと変わったところのある奴だったけど、仕舞いには俺を見て、誰こいつ、って目をすることすらあった。
「だから脱出しようって決めた。二人で抜け出そうって、言い合ってたら……奴が現れたんだ。あの小さな怪物が」
「怪物とは妙な言い方ですね。皆似たようなものでしょう」
「そいつは格別だ、最初見たときは生き物かどうかも分からなかったんだよ。名前はルーペルトって言ってた。嫌に不気味な奴で、何か他の獣人とは違ってるって感じだったんだ。実際奴は他の獣人が知らない色んなことを知っていて、俺たちの脱出を手伝ってくれるって言ったんだ」
「どうしてまた」
「さぁ。とにかく、俺たちは奴の言う通りにしたんだ。霧の深い夜に、特別な工具で柵に穴を開けて、隠しておいた舟で監視船の間をすりぬけて。舟が見つからないように岸から少し離れたところに乗り捨てた。けど」
 見張りの言葉を思い出す。
「……エルヴィンは捕まった。奴らに、神殿に閉じ込められてるんだ」
「やめなさい」
 冷たい声でマルガレッタが言い放った。
「助けようとは考えないことです。門の前で捕まるようでは望みなどありません」
「わ、分からないだろ! ちゃんと計画を練れば……」
「本気で言っているのですか。ここはガラクシアではありません。協力する者はいないのですよ。今はあなたの仲間があなたのことを口外しないよう祈るしかありません」
 エルヴィンのことを悪く言われたような気がして、俺は反論しようと口を開けた。マルガレッタが振り返り、
「飼い主命令です。あなたはここにいなさい。私もとんだものを負わされて心底参っています。あなたは私の命令に従いなさい」
 あまりに一方的で身勝手な命令を下した。それがあまりにストレートだったからか、単に気迫に押されただけなのか、俺は無意識に頷いていた。



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