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 夜から深夜へと移ろう時刻、街の賑わいも昼間のそれと比べて少しばかり様相を変えつつあった。それは普段彼が歩いているいつもの路地裏とて例外ではなく、路上市場の商店は早々に店をたたみ、代わりに昼間はひっそりとしている倉庫や酒場などから漏れる明かりが、大人たちの声とグラスのぶつかる音とが醸し出すしめやかな喧騒を乗せて、辺りを艶めかしく包み込んでいた。今日ほど遅い時間帯に街に出たことが一度もなかったエリアスにとって、その景色はとても目新しく、そして魅力的に映った。未だ心身ともに成長途上の彼ではあるが、それでも路地の両側から流れ込んでくる様々な思惑や心算、そして作為をうっすらとではあるが感じ取ることができた。
 エリアスは、そんな未だ見ぬ世界からの誘惑に気圧されるようにして左右を脇目使いにしながら、しかし足だけは真っ直ぐに夜の路地裏を駆け抜けていった。『おかしいと思うことには抗う』、そんな義務感のような意思では決してなく、何か形のない、しかし確かな存在感を持った意志が、彼を突き動かしていた。
 やがていつものように路地裏を抜けると、そこにはいつものようにルナルカ湖が広がっていた。しかしその姿は、彼が普段から眺めているルナルカの姿ではなかった。いつも空の色を映し続けている湖面は真っ黒に染まり、いつも霧の向こうに浮かんでいる隆々とした対岸の山々は、宵闇に塗りつぶされて一切見ることができなかった。この湖の向こうは冥界へと繋がっているのではないか、そんな想像が脳裏を過切る。ぞわぞわ、と背筋を駆け抜けていった感覚を振り払うように首を横に振ったエリアスは、周囲をぐるりと見渡した。暗くひっそりとした湖岸に沿うようにして、煌々と燃える松明の明かりが三つほど点在していた。その炎は、《神殿》の兵士が夜の湖畔を警備するための監視台がそこに立っていることを意味していた。
(まだ、見つかっていませんように……)
 あの小舟は、見つかってしまえば即座に回収され、処分されてしまうだろう。エリアスは、舟を物陰に隠しておかなかったことを少しだけ後悔した。
 しかしそれどころか、こんな時間に湖の周辺を子どもがうろついている、それだけで見咎められ、家へと追い返されてしまうことは明白だった。エリアスは沸き上がってくる焦燥感を必死に抑え、周囲を注意深く見まわしながら、普段歩いている表小路から少し外れた林の向こうの砂利道を、音をたてないように注意しながら進んでいった。
 舟が流れついていた場所に向かう途中、一つだけ監視台の傍を通らなければならない場所があった。それは即ち、そこに見張りの兵士が座っているということを示しており、エリアスは更に警戒しながら慎重に歩を進めていった。しかしその炎の熱が肌に伝わってくるほどに近付いた頃、彼は不可解な事実に気付き、首をかしげた。
(――誰も、いない?)
 彼の身長より少し高いくらいの監視台の上、暗闇に浮かぶ松明の明かりが照らし出していたのは、誰も座っていない折り畳みの椅子だった。兵士が居眠りでもしていてくれれば、と願いながら進んでいたエリアスだったが、そもそもそこに誰もいないのである。
 仕事を放棄してどこかで遊んでいるのかも知れないな、などと勝手な想像をしつつ見張り場所を通過したエリアスは、やがていつもの場所に首尾よく辿り着くことができた。
 そこには、先刻彼が目を醒ましたときと変わらず、小さな一艘の小舟が浮かんでいた。どこか焦燥感にも似た高揚感を感じたエリアスは、左胸の鼓動が少しだけ高鳴るのを感じた。


(本当に、こっちでいいのかな……)
 どこからか流れ着いた小舟に乗って湖に漕ぎ出したエリアスは、真っ暗な夜の湖において、自身が向いている方角すらも見失いつつあった。毎日のようにいつもの場所から見ていた記憶を頼りにしてガラクシアの方角を推定できたことは幸いだったが、進む先に《神殿》の巡視舟が徘徊しているのを見つけ、慌てて方向転換をして隠れたりしている間に方角が完全に分からなくなってしまったのだ。加えて、今ではその指標となる湖岸は闇に隠されて見えなくなってしまっていた。それでもどうにかトラヴィーダの街の明かりを頼りに進んでいたのだが、遂にその明かりも霧の中に呑まれ、今では曖昧な光の輪郭だけがぼんやりと背後で広がっているだけであった。
 最後まで自分を導いてくれると信じていた、夜空に浮かぶ月さえもが、自分のことを見降ろして嘲笑っているかのような錯覚を感じ始めたその時、前方から狼の遠吠えのような声がはっきりと聞こえた。エリアスは突然のその声にびくりとして、舟を漕ぐ手を止める。冷たい風が彼の肌を刺すように吹き抜け、そしてその後に残ったのは不意に存在感を増した、夜の静寂であった。
『十三歳の誕生日、獣に姿を変えてしまった子どもは、ガラクシアへと連れて行かれ、その一生をそこで過ごす』。
 もう一声、先程の声に呼応するように遠吠えが返される。その不気味に尾を引いた鳴き声は、少年を島へと導く呼び声となった。エリアスはその遠吠えを頼りにして舟を漕ぎ進めていった。
 やがてどのくらいの時が経っただろうか、山間の向こうからうっすらと光が漏れ始めた頃、前方に黒い影が見え始めた。その影はみるみるうちに大きくなり、すぐに彼の視界を覆い尽くすほどに大きくなった。そしてその頃には、彼はこの影の持つ異様な存在感を五感のすべてで感じられるようになっていた。
(これが……ガラクシア)
 いつも湖岸からぼんやりと眺めていた、その霧に包まれた不気味な灰色の島が、今まさに彼の目の前にあった。夜が明け始めているとは言えどもまだ太陽は顔を出しておらず、また霧も濃い為にはっきりと細部を見ることはできないが、島にはあらゆる高さの建築物が、整合性を持たず無秩序に建ち並んでいることだけは見て取ることができた。その多くは無骨に角ばった外観をしており、街から見えていた灰色はこの建物の色だったのか、とエリアスは思った。
 早速島に向かって舟を進めようとしたエリアスは、しかしすぐにその手を止めた。彼と島との間で、空に向かって伸びた鉄柵が行く手を阻んでいたのだ。全体を赤い錆に包まれ、牢の格子のようにも見えるその鉄柵は、ガラクシアを覆い囲うようにして聳え立っていた。それは大人の背丈よりも、いや、ひょっとすると街の建物よりも高いかも知れない。全てを拒絶するかのような高圧的な雰囲気さえ感じられ、エリアスはここにきて初めて我に返り、自分が何をしているのか、そして自分が何をしようとしているのかを自覚した。ガラクシアは、危険だ。人間の立ち入る場所ではない。今なら、まだ引き返せる。
 しかしエリアスは鉄柵を見つけるのと同時に、それが一部分だけ抜け落ちているのを見つけた。否、抜け落ちてと言うよりも何か手を加えることによってその部分だけ外されているようだった。そこには人間一人が通るには充分な大きさの穴が開けられており、一瞬だけ彼の思考を掠めた消極的な感情は、すぐに鳴りを潜めていった。運命は未だ、少年を導き続けていた。
 《儀式》によって獣となった子どもたちがここへ連れてこられている以上、どこかに舟が停泊するための場所があるはずである。彼はきっと設けられているはずの舟着き場を探して、島の岸壁に沿うように舟を漕いでいった。

 そんな異分子の闖入を空から興味深げに見降ろす者があることに、少年が気付く様子はまったくなかった。
「ふーん。予想外に面白そうなことになってきたじゃないか」
 その影がバサバサと不吉な羽音をたてて飛び去っていったあとに虚空に舞っていた漆い羽根は風に流され、やがてゆっくりとルナルカの湖面に降り立った。夜の闇と朝の光とが混ざり合って不安定な表情を湛えた空は、トラヴィーダを、ルナルカを、そしてガラクシアを遍く包み込むようにして、変革と創造の種が芽生えるその刻を、静かに見守っていた。すべては、この夜に始まったのだった。


 湖に面した岸壁は直線的に削り出された灰色の岩で固められており、とても掴まって上れそうにはなかった。それは不用意に近付く者の侵入を一切許さない、といったふうだったが、しかしやがて思惑どおりに舟着き場を発見し、無事にガラクシアへと上陸することができたエリアスは、恐る恐るといった様子で島の中心部へと向かって歩き出した。
 ようやく明るんできた空によって浮き彫りにされた島の姿は、街の湖岸から眺めていたときと同じ、冷たく無感情な印象を与えた。不自然なくらい静寂に包まれたその島では、全体的に建築物と岩とが景観の大部分を占めており、まばらに生えている植物の類は明らかに人の手によって植えられたものであるように感じた。しかし、舗装された路上を浸食するように突き破って四方八方へと伸びた根や、伸び放題になった雑草を見る限りは、手入れはされていないようだった。人為的な意志によって造られたものは、放置されてその原型を失おうとも、再び自然に還ることはないのである。
 この先は、恐ろしい獣人が蔓延る無法地帯だ。実際のところは知る由もないが、少なくとも街の人間にはそう認識されている。知らず知らずのうちに緊張し、全身を強張らせていたエリアスは、武器のつもりで持ってきたアイスホッケーのスティックを両手で握りしめた。握りしめた手のひらは、噴き出した汗によってしっとりと濡れていたが、それは濃い霧の所為で水分が結露しているのだ、と彼は自らに言い聞かせた。
 と、舗装された路面の上を暴れ回る木の根をまたいだ直後、彼の耳朶を打った、ささやくよりも微かな、声があった。
「……――――」
 言葉の内容までは聴き取れないが、それは確かに人の声、更に言うならば若い女性のものだった。
(この島に、僕の他にも人間が?)
 獣人しか住んでいないはずのこの島で、人間の声が聴こえるというのも変な話である。頭の片隅で空耳だろう、と思いながらもエリアスは無意識に背後を振り向いた。
 直後、何か布のようなものがこちらへ向かって飛んできたかと思うと、彼よりも一回り大きな体躯の人影が、物凄い速度で近付いてきた。
「……!」
 その突然の接近に驚いて、咄嗟にスティックを前に翳したのが幸いだった。その影はエリアスに向かって蹴りを繰り出そうとしていたのだった。彼の身体の代わりにその衝撃を受け止めたスティックを持つ手が、じんと震えた。
(獣人?)
 遠くの空は明るんできたとは言え、依然として辺りは暗いままであり、この影の姿形をはっきりと見ることはできない。しかし、目の前に立っているこの影は、本物の獣人なのではないか。ガラクシアに住む獣人は、人間だったときとは比べ物にならない程に身体能力が異常に向上し、また攻撃的・本能的に行動するようになると言われている。そんな知識を街の人間の常識として持っていたエリアスは、おずおずと訊く。
「きみは、この島の住人なの?」
 獣人に対して尋ねてみたところで、こちらの言葉が通じるはずもない。初めからそう思っていたエリアスは、次の一撃を警戒した。しかし彼の推測に反し、返ってきたのは蹴撃ではなく、女性の声だった。
「……喋る言葉は、同じなんだ?」
「え?」
 人間の言葉が返ってきたことに彼が驚くのと同時に、その影は再び動き出した。警戒心が緩みかけていたエリアスだったが、咄嗟に後方へと退がることでその攻撃を避けることができた。今度のそれは、頭上へ大きく振り上げた脚を、踵を真下へと撃ち降ろし、その勢いで打撃するものだった。その人間離れした挙動を間近で見た彼は、確信した。
――この女の人は、獣人だ。
 そして、言葉が通じても尚、この獣人は敵意を剥き出しにしている。自分は、命を狙われているのだろうか。
「ねえ、僕の言葉が通じてるの? 僕はきみに危害を加えたりするつもりは全くないから、話せるのなら……話をしようよ」
 彼は一抹の希望を託し、再び意志の疎通を試みた。
「……でも私は、君のこと、食べたいなぁ」
 その言葉を聞いたエリアスの背筋を、言いようのない悪寒が駆け巡った。『殺される』。確かにそう感じた彼は、再び後方へと跳び退り、少しでもこの獣人から距離を取ろうとした。
 刹那、彼の背中に何かがぶつかる。ちらりと目を遣ると、背後には一本の大きな樹木が立っていた。それは、彼の退路がそれ以上断たれたことを意味していた。相手もそれを悟ったのか、すかさず蹴りを繰り出してくる。今度の蹴撃は、彼の顔面めがけて真っ直ぐに飛んできた。既に後ろへの逃げ場をなくしていた彼は、咄嗟に首を傾げることで、辛うじて避けることができた。まるでその脚だけが本体とは別の意志を持って行動しているかのように感じられた。
 背後の樹木へと直撃したその蹴撃はその木肌を削り、そして抉り取ると、獣人の足許へと戻っていった。ぼろぼろと零れ落ちる木皮が、その威力を物語っていた。
 次に攻撃が来たら、本当に終わりだ。完全に体勢を崩してしまった彼はそう思った。しかし獣人は、今までとは打って変わって動きを止めた。攻撃の隙を窺っているのではなく、本当に止まったのだということを、彼は不思議と感じ取ることができた。殺気というものが存在するのだとすると、獣人が放っていた殺気は沈静化したのだろう、そしてそれを自分は無意識に感じ取ったのだろう、と彼は思った。
 しかしエリアスはそれ以上は迂闊に動くこともできず、出来ることと言えば目の前の獣人を観察することくらいしかなかった。夜明けの陽が上りつつある空が放つ微かな光に照らされた影は、ようやく――彼が落ち着きを取り戻し始めた、というのも多分にあるのかも知れないが――そのシルエットを克明に照らし出し始めた。すらりと伸びた体躯は、人間のそれと寸分の違いもない。身に纏っているのは、街の人々が着ているものと変わりのない、衣服。そして、湖の方から僅かに吹いてくる浦風にはためいているのは、肩まで伸びた髪の毛。彼がその目で見る限りは、目の前に立っているのは人間そのものだとしか思えなかった。
 決定的な違いは、耳だった。頭上に二つ、真っ直ぐに伸びているのは、草食動物が持っている耳そのものだった。特徴的なかたちをしたその感覚器官だけが、身体の中で一際の違和感を放って「生えて」いた。この人影を獣人であると断定するに至る材料としてその耳は絶対的な影響を持っており、それに先刻の異常な身体能力も加味して考えれば、その答えは明白だった。
「なんで君のこと狙うか、教えてあげようか?」
 降り始めた沈黙の帳を裂くように、獣人が口を開いた。初めて、彼女のほうから言葉を投げかけたのだ。
「……」
 エリアスは、敢えて沈黙を守った。肯定の意志だけを静かに伝え、次に続く彼女の言葉を待つ。
「人間の肉って、おいしいんだってさ。配給に来る奴らは殺しちゃ駄目なのが掟だから、肉を正当に得るために、ずぅぅっと上陸してくる奴を待ってたの」
「……さっきの『食べる』というのは、そのままの意味だったんだな」
 目の前の獣人は、やはり初めから彼を襲うつもりで近付いてきたようだった。これでは「自分が何か失礼なことをしたか」という問いをかける必要は全くない。
「そうだよ。今頃気づいたの?」
 獣人は攻撃的になる、という彼の認識は間違ってはいなかった。人間の言葉を喋るものだとは思ってもいなかったので戸惑っていたが、目の前にいるのは決して人ではない。
――人の形をした、人の言葉を喋る、ケモノだ。
 そう再認識したエリアスは、しかし人に対して行われるべき問いを、敢えて彼女に投げかける。
「……きみ、名前は」
「私? ルファっていうの。よろしくね。君、もう、死ぬんだけどさ」
 その長い耳を持った獣人は、人間の女性の声色で冷たく嘲るような笑い声を漏らし、人間の女性の声色で自らの名前を名乗った。その名前は、かつて人間だった頃に、人間として生まれたときに、付けられた名前であるはずだった。
 直後、刹那の間を置いて、その獣人は彼の脇腹めがけて蹴りを入れた。尋常でない速度で繰り出された下段蹴りに、エリアスは反応することすら出来ず、短い呻き声を上げてその場に転がり込んだ。右手に握りしめていたスティックも、取り落としてしまった。
 彼はどうにか肘を立てて起き上がろうとするも、うまく力を入れることさえできずに、完全に倒れ伏してしまった。更には急激にせり上がってくる嘔吐感が喉元に達し、思わず咳き込んでしまう。その透明な吐瀉物が地に零れたのを見ると、獣人は愉悦の笑みを浮かべた。
 人間が人間の肉を喰らう。それが異常な行動であると思えるのは、自らが人間であるが故なのだろうか。
「ルファ……きみも、元々は人間だったはずだ」
 自らが人間でなくなったとき、人間の肉を喰らうことに対して、何の抵抗も抱かなくなるものなのだろうか。
「人間を食べるだなんて、そんなことは……止めるんだ」
 こんな格好で言っても説得力ないけどさ、と付け加えるエリアスに、ルファは訝しげに訊く。
「私の元が、人間?」
 心底何とも思っていないように、寧ろ卑下するように問うルファの態度に引っかかった彼の脳裏を、一つの可能性が過切る。
(まさか、獣になってしまう前の記憶は……)
 人間だった頃の言葉は憶えていて、人間だった頃の名前は憶えていて、しかし記憶は失っている。仮にそうなのだとすると、それはあまりにも、残酷な仕打ちではあるまいか。
「思い、出せないのか……? きみも、僕と同じように、十三歳の誕生日の日に《神殿》へ召集されたはずなんだ……!」
 馬鹿なことを、といったふうに嘲笑を漏らしたルファは、しかし直後に頭を抱え、息苦しそうに呻き声を上げる。
「くっ、う……!」
 それは、身の内に宿ってしまった悪魔の咆哮を抑え込まんとして狂気の背徳に悶え苦しむ魔導士のようだった。エリアスが彼女の突然の反応に虚を突かれていると、ルファは必死に自らを律し、力の限り叫ぶ。
「……お前っ! 何をしたァっ!」
「僕は何もしていない! その反応……きっと獣人になったときに、何かあったんだ。どこか記憶の片隅で、憶えているはずなんだ……!」
 エリアスはそう言うと、渾身の力を振り絞って立ち上がった。自らを支える二本の脚が、悲鳴をあげていた。
 致命傷を負って尚も立ち上がろうとする彼を見、驚くように目を見開いたルファは、再び攻撃の体勢に入る。当たれば、次はない。それはエリアス自身も、充分に理解していた。
 しかし、繰り出されたその脚が彼の元へと及ぶことはなかった。それどころかルファは、驚愕に眸を見開く。
「そういうのは、良くないな」
 今にも崩れ落ちてしまいそうな彼の背後から静かでおっとりとした、しかし確かな力の込められた男の声が投げかけられた。霧の中から突如として現れたその影が、エリアスの眼前に翳した片腕を以て、涼しい顔をして彼女の蹴撃を受け止めていた。その強靭にして剛健なる腕は黒く深い体毛に包まれており、それは明らかに、獣人のものだった。
「誰だ……」
 新たに現れた獣人の姿を捉えて錯乱するエリアスをよそに、ルファは忌々しげに、吐き捨てるように呟く。
「この辺りの散歩が日課でね。ただの通りすがりだよ。……どんな理由があろうと、同族殺しを黙って見過ごすわけにはいかないさ」
 ゆっくりと、踏みしめるようにそう告げた獣人は、ルファよりもひとまわり――否、ふたまわりは大きなその巨体を揺すり、そしてエリアスとルファの間に遮るようにどっしりと構えた。
 この獣人は、どうやら自分のことを庇ってくれていて、そしてどうやらとても頼りになる存在であるようだった。それを悟って安心した所為か、エリアスは急速に自らの身体が重みを増し、やがて意識が遠のいてゆくのを感じた。
(もう、駄目だ――)
 彼が心中でそう呟いたのと彼の視界が暗転したのは、ほとんど同時のことだった。底のない沼地へと引きずり込まれるようにして、彼の意識は反転していった。



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