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 ガラクシアのはずれにひっそりと佇む、灰色の建造物があった。立場の弱い獣人たちがならず者の魔の手から逃れようと身を寄せ合って暮らしている、共同住居である。そもそもが倉庫のような目的で造られたその建造物は、決して広いとは言い難いものの、それでも身体の小さな獣人たちが集まって共同生活をするには充分な大きさのものだった。
 炊事場で洗い物をしながら、ちらりと入り口のほうを見遣った少女は、軒先に一人の大男の姿があるのを認め、にこりと微笑んで言う。
「あ、ユリウスさん。お帰りなさい」
 ユリウスと呼ばれた大男は、窮屈そうにその身を屈めて部屋の扉をくぐると、漆喰でできた硬く冷たい床をゆっくりと踏みしめながら、部屋の奥へと歩いていった。彼はこの共同住居において、獣人たちの親代わりとして暮らしていた。のっしのっしと、その巨体を揺すりながら歩くその大男の腕は、黒く深い体毛に覆われており、堂々とした佇まいからは圧倒的な存在感が放たれいた。
 既に視線を手元に戻し、仕事を再開していた少女は、洗い終えたコップを傍らに置いた。その腕はざらついた銀色の鱗に覆われており、海のような蒼色をした長い髪の毛の間、彼女の耳元からはヒレのようなものが覗いていた。彼女は新たに皿を手に取りながら、何気なしに言う。
「ついさっき、マイケルくんが慌てて外に飛び出していったんですけど、もしかしてすれ違いました? あの子、友達と遊ぶ約束をまた忘れてたみたいで」
 そう言ってくすくすと笑う少女は、しかし大男が一切の反応を寄越さないことを怪訝に思い、彼のほうに目を遣りながら、呼びかけるようにして尋ねる。
「……ユリウスさん?」
 少女が怪訝そうに背後を振り向くと、ユリウスは先刻までその背に背負っていたものをどさりと床に下ろしたところだった。それは、気を失って目を閉じて睡(ねむ)っている少年だった。ユリウスとの体格差も相まって、少年の背格好はとても小さく、その身体が床に投げ出された様子はまるで人形のようだった。
「その人……まさか、死んじゃったんですか?」
 おずおずと尋ねる少女に、ユリウスは静かに答える。
「問題ない。気を失っているだけだ」
「そうですか、良かった。でも、だったらどうして――」
 その答えに安堵し、更なる問いを重ねる少女の言葉が、彼によって遮られる。
「この少年、人間……なんだそうだ」
「……人間?」
 にわかには信じられない、といった風にゆっくりとそう漏らしたユリウスに、少女もまた半信半疑のままその少年の顔を覗き込む。
「まさか、そんな冗談――」
 少女がそう言いかけたとき、耳を裂くような破裂音が辺りに響き渡った。手にしていた陶器製の皿を取り落としてしまったのだ。驚いたユリウスはその音につられるようにして白い破片が散る様子に目を向けたが、すぐに少女自身の異変に気が付く。
「――あ、うう……っ!」
 両手で頭を抱えた少女は身を屈め、蹲ってただ呻いていた。
「……おい、突然どうした!」
 ユリウスは、少女が突然苦しみの声をあげたことに驚き、怒鳴り声をあげた。しかしそれ以上に彼を困惑させる要素が、また別にあった。
(突然……)
 なんの前触れもなく、両手で頭を抱えて、呻き声をあげる、獣人。ユリウスは、先刻この少年を襲っていた、獣人の女の姿を思い出していた。
 ――共通項としてその瞳の先にあったのは、この人間の少年の姿だった。
 暫しその偶然に首を傾げて沈思黙考してしまったユリウスは、はっと我に還ると、少女の名を呼ぶ。
「……大丈夫か! おい、しっかりするんだ、ラウラ!」
 ラウラと呼ばれたその少女はふらりとバランスを失ったように倒れ込み、ユリウスは慌ててその身体をがっしりと支えた。激しい動悸と不安定な呼吸の中、ラウラは掠れた声でどうにか答える。
「何、どうなってるの……頭の奥のほう、割れそう、で……私、この人のこと――」
「どうも嫌な予感がする。この少年から離れたほうがいい」
 ユリウスは諭すように言ったが、ラウラは尚も、彼に何かを訴えかけようとしていた。
「この人のこと、知ってるんです……」
「……何だって?」
 ラウラは自らの力を振り絞るようにゆっくりと立ち上がり、今なお目を閉じたまま眠り続ける少年の許へ、ふらふらと歩いてゆく。
「昔、街にいた頃の――大切な、ともだ、ち」
 その足取りは今にも倒れてしまいそうなほどに弱々しく、ユリウスをひどく不安にさせたが、しかし彼女の強い意志に気圧されたように、彼はじっとその場で見ていることしかできなかった。
 ラウラは倒れ込むようにして少年の傍らへ屈み込み、その顔を覗き込む。やはり脳の奥を抉られるような苦痛を感じて思わず顔をしかめたが、しかし初めにこの少年を見たときのそれよりは、幾分ましになったようだった。
「エ、リアス……やっぱり間違いない。この人は、街の住人です」
 ラウラは驚きを隠せない、といったふうにおずおずと、やがて興味深げにまじまじと、少年の顔を見つめていた。彼女がエリアスの姿を最後に見たのはもう三年も前のことであり、そして三年という歳月は思春期の少年に大きな変化を与えるには充分すぎるほどの期間である。
「どうして、こんなところに……」
 彼女はいつしか、彼の頬に触れようと無意識のうちに手を伸ばしていた。伸ばしながら、在りし日の記憶を思い起こそうと努めた。しかしそこで、彼女は気付いてしまう。何よりも大切だったはずの記憶が、跡形も残っていない、ということに。
 断片的に現れ、流れては消えてゆく風景には濃い霧のようなもやがかかっていてそれ以上近付くことは叶わず、そこにあったはずの想いは姿さえ捉えることができない。目の前のこの少年がとても大切な存在だったということ、ただそれだけが、少女にとっての少年に対する想いだった。
「いつもの散歩道を歩いていたら、他の好戦的な輩に襲われていたから庇った。俺が言えることはそれだけだ」
 一粒、知らず涙を零した彼女の背に向かって、ユリウスは淡々と言った。
「今は安静にしたほうがいい。奥で休んでくるんだ」
「でも……」
 ラウラは彼のほうを振り向いて反論すべく口を開いたが、しかしすぐに立ち上がる。
「この人は……エリアスは、ただ気を失っているだけなんですよね?」
「ああ。じきに目を醒ますだろう」
 そんな確証はどこにもなかったが、ユリウスは敢えてきっぱりと断言してみせた。不安げに揺れ動く少女の瞳に、少しでも元の輝きを取り戻してあげることが、今現在の彼が最も望むことだった。
「洗い物の続きは、俺がやっておく」
 ラウラはなおも後ろ髪を引かれるように、閉じたままの少年の眸を見ていたが、やがてこくりと肯いて、言う。
「……じゃあ、私は奥で休んできます。彼が目を醒ましたら、呼んでください」
 そう言って奥の部屋へと歩き出した彼女は、軽く振り向いて続ける。
「でも、洗い物はそのままにしておいてください。ユリウスさんに任せたら、お皿が幾つあっても足りませんから」
 冗談めかしてそう言った少女の声は、不安と動揺と疑問、そして幾何かの期待とが混ざり合い、それらの重みで圧し潰されてしまいそうなほどに、弱々しく震えていた。
 やがて彼女は去り、沈黙の帳がゆっくりと降りてゆくのを感じながら、ユリウスは大きく息を吐いた。先刻、ラウラが漏らした言葉を、心の中で反芻する。
(街にいた頃の、大切なともだち)
 今まで何も鑑みることなく暮らしてきたが、しかし考えてもみれば、彼がガラクシアに渡ってくる以前にも、現在のような生活があり、他者との繋がりがあり、そしてそれに付随する数え切れないほどの思い出を少なからず持っていたはずだった。
(俺が、街にいた頃――)
 ユリウスは、こめかみの辺りに鈍い痛みが走ったのを感じた。街にいた頃の記憶など、何一つ思い出すことはできなかった。時の奔流というものは誰にも止めることはできず、その流れに揺られ続けた想いはやがて過去のものとなり、人がいつしかそれを忘れゆくのもまた道理ではあるが、しかしこの感触はあまりにも不自然ではあるまいか。
 そして、あまりにも作為的ではあるまいか。
 彼は、もう一度少年の顔を見る。少年は今までと変わらず幸せそうに、そして俄かに苦しそうな表情を湛えたまま眠っていた。島に紛れ込んだ、街の人間。堅く閉ざされた、記憶の扉。あまりにも偶然な、少年と少女の邂逅。
「一体、何が起こっているんだ……」
 ユリウスは、黒い剛毛に覆われた自らの太い腕を見下ろしながら、そう呟いた。
 家屋の外では、彼がこれまで守り育ててきた幾人もの幼い獣人たちが無邪気に遊んでいる声が、絶えることなく響いていた。



 ぼんやりと視界の先に現れた光がやがて線を結び、世界の形を成してゆく。心地良かった微睡みの終わりに訪れた扉、その先にあった風景は、いつものそれとは異なっていた。
(ここは……?)
 そこは見知らぬ家屋の中だった。セメントで塗り固められたような灰色の壁に囲まれた室内は綺麗に整頓されており、その無機質な印象に反して、人が生活している息吹のようなものが感じられた。
(……そうか。ここは、ガラクシア)
 エリアスは身体にかけてあった古い布切れを剥がして起きあがると、寝惚け眼で辺りを見回す。
(舟に乗って、ガラクシアに渡って……)
 自らが辿ってきた、まるで絵本の中の冒険のような顛末を反芻するうちにやがて、彼の生命を狙って突然襲いかかってきた獣人の姿へと行き着いた。
(あの獣人に殺されそうになって、そして――)
「目を、醒ましたようだな」
 そこまで考えたところで、背後から男の低い声がかけられた。エリアスが心底びくりとして振り向くと、文字通り熊のような大男が、奥の部屋から出てきたところだった。
「え、ちょっと、その……!」
 完全に動揺し、片膝をついたまま後ずさるエリアスに、大男は呆気にとられながら言う。
「俺はあんな下衆な輩のように、お前を取って食おうなんて考えちゃいない。だからそんなに慌てるんじゃない」
 大男がそこまで言ったところで、エリアスのほうも完全に思い出したようだった。彼は、この獣人によって生命の危機を救われたのだ。
「貴方は、さっきの……だったら、ここは」
 彼が合点のいったような顔で言うのを見、大男は満足げに頷きながら言う。
「俺の住み処だ。ここにいる限りは安全だろう。少なくとも、先のように突然襲われたりすることはない」
「そうですか……」
 ほっと胸を撫で下ろしたエリアスは、はっと思い出したように言う。
「あ、さっきはその……危ないところを助けてくれて、ありがとうございました。僕はエリアス・バーゼルトっていいます。実はその、僕は街の人間なんですが――」
「ああ、皆まで言わなくとも分かるさ。俺はユリウス、見ての通りの獣人だ」
 ユリウスはそこまで言って、思い出したように加える。
「それとエリアス、お前が人間だということはここではあまり喋らないほうがいい」
「……あのルファという人みたいに、人肉を喰らう獣人がいるから、ですか」
 未だ克明に彼の脳裏へと刻まれている、先の体験を思い起こしながら、エリアスは答えた。
「ああいう狂った輩は特殊だ。ほとんどの獣人は神殿から配給される食料で満足しているさ」
「だったら、そんな隠し事をしたって――」
「どうやら俺たちは、街にいた頃のことを考えると激しい頭痛のようなものに見舞われるらしい」
「らしい、って……」
 エリアスは、目の前の大男の曖昧な物言いに首を傾げながらも、同時にその言葉は、ルファと名乗った獣人が突然頭を抱えて苦しみ始めた様子と結び付いていた。
「そしてお前は、街の人間だ。それは俺たちに過去を振り返らせるには充分な材料になるはずだ。事実、俺はここへやって来て一度たりとも街のことなんて気にもしなかったが、今日初めて考えさせられたんだ。俺が街で暮らしていた頃のことを」
 彼は窓の鉄格子の向こう、どこか遠くを見遣りながら、続ける。
「どんな場所で、誰と関わり、何を考えていたか、何一つ思い出せやしない。街のことで辛うじて思い出せるのは、《神殿》の暗く寒い檻の中から見ていた景色と、女王様の姿だけだ」
 ふん、と鼻を鳴らしながらそう言った大男の姿は、エリアスにはひどく寂しそうに見えた。
「エリアス……?」
 そのとき唐突に、部屋の奥へと繋がる扉のほうから、控えめに呟く少女の声が聞こえ、エリアスは自身の名を呼ばれて思わず振り向いた。そこに立っていたのは、身体中を魚のような鱗に覆われた獣人の少女だった。耳の辺りからはヒレのようなものも飛び出しており、まるで湖に泳いでいる魚のような外見である。
 どうしてこの少女が自分の名を知っているのか、彼にはそんな疑問は不思議と浮かんでこなかった。しかし、様々な感情の入り混じった瞳で彼のことを見つめる少女とは対照的に、彼女のことを見る彼の目は、初対面の者を見るようなものだった。
「あ、」
 はじめまして、と言いかけた彼を遮って、ユリウスが少女に声をかける。
「目を覚ましたか、ラウラ」
 何か違和感のようなものを感じ、一瞬だけ静止したエリアスは、ユリウスのほうを振り向き、そしてすぐに少女のほうに目を向ける。
「え……? えっと、ユリウスさん、今のは――」
「エリアス……」
 少女はくすりと笑みを零し、しかし少しだけ寂しそうな表情をしながら、きょろきょろと大男と少女を交互に見遣るエリアスの許へと近付く。
「ラウラ……?」
 その名前が、自然と口をついて出ていた。姿かたちは獣化の影響を受けて別人のように変わってしまったものの、その立ち振る舞いは、かつての彼にとってとても大切だった、斜向かいの家に住む少女のそれだった。
「本当に……本当に、ラウラなんだね?」
「ええ……」
 ラウラはそう言って、再会の感慨に浸っている目の前の少年を、神妙な顔つきで見つめていた。
「会えて、嬉しいよ」
 『嬉しい』。彼は心の底からそう思い、包み隠さずにその想いを口にした。しかし、その言葉を受け取ったラウラの表情は、彼のそれとはまた違ったものだった。
「……悲しい」
「え?」
 エリアスはそう言って、ぽつりと呟いた彼女をぽかんとした表情で見返した。彼女はその瞳に涙を溜め、じっと堪えるように震えながら、言う。
「私が街にいた頃、あなたは私にとって大切な友だちだった、それは分かるの」
 けれど、と言いながら、彼女は俯いて足許を睨みつける。
「……けれど、その他に何も思い出せないの」
「でも――」
 数瞬前の浮足立った感情は流れ去ってしまい、それでも尚、取り繕うように口を開いた彼を制するように、彼女は続けざまに言う。
「教えて? 街では、私はどんな暮らしをしていたの? 私たちは、どんな言葉を交わしていたの? そしてそこに、どんな気持ちを抱いていたの? ねえ、教えて?」
「何を、って……湖のほとりで、いつも一緒に話をした、よね?」
 言いながら同時に、
――『どんな場所で、誰と関わり、何を考えていたか、何一つ思い出せやしない』
 彼の脳裏には、先刻のユリウスの言葉が浮かびあがっていた。獣人は、人間だった頃のことなんて綺麗さっぱり忘れてしまっている。
「……本当に、何もかも忘れてしまった、んだね」
 彼のほうも、水を浴びせられたように小さくなり、寂しげに俯いた。抱いていたあらゆる思惑は打ち砕かれ、自らの心中で何かが沈静化してゆく感覚があった。
 自分は、心のどこかで楽観視していたのだろうか。
 自分は、根拠のない断定をしていたのだろうか。
 自分は、何を期待していたのだろうか。
 それは諦めに似た、しかし絶望とは違った、落胆だった。そもそも自分が何に突き動かされてここまでやって来たのか、それを理路をたてて説明することはできないが、何かの支えが外れてしまったような、そんな音がはっきりと聞こえてくるようだった。
「だがラウラ、おまえはそれを――記憶が失われたことを、『悲しい』と感じることができる」
 二人のやりとりをただ黙って見ていたユリウスは口を開くと、ゆっくりと低い声で諭すように、言った。
「ならばその感情を頼りにして、これから先も新たな言葉を交わし、新たな想いを抱くことができるだろう。悲しいとさえ感じることのなくなった者には、新たな未来は訪れない。俺はそう思うがな」
 無論ユリウス本人にも、そんな気休めのような言葉で二人の間に流れた重い空気を払拭できるなどとは微塵も考えていなかった。彼は彼の本音を口にした、ただそれだけのことだった。
「……僕は」
 長い沈黙ののち、エリアスが口を開いた。
「僕は、急にラウラのことが気になって、そのことだけに夢中になってここまで来たんだ」
 俯きがちに足許へと目を落としていた少女は、自らの名を呼ばれたことにはっとなって、その顔を上げる。
「私の、ことが……?」
「……そう。僕はきみを、迎えに来た」
 彼はどこか自信のなさそうな眸をしてそう言い、ラウラはそんな彼と視線を交わすことでそれに応えた。
「今の私には、あなたに対して何か想いを抱くことさえできないけれど、せめてあなたの想いを感じることはできる。だから、もっと聞かせてほしいの。昔のことや、現在(いま)の街のこと、そして――」
 彼女はいつしか自然と、微かな笑みを零していた。そしてそれを見たエリアスもまた、思わず口元をほころばせる。
「そして、あなたのことを」
 ユリウスは彼女の瞳に、普段通りの輝きが戻りつつあることに気が付いた。安堵の溜め息を吐くようにフン、と鼻を鳴らして立ち上がると、のしのしと家の外へ出て行った。
 その眸は満足げな、しかしどこか寂しげな光を湛えて、遠くのほう――島を取り囲む湖の、向こう側――をぼんやりと映し込んでいた。



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