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 テーブルの下で寝そべっていた俺の腹を、ぶらぶらと揺れるフリッツの足が蹴った。俺は低い唸り声を上げてテーブルの下から這い出たが、ペンを額に押し付けながらぼそぼそと何やら小声で呪文のように唱えているフリッツは俺のことなど完全に意識外のようだった。
 宿題の作文用紙と睨み合って眉間に皺を寄せている。こいつ、まだ終わってなかったのか。確か卒業式は三日後だってのに。
「こら、何見てるんだ。ずるはいけないぞ」
 背後から現れたバジリウスがフリッツの目の前から小さな紙切れを取り上げた。
「あ、返せよっ。ただのメモだから」
「お前の字じゃないじゃないか」
「いいだろ、何でも。宿題出せなくて、また六年生やり直さなきゃならなくなったら、お父さんのせいだからね」
 バジリウスは息子に脅されて渋々メモを返す。大丈夫かこの父親は。まぁ、それを補って余りある強力な指導者がこの家庭にはいるのだが。
「自分の仕事は自分の力でやりなさい。それができないような大人になるくらいならずっと小学生のままで結構です」
 マルガレッタは本から目を上げることなくそう言い放った。

 街に戻ってから三日目の昼。色々あったが結局俺は見つかることも無くメイヤー家に潜伏している。昨日思わぬところから手に入れた、エルヴィンが神殿に捕らえられているという情報は無視できるものではなかったが、かといって仲間を助け出すために打てる手は恐ろしく少ないように思えた。行動しなければならない、だが大人しくしていればそこそこ平穏が保たれるといった、一種の均衡状態にあるのが現状だ。俺は朝からずっと再脱出計画について悶々と考えを巡らせていた。
「どういうことです。先日あなたは今日入荷されると仰っていたはずですが」
 マルガレッタがカウンター越しに本屋の店番にくってかかる声が聞こえてくる。さすがに本屋に犬は入れないということで、俺は車椅子と共に街燈の横で用が済むのを待っている。マルガレッタは俺に待つように言っただけで店の中へと入っていった。俺との間に多少信頼関係が生まれたということだろうか。そんな訳は無い。俺が逆らわないと確信しているのだ。
「あなたでは話になりません。店長を出しなさい」
 マルガレッタの要求に、店長であるところの彼女の息子が飛んで現れた。
「母さん、あ、いやお客様、本当に申し訳ないのですがその本は……その、入荷困難な状況で」
「それは“入荷できない本”だったという意味ですか」
「うっ……そ、そうです、がっ」
「なら何故入荷されるなどと言うのです」
 容赦ないマルガレッタの攻撃にバジリウスはほとほと困り果てたといった顔をしていた。
「あのー、先に会計してもらっていいでしょうか?」
 そのとき、マルガレッタの背後に並んでいた客が勇敢にもそう言葉を挟んだ。マルガレッタは意外とあっさり身を引き、客をカウンターの前へと促す。手早く会計を済ませる客を見て、俺はおや、と首をもたげた。
 妙な出で立ちの、恐らくは女性だった。フード状の布で顔をほぼ完全に覆っており、体も薄褐色の衣服で隅々まで包み込んでいる。街で見かけた記憶は無いが、何者だ? 顔に火傷があるか、あるいは何かの皮膚病を患っているのだろうか。
 客は購入した本を手提げに入れると、店の扉を開けて出てきた。俺の隣を通り過ぎる際、そのフードの下の顔がちらりと見え、俺は息を呑んだ。

 バジリウスの顔に本当に翳りが出そうになる前にマルガレッタは仕方ないと追求を止め、書棚から適当に抜き出した数冊の本を買って店を出た。扉のすぐ外で立ち止まり、表情を堅くする。車椅子とそれに繋がれていた犬が消えていた。辺りを見回してみるが人通りは無く、彼女は首を振って家のほうへ向かって歩き出す。表情は平然としていて背筋もしっかり伸びていたが、彼女の左右の歩は微かに不均衡だった。暫く歩いたところで躓きかけ、咄嗟に街路樹に手をかける。こめかみを汗が伝い落ちた。
 と、そのときどこからか軽い車輪の音が聞こえてきた。顔を上げると、角の先に無人の車椅子を引きずる犬の姿が見えた。そのすぐ横には先ほどの顔を隠した女性がいた。犬の前に屈み込み、何やら見詰め合っている様子だった。
 女性はマルガレッタに気づくと立ち上がり、犬を残して去っていった。マルガレッタは犬を呼ぶが、彼は反応せず女性が消えていったほうを見ている。
「どうして勝手にいなくなるんです。何かあったのですか」
 近づいていって犬の頭を軽く小突くと、犬はようやく彼女に気づいた様子で振り向き、
「あ、いや……」
 と煮え切らない反応を返した。マルガレッタは怪訝そうな顔をする。犬は、酷く困惑している様子だった。焦燥や危機感は見られないものの、妙に考え込んでいるようだった。
 マルガレッタは再び尋ねる。
「何かあったのですか」
「それが……」

 小学校裏の湖に面する小さな丘で、絵描きの女はいつもと同じようにスケッチブックを開いていた。その日は学校が早く終わったフリッツが近くにおり、彼女のスケッチブックを覗き込んでいる。
「うわっ、こんなでっかいのもいるんだ」
「はは、これは特別だったね。大抵はこれくらいさ」
 絵を見てくれる存在が嬉しいのか、絵描きは普段よりやや上機嫌のようだった。
「こういうのがいいなぁ。かっこいいし、強そうだし」
「君はそんなことを気にする必要は無い。ところでフリッツ君、私が言ったことは全て済ませたかな?」
「ん? あー」
 フリッツは絵描きに小さなメモを返す。
「一応やったよ。よくわからなかったけど」
「結構」
 絵描きは満足げに頷いてメモを受け取る。
「でもさ、何の意味があった訳? 先生にあんなこと言ったり、校舎の掃除なんてめんどくさいことやったり」
「一見無意味に見えることの積み重ねが行為の意味そのものなのだよ。兎にも角にも検証の準備は整ったわけだ。礼をしなければね。僅かで申し訳ないのだけれど」
 絵描きはフリッツに小銭を手渡す。フリッツはにやっと笑うと、絵描きに別れを告げて街のほうへと走っていった。絵描きは彼に手を振りながら含み笑いを浮かべる。
 スケッチブックを畳んで画材をしまおうとしたとき、唐突に
「イザベル・シュミットさん」
 背後から声がかけられた。
 絵描きははっと顔を上げて振り返る。校舎の陰になった薄暗い物陰に、顔を布で隠した一人の女性がいた。ゆっくりと落ち着いた足取りで絵描きに近づいてくる。
「あの子が被験者なのですね? イザベルさん、あなたの島の研究の」
 イザベルと呼ばれた絵描きは大仰に肩を竦めて見せる。
「島の研究とはまたまた。私はここから見える湖の景色が気に入っているだけさ」
 顔を隠した女性は少し考える仕草をして、
「……お願いです、何か島や神殿についてご存知のことがあれば教えてください。私も知りたいのです」
 とイザベルに嘆願した。イザベルは些か戸惑った様子を見せる。
「子どもたちから私の噂を聞いたのかな? 残念ながら私は別に──」
 そのとき唐突に湖のほうから風が吹き上げた。突風はイザベルの抱えるスケッチブックをさらい、彼女の周囲にスケッチが舞い上がる。イザベルは慌ててそれらをかき集めようとしたが、既に顔を隠した女性の目にとまってしまっていることに気づいて、諦めたようにふっと笑った。
 それらには街の人間には知り得ないはずの様々な姿かたちをした獣人のスケッチが描かれていた。はっきりと細部まで描かれているものもあれば輪郭しかわからないようなものもあったが、どれもが共通して船上の檻に入れられた状態で描かれていた。
「これは……」
 そのうちの一枚を女性が拾い上げる。動揺している様子の彼女に、
「それが獣人なのさ。初めて見ただろう?」
 隠すことをやめて開き直ったのか、イザベルはどこか得意げな様子でそう言った。
 女性は頷き、別のスケッチを拾い上げて眺める。顔を覆う布の下の目元が不快そうにぴくりと震える。

 何事も無く時が過ぎていく。色々なことをそのままにして、俺は不安定ながらも街で暮らし続けていた。少し前までは早く助けに行かなければという思いが強かったのだが、あの女の言葉でそれも本当に均衡状態へと移ってしまい、なし崩し的に俺は飼い犬としてメイヤー家でだらだらと過ごしていた。
「それでは次に、ご来賓の方々の……」
 舞台のほうから見覚えのある教師のいつもより数倍張り詰めた声が聞こえてきた。市長や高等学校の先生などが卒業生に向かって短い祝辞を贈っていく。
 フリッツの通う小学校、つまりまぁ俺も通っていたところなのだが、そこは卒業式などの行事を屋内運動場で行う。この屋内運動場というのが本当に運動場に屋根をつけただけというなんとも貧乏臭い建物だった。そのお陰で、俺はマルガレッタやバジリウスと共に特例としてフリッツの卒業式に来ている。まぁ人垣で式の内容は全く見えていないのだが。
「続きまして、本日ご来席くださる予定でした教会のペーターゼン神父ですが、ご都合がつかず代わりに孤児院長のリンガー氏におこし頂いて……何?」
 何か間違いがあったのかごにょごにょと話し声が聞こえてくる。
「失礼致しました。リンガー氏もご急なご予定が入ったとのことで、修道院のカテリーネ・ラングさんに来ていただきました」
 何だって?
 壇上で椅子を蹴って立ち上がる音が聞こえた。懐かしいあの震える声で、
「はっ、初めまして……! 孤児院の、先生です。よろしくお願いしまっ……す」
 カテリーネは何故か自己紹介をした。
 何でカテリーネなんかが呼ばれているのだろう。孤児院にも修道院にももう少しましな人材が何人かいたはずなのだが。というより素直に欠席扱いにしていればよかったものを。
「ほ、本日はお日柄もよく、湖も実に美しい、ですねー! 島がよく見えて……あ、ごめんなさい、私、えっと」
 がくがくという音は彼女の足の震えだろうか。彼女の言葉は途切れてしまった。俺の覚えている中でも最大級の上がりっぷりだった。目も当てられないとはこのことか。カテリーネの今の赤面が前に座っている人の背を透かして見えるかのようだった。
 俺がそっとため息をついたそのとき、突然前方から子どもの声が聞こえた。
「せんせーい、頑張ってー!」
 どうやら卒業生の席に座っている孤児院の子らしい。父兄席がひそひそと囁き合う声で揺らいだ。これでは彼女が何のためにここへ来たのかわからない。
 カテリーネは掠れた声で卒業おめでとうございますとだけ言って腰を下ろした。始めからそれだけを言えばよかったんだよ。何を緊張することがあるんだ、卒業式なんかに。
 だがそれが彼女なのだ。俺は一気に体の力が抜けた気がして地面に伏せる。マルガレッタが目線だけよこしてきたが、鼻を鳴らして答えた。

 退屈な式典はやがて終わり、学校の校庭は溢れ出す人で一気に騒然となった。卒業生は、家族と言葉を交わしている者もいたが無邪気に友達とはしゃぐ者が大半だった。友人たちと最後かもしれない時を共有しているのだろう。これで彼らは一年間の長い休みに入る。それが明ける頃には、もう二度と会えなくなっている奴もこの中にはいるのだ。五人に一人ほどの割合で。
「フリッツも卒業か。早いもんだなぁ」
 友人たちと話し込んでいるフリッツを遠目に見ながらバジリウスが感慨深げに呟いた。
「三年前にも聞きましたよ、その言葉は」
「ああ、ラウラのときか」
 急にバジリウスの声のトーンが下がる。大方ラウラとやらが島に連れて行かれてしまったときのことを思い出しているのだろう。
「晴れの日に暗い顔をするのはよしなさい」
 マルガレッタが窘めるように、しかしどことなく普段よりいたわりげのある声で言った。
 と、そのときふと視界の端に修道服姿の女性が映った。カテリーネだ。人の目を避けるようにしてこそこそと教会へと帰っていく。この街の教会は学校のすぐ隣にあるため、彼女は徒歩で来ていたのだ。
 俺は無意識に彼女に向かって歩いていた。急に首輪が後ろから引っ張られ、
「こら、どこへ行くのですか」
 マルガレッタに咎められた。俺ははっとして歩みを止める。マルガレッタは俺の視線の先に眼をやり、カテリーネに気づいた様子で
「……ああ、あの方ですか」
 と小声で呟いた。振り返ると俺のほうをじっと見ていたマルガレッタと目が合い、びくっと肩を震わせる。彼女は妙に神妙な顔つきをしていた。
「今日は神父様も院長先生も見えないとのことでしたね」
 何を言っているんだ?
 彼女はバジリウスの肩を叩くと、
「教会に用があるのを思い出したので、少し寄っていきます。フリッツを頼みますよ」
 と声をかけて俺のほうへ視線を戻した。
「何をしているんです。聞こえていたでしょう。さぁ行きなさい」
 俺は不審に思いながらも言われたとおり教会へと車椅子を引っ張っていく。
 カテリーネは孤児院へは戻らずに礼拝堂へ入っていった。俺は扉の前まで来てマルガレッタの顔色を窺いながら言う。
「何だよ、用って」
「何だではないでしょう。あの方に話すことがあるのではないのですか?」
「……何で」
 マルガレッタは俺の首輪のロープを外しながら話す。
「前に街の何処かでであの方に会ったとき、あなたはあの方を見るために戻ってきたでしょう。あなた、孤児院の出身ですか? 随分と気にしていたようですが」
 話していないことまで全て見通されている。だが俺にとって不気味なのはそのことではなかった。
「……だからって何で俺をここに」
 この人に限って優しさが理由でもないだろうと予想していたのだが、マルガレッタは妙に苛立った表情を浮かべた。
「あなたが話すことがありそうだったからと言ったでしょう、それとも無いのですか?」
 真意は掴めなかったが、早く行ってこいと言っていることだけはわかったので俺は渋々扉を体で押して礼拝堂の中へと入っていった。
 礼拝堂の中は静まり返っていた。足音を忍ばせながらそっと身を滑り込ませる。背後で扉が音も立てずに閉まった。立地的に日照時間が短いためステンドグラスには今は日が当たっておらず、壁にかけられた安っぽい照明が最大限厳かに祭壇を照らし出していた。
 その祭壇の前に彼女の姿があった。跪き、祈りを捧げている様子だった。そんな姿の彼女はどういうわけか記憶に無かったため少し奇妙な印象を受ける。シスターなのは格好だけじゃなかったのか。何だか失礼だが。
 そろそろと長椅子の間を通って背後から彼女に近づいていくと、ぶつぶつと何やら呟いているのが聞こえた。祈りの言葉かと思って耳を済ませていると、どうやらそうでもないらしい。
 それは人の名前だった。幸いなことに俺は彼女が口にするどの名前も覚えていた。孤児院の子どもたちだ。確か俺の二つ下の年齢、つまり今日卒業式を迎えた連中の名前を、彼女はしきりに繰り返しているのだった。
 自然と歩みが止まった。俺の数歩先で、彼女は肩を震わせながら呟く。
「……これ以上、離れないで……みんな、ここにいてください……」
「かっ、カテリーネっ」
 彼女の名前が口をついて出てしまう。しまった、と思ったときには彼女はひぇっと妙な悲鳴を上げて手に持っていた何かを取り落としてしまっていた。俺は咄嗟に近くにあった長椅子の下へと身を滑り込ませる。
「誰、ですかっ。今日はここ、私しかいません、けど……」
 話に来たのに何で隠れているのか自分でもわからなかったがとりあえず息を潜めて待つ。
「気のせいって言う……ことかな……」
 本当に幻聴でも聞いていそうなほどやつれている顔が覗き見えた。彼女はよたよたと落としたものを拾い集めていた。首を伸ばして見ると、それは写真だった。引き伸ばしらしく、それぞれに子ども一人の顔が大きく写っている。俺も見覚えのある顔ばかりだ。それらは孤児院にいた子どもの顔だった。それも儀式で島に連れて行かれた奴ばかりだ。
「テオバルト、ロルフ、ヘルミン……」
 カテリーネは写真を拾い上げる度に写真の子の名前を呟く。それは彼らの名前を忘れまいと頭に刻み付けているように見えた。
 彼女の足元に最後の一枚が落ちている。俺の写真だった。俺が写真嫌いだったせいでまともな写真が残っていなかったのだろう、暗く陰になった顔が大きく写し出されていた。
「えーと、これは……」
 俺の写真を拾い上げながら彼女は目を閉じて額に手をやる。低い声で散々唸った後、彼女は首を振った。
「駄目、忘れた」
「ディートヘルム」
 ぼそりと呟く。俺の名だ。ここ暫く誰にも呼ばれていなかったから、何だか自分の名ではないような気がした。「犬」が本名のような気さえする。
 それはともかく、カテリーネの背筋が凍りつく気配が伝わってきた。
「誰です、かー……」
 びくびくと辺りを見回すカテリーネに、俺は心を決めてもう一度声をかける。
「ディートヘルムだ」
「はぁー……は?」
 カテリーネは呆けたような声を出した。まだ状況がわかってないのか。
「俺だよ、島から帰ってきたんだ」
「ま、まっさかぁ。はっはぁ」
 引きつった顔で笑うカテリーネに少々苛立ちを覚えた俺は、
「本当だって! 声は変わってるかもしれないけど、俺なんだ。舟を作って、神殿の目を抜けて脱出してきたんだよ!」
 とまくし立てるように言った。
 カテリーネは呆然とした声で確認する。
「本当に、本物の、ディート……何?」
「ディートヘルム」
「そう、ディートヘルム?」
「うん」
 カテリーネは震える声で、嘘、と呟いた。動揺してはいるもののある程度は飲み込んでくれたらしい。
「どこにいるの? 見えないけど。透明人間になったの?」
 それはない。
「その、椅子の下なんだけど……あっ、できれば覗かないでもらえるか」
 屈んだカテリーネの髪の毛が見えて、俺は慌てて言った。
「何でっ」
「だってほら、俺もう人間じゃないから。この姿、あんまり見られたくないんだ」
「そんな、いいじゃない!」
 俺の嘆願をあっさり蹴ったカテリーネ。
「大丈夫、多分私、別に腰抜かしたりしないから。多分。……駄目かな」
 同じようなやり取りが数度繰り返されたが、カテリーネの様子が徐々に感情的になってきたのを見て俺は観念して姿を現すことにした。のそのそと椅子の下を這い出、彼女の背後に座った。緊張を漲らせつつ声をかける。
「こっちだよ」
 振り返って俺の姿を見た彼女は、
「ぶっ」
 と吹き出した。予想はしていたが俺は少なからず傷ついた。
「かなりましな方なんだぞ、これでも」
「犬が、喋ってる……っ」
 カテリーネは堪えきれず声を上げて笑い出した。俺は体の力が抜けるのを感じながらも、他の獣人がどれだけ酷い姿をしているかや、俺のこの姿のお陰で街に潜伏できていることなどを言い聞かせる。
 やがて、涙を拭いて笑い止んだカテリーネは屈みこんで俺に視線の高さを合わせた。涙の跡が残る顔に懐かしい彼女なりの笑顔を浮かべている。心から笑うことの苦手な彼女は、いつも苦笑いのような笑みを浮かべていた。だが俺はそんな彼女の顔を正面から見ると何故か気負いが削げ、話し方も訥々としたものになってしまう。
「何か……あった? 俺がいない間」
「ううん、特には。あ、二人島に行っちゃったっけ。ほら、この子たち」
 写真を見せてくれる。こいつらもあそこに来ていたのか。
「……俺は会ってないな」
 俺の顔に期待しているような視線を送るカテリーネに、俺は先読みして断りを入れた。彼女は残念そうに笑う。
「そっか……。あ、あの子は? ほら、覚えてないかな、頼んでた私の友達」
「あー、ルファ? 見つけたよ。っていうより見つかった」
 カテリーネのかつての親友だったらしいルファという女性はカンガルーの獣人になっていた。酷く凶暴で、配給が止まって皆が飢えていた頃に一度襲われたことがある。あの時は文字通り骨を折られながらも何とか逃げ出したが、後にそれがルファという名だと聞いてなんとも絶望的な気分になったものだ。カテリーネにはその辺りの事情は伏せ、元気にしていた、今も多分生きているとだけ言っておいた。
「そっか、よかった。ありがとうね」
「……別に」
 よほど大事な友人だったのだろう。俺に会ってくれと頼んだのは、単純に俺の気持ちを無視してということだけではなかったのかもしれない。喜ぶ彼女の顔から目を逸らす。椅子の上に置かれた子どもたちの写真が目にとまった。
「それは? 島に行った奴らばっかりみたいだけど」
「ああ、うん」
 彼女は声を落として写真を手で撫でた。
「いつもこうして持ち歩いてるんだ。私忘れっぽいから会ってないと忘れちゃいそうで」
「忘れっぽい?」
 俺はその言葉が引っかかって聞き返した。
「うん。普通に生活してると皆のことだんだん忘れていくから、毎日見てるんだよ。もう会えないってわかってるんだけど……」
「まぁ俺は頑張って再会したわけだが」
 彼女は俺の言葉を適当に流す。
「うん。でもね、あんまり話さなかった子だと、五年くらいでもう名前くらいしか思い出せないの。どんな声で、どんな性格で、とか、別れたときの悲しさとかも、全然……」
 カテリーネは眉間に皺を寄せて首を振る。
 ……覚えがある。それは俺が島で経験したことと全く同じだ。あれは獣化や神殿の再教育によるものだと思っていたが、何故それがトラヴィーダの住人にまで起こる? この街の住人に対しても、神殿は何か、意識の操作を加えているのか?
「俺は覚えてる。島のことも、昔ここで暮らしてたことも」
 島を出ると心に決めたときから、俺は記憶を留めておくことができるようになった気がする。自意識が強ければ忘れはしないのだ。島には無かった、忘れてはいけない色々なことを。
「カテリーネ!」
「は、はいっ」
 背筋を伸ばした彼女の目を俺は真っ直ぐ覗き込む。
「俺、ここで暮らせないか? 今、ちょっと事情があって性悪な婆さんに飼われてるんだけど、向こうもこっちも手を切りたいって思ってるから、ペットを譲るって形にすれば多分納得してくれるはずなんだ」
「え、でも……それは」
「俺はみんな覚えてる、記憶力はいいほうなんだ。カテリーネが忘れそうになったら、いつでも思い出させてやれる」
 一息置いて、再び声に力を込める。
「昔みたいにって訳には行かないだろうさ、俺は犬だから。でも、俺は──ここで、毎日カテリーネ……や、皆の顔を見ていたいんだ、頼む……」
 そのとき急に礼拝堂の扉が開いた。俺は飛び上がりそうになりながらもさっと椅子の下へ隠れる。
「あ、ああ、神父さん。神父様じゃないですか」
「ああ、留守番ご苦労様。何か変ったことは? 誰か客が来たりは」
 留守番? ひょっとしてカテリーネは卒業式に出ることを言ってなかったのか?
「え? あ、いや、何もないですね。何もないです。何もな」
「もういい、とりあえず落ち着いて」
 恐ろしく挙動不審なカテリーネに神父はそう声をかけると、立ち上がるときカテリーネがまた落とした写真を拾おうと屈んだ。まずい、見つかるかも。
「こら、ここを散らかしては──」
「ほあぁぁぁぁっ!」
 奇声を上げて写真を拾うカテリーネ。神父は呆気に取られている様子だった。そりゃそうだ。
「そっ、そういえば神父様、お出かけになってたその神殿……神殿の方は何か、ありませんでした? 何か変な、何か」
 妙に神殿という単語を強調する言い方に、俺はふとある予感がした。
「何かって……いや。いつものように挨拶と報告書を届けに行っただけだが」
「そうですか! ご苦労様ですっ」
「カテリーネ、休んだほうが……」
 カテリーネは神父の言葉を踏み越えて声を上げる。神父に向かいながら俺に向けた声を。
「神殿はその、遠いですからね。でも毎週、街の人の様子などを詳しく報告しなければいけませんからね。神父様はクラーシェ様とも、ねぇ。仲良しですから」
「仲良しという言葉は相応しくないが」
「とにかくそういうわけなんですよ」
「どういうわけなんだ」
 ……そういうわけか。
 俺は可能な限り物音を立てないように椅子の下から這い出ると、カテリーネが両手を振って神父の気を引いている間に見つからないよう姿勢を低くして外へ通じる扉へと向かった。扉を押すときに背後で
「振り向かないで! こっち見て!」
 とカテリーネが叫ぶ声がした。直後、扉が閉まる。礼拝堂へ入ったときには無音だったのに、扉は今は酷く重い音を立てた。
「もういいのですか」
 ずっと外で待っていたらしいマルガレッタが声をかけてくる。俺は暫くの間扉を見上げていたが、長居するのもよくないと思いマルガレッタの元へと戻っていった。
 俺の首輪にロープをかけながらマルガレッタが言う。
「私は教会には毎週通っています。次の日曜日、またここへ来ます」
「……俺は待ってるよ」
「……そうですか。でも車椅子は牽いてきてください」
 これはマルガレッタなりの気遣いなのだろう。だが俺は金輪際、可能な限り教会へは近づかないほうがいいらしい。現在俺の捜索は無いとの言質はあるものの、神殿と繋がりのある人物の目に姿を晒すのは愚行だろう。それにカテリーネの心遣いを放り出してしまうことになる。
「帰りましょう」
 マルガレッタがそう言い、俺は頷いて車椅子を引っ張った。

 表の校庭では少しずつ人が去っていき、卒業式後の賑わいは裏手にはもう届かなくなっていた。
「これで今年も始まりますね」
「ああ。そうだな」
 顔を隠した女性がいつもの定位置で湖に向かうイザベルにそう言った。
「しかし今年は違う。何人かにほぼ確実に安全な助言をしたから。凄いことになるぞ、全員が島へ行かなかったら。軽く商売になるかもしれないな、島へ行きたくない子どもに神殿の“選考基準”を教えてやるというのは」
「けれど、本当なのでしょうか……」
 顔を隠した女性は不安そうだが、イザベルは自信満々にのたまう。
「心配は要らないよ、シェデムさん。私の研究は検証も済んでいる。これは実験ではない、実践なのだから」
「でも、そもそも神殿側が島へ送る子どもを選んでいるなんて、聞いたことがありませんし」
 イザベルはやれやれと手先でペンを回しながら首を振った。
「君はどうしてそんなに私を信用できないんだい? 君は私が頼りなのだろう? 島に連れて行かれた息子の敵を取りたいのだろう? なら黙って信じたまえよ」
「……ええ。わかっています」
 シェデムは静かな決意に満ちた声で返事をした。胸に当てた拳が強く握り締められている。
 イザベルはそれを横目でちらりと見ると、一人頷いて腕を組む。
「さて、最初に誕生日を迎えるのはメイヤーさんのところのフリッツ君か。誕生日後の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。……彼自身は島に対して興味を抱いているようだったけれどね」

 暗く狭い地下道を抜け、梯子を上ると人影の無いどこかの建物の裏手に出る。顔を隠した女性はフードの形を整えると、裏口のような扉を開けて建物の中へと入っていった。
 建物の内部は広かったが、人と擦れ違うことも何度かあった。忙しそうに歩いている者は彼女を無視し、廊下の隅で仕事を怠けている者は彼女に「こんにちはシェデムさん」と気さくな挨拶を投げかけた。
 彼女は長い廊下を歩き、その隅にある小さな階段を上っていく。何度も分かれ道を過ぎていくうちに人通りは徐々に少なくなっていく。
 廊下の突き当たりにある小さな扉の前で彼女は立ち止まった。部屋の中にいる誰かが彼女の気配を察して扉を開く。部屋に入ると、背後で扉に鍵をかける音がした。窓際に置かれた椅子に腰を下ろすと、彼女はフードを取り去って椅子の背にかけた。白く透き通るような顔と長い髪が露になる。彼女は頬杖をついて窓の外に広がる湖と、それに囲まれた島をぼんやりと眺めた。
 少し離れたところから従者が彼女に声をかける。
「お帰りなさい、クラーシェ様」
「……ああ」
 短い返事を返した彼女は従者のほうは見ずに手を差し出す。従者は彼女が要求しているものにすぐに気づき、散らかった大きな机の上から束になった書類を差し出した。
 クラーシェは書類を撫でるように見る。一番上の紙には「フリッツ・メイヤー 誕生日 10月16日」と書かれてあった。
「その子の儀式は、もう明日ですね。審査は間に合いそうですか?」
「いや……。必要ない……」
 書類を従者に突き返してクラーシェはそう言った。従者は書類を取り落としてしまい、慌てて拾おうと屈みながらクラーシェに尋ねる。
「必要ないって……あの、一番最初の子は島には入れないって言う、ルールですか?」
「違う。……既に島行きで決まっている」
「えっ、でもまだ資料を何も……」
 従者はまだ書類を拾えていない。クラーシェは従者のほうを振り向くと、
「……街には残せぬ。……彼が残ったという事実はあってはならぬ」
 と沈んだ声で言った。未だに書類を拾い上げようと努力している従者に目を留め、椅子から腰を上げた。
「……失念していた。お前の片腕……」
「えっ、そんな、謝ること無いですよ。落としたのは俺なんですから」
 従者は、羽毛で覆われた左腕をばさばさと振ってそう言った。



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