エピローグ


 ことこと、とスープが煮える音が聞こえてくる。かちゃり、という金属の音と、あ、という小さな呟きが続き、俺は床に寝そべったまま片耳を上げた。台所からは、大丈夫、大丈夫……と不安げな声が聞こえてくる。また何かやらかしたか。皿を割るくらいならもう慣れたが、もうそろそろそれ以上のことが起こるかもしれない。あの人は昔から、慣れれば慣れるほどひどい失敗をしでかすのだ。
 起き上がり、ちらりと傍らの車椅子を見上げる。そこに腰掛けるマルガレッタは、相変わらず落ち着いた様子で本を読んでいた。ちっとも楽しそうには見えないが、彼女に言わせるとそれくらいしかやることがないのだという。
 あれから……あの一件から、彼女は少し変わった。以前ほどの活力というか、覇気が感じられなくなったのだ。地震の折に足腰を痛めたらしく、以前のように散歩へは行かなくなり、晴れている日も家の中で読書にふけることが多くなった。角が取れて丸くなった、と言えばいいのだろうか。いや、もしかしたら今は鳴りを潜めているだけということなのかもしれないが、とにかく以前ほど俺に辛く当たることもなくなった。飼い犬の俺としては過ごしやすくなったとも言えるのだが、少し調子が狂う。
「あ、あの……出来たと思うんですけど……」
 台所のほうからカテリーネが顔を見せる。マルガレッタは顔を上げて、そう、と本を閉じた。
「いつもすみませんね。手間を取らせてしまって」
「いえいえ、そ、そんな……あ、運びますから、ちょっと待っててくださいね」
 カテリーネはまた引っ込むと、盆に載った昼食を持ってやってきた。
 体が不自由なマルガレッタのために、カテリーネは時間のある日はマイヤー家に昼食を作りに来るようになった。この家は子どもが二人とも島へ連れて行かれてしまっている。儀式で心を痛めた住民のケアが仕事である教会は、こういったサービスも行っているのだ。
「……随分と、暖かくなってきましたね」
 マルガレッタが窓の外を見て言った。カテリーネはすぐには言葉を返さず、スープを無事に食卓の上へ置いてから
「あ、はい。そうですね」
 と応えた。彼女も少しは学習しているらしい。
「まぁまだちょっと、外は寒いですけど。また、春になったら、こう……散歩に行かれるとか、外へ出てみてもいいんじゃないですか?」
「そうね……」
 マルガレッタは判然としない返事をした。そして一口、スープを啜る。
 俺はそのやり取りを黙って聞いている。と、カテリーネが身を屈めて机の下の俺を覗き込んできた。俺の顔を見てにこりと微笑み、
「君も、お外行きたいよねー?」
 と俺の頭を撫で回す。彼女は撫でるということに慣れていないらしく、随分と頭の毛並みが乱暴に乱されたが、俺はできるだけ元気がよさそうな声で鳴いて返した。
「わんっ」
 くすり、とカテリーネの顔が綻ぶ。
「前から思ってたけど、君の鳴き声、何か人が犬の鳴き真似したみたいな声だね」
 ……悪かったな、と半目で彼女に視線を返す。そりゃ二つの声帯を持ってるわけじゃないんだから仕方ないだろ。これでも頑張って似せている方なんだ。
「カテリーネさん」
「え、あっ、はぁっ」
 突然マルガレッタに呼ばれたカテリーネは、焦って身を起こそうとして机に頭をぶつけてしまう。机の上で食器ががちゃりと鳴った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です、私は……あ、ええと何でしたっけ? あの」
 マルガレッタは少し間を開けると、静かな声で言う。
「少し塩が効きすぎていますね。野菜は大分柔らかくなりましたが、まだ大きさが不揃いなのが気になります」
「え、はぁ。すみません」
 カテリーネはしゅんとして項垂れる。まぁいつものことなのでそれほど気にしたりはしないだろうが。
「けど……美味しかったです。いつもありがとうございます」
「……はぁ」
 マルガレッタにそう言われるのが意外だったのだろう、カテリーネの口からなんとも気の抜けた声が漏れた。

 昼が過ぎると、カテリーネは手早く後片付けをしてマイヤー家を後にした。
 彼女の去り際に、マルガレッタはいつものように俺をちらりと見る。最近は口には出さないが、気にしてくれているのだろう。俺がカテリーネに自分のことを話さないのか、ということを。
 あの地震のとき、俺の言葉は全く彼女に届いていなかった。今も彼女は俺のことをただの犬だと思っている。恐らく、今彼女の前で言葉を口にすれば、彼女には通じるのだろうと思う。俺の声が犬の鳴き声には聞こえていないのだから、話せば意思は通じるのだろう。けれど、俺は彼女の前では犬を演じることにしている。
 少し、不安なのだ。今の彼女の様子を見ていると、俺はただの犬であったほうがいいように思えてならない。彼女は以前よりも明るくなった。目元の影が消えている。話し方や振る舞いも、まぁ相変わらず不安げな様子は消えないが、それでもどこか声がやわらかくなった気がする。幸福ではないかもしれないが、不幸だとは言えない。その均衡を崩してしまうのが怖くて、俺は街で飼われているただの犬になることを決めた。
 ……ここがきっと、俺が落ち着く場所なんだろう、と思いながら、俺は日々を過ごしている。
 あれから一度だけ、街でクラーシェを見かけたことがあった。相変わらず得体の知れない雰囲気を醸し出していた彼女は、俺を見つけると人目のないところへ連れ込み、エルヴィンは一人で街を出た、とだけ伝えて去った。それが本当なのか嘘なのか、本当だとしてもどうしてそんな成り行きになったのかは一切わからない。確かめる手段もない。
 もしそれが本当なのだとしたら……一人で街を出たのだから、もしかしたら追放されたということなのかも知れないが、それでもきっとあいつが自分で決めた道であるような気がする。俺がこの場所に落ち着くことを決めたように……少し願望が入っているかもしれないな、これは。
 あくびをして、俺は暖炉の前に寝そべる。春が近づいているからだろうか、どうにも眠い。
 暖かな空気に包まれながら、俺は眠りに落ちた。




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