ラウラについて



 C居住区の行列の前の方で、もうすぐ配られる食料に気を取られていたラウラが異変に気付いた時にはもう、後ろに居たはずの獣人たちが、その化け物に道を譲り始めていた。行列が異様な動きで乱されていく。自分より前に居る獣人は誰も気づいていない。目の前に立つユリウスにすぐ知らせようとしたが、口が強張って上手く声が出なかった。代わりに、背中を力いっぱい叩いた。
 真後ろで悲鳴が聞こえ、ユリウスの動向を確認する間もなくラウラは振り向く。頬に生ぬるい液体が飛んできて、張り付いた。恐る恐る手で頬に触れ、確認する。液体の色は、赤黒かった。視線を感じて見上げれば、血がべったりとついた毛に覆われた狼の獣人と、目が合った。無造作に振りあげられた爪が見えたが、予想に反して、次に襲ってきた衝撃は、蹴りによるものだった。横腹からの蹴りはラウラの体を強引に地面へと押し倒した。爪は、肩をかすっただけだった。
「ごめん、大丈夫?」
 続けて腕をとられ、引っ張り起こされたラウラは、すぐに頷いた。助け起こしてくれのはエリアスだった。彼は腕を掴んだままで走り出したが、エリアスが無事なら先程真後ろで聞こえた悲鳴は誰のものだろうと思い、自分がいた場所に目を遣った。そこには、狼の獣人と組み合うユリウスの姿があった。二人の足もとでは、昨日再会したばかりの弟、フリッツが仰向けに倒れていた。
「待ってエリアス、フリッツが!」
 血飛沫が上がったのは弟の体からだったことに気付き、ラウラは叫んでいた。エリアスはその場で止まり、ラウラが指さす方向を見た。彼は一瞬、苦い顔で何かを言おうとしたがやめ、ラウラの腕を離した。
「まだ間に合うかもしれない」
 生身の人間であるはずの彼は、言うが早いか獣人二人の激しい殺し合いが起きているすぐそばまで駆け寄った。止める間もなかった。フリッツは助かって欲しいがエリアスに死んでほしくもない。ラウラは、恐怖に強張った足取りで、彼の後を追った。
 まだ距離が離れていなかったことが幸いし、エリアスに追いつきフリッツの傍まで近寄ることができたラウラは、戦う二人の様子を窺った。エリアスが二人の獣人の動きを読まずに飛び出したら止めよう、と思っての行動だった。すると、必死で狼の獣人とやり合って、他に気を配る余裕などないはずのユリウスと、視線が交錯したような気がした。ユリウスはそれを起点とするかのように、決死の形相で狼獣人の懐に潜り込み、股内からの足払いを掛けた。倒れはしなかったが狼獣人は少しだけよろめき、足もとに隙が生まれる。ラウラは一瞬呆気にとられたが、体全体を震わせながらも手を伸ばした。その手が、フリッツの肩を上着越しに掴んだ。弟の微かな体温を感じると震えは少し和らいだ。同じく隙を窺っていたエリアスが、背後から伸びた手に驚いたようだったが、すぐに体勢を変えた。彼はラウラと反対側の肩にまわると、掴んで引っ張った。それに合わせ、ラウラも引く。地面と服の擦れる音は、狼獣人から洩れる激しい呼吸にかき消された。
 そのまま安全地帯まで引きずっていくと、ラウラは手を離し、彼の上着の袖を、上腕の部分までまくった。フリッツは気絶してはいたが、苦しそうに顔を歪めていた。外からでもはっきりと確認できた腕の傷は思っていたよりも深く、ラウラは短い悲鳴を上げて目を背けた。
「肉が……」
 ぽつりと呟いたエリアスもまた、眉根を寄せ、その傷を見つめていた。
「どう……どうしよう、エリアス、このままだと、どうすれば……」
「と、とりあえず僕は、傷薬をかき集めてくる!」
「まっ……待って、私ひとりじゃ、どうすればいいか!」
 早速孤児院の方へと向かったエリアスはラウラの声も届いていない様子で、走り去ってしまった。ラウラは悄然と、フリッツに視線を落とした。
「ごめん。ごめんね。頼りないお姉ちゃんで……」
 力なく横たわるフリッツの手を、握りしめた。
「お願い、フリッツ、死なないで」
 力の限り握りしめても、フリッツは何の反応も寄越さなかった。
「会えたばっかりなのに、なんで、こんな……」
 言葉を呟くたびに、抑えがたいものが自分の中に溢れかえってくるのを感じ、顔を上げた。視線の先には、弟だけでなく、自分たち姉弟の代わりに戦ってくれているユリウスの体にまで、容赦なく爪を突き立てる狼獣人がいた。ラウラは狼獣人を睨みつけた。湧き上がってきたのは、普段のラウラの所作からは到底想像もつかないような感情だった。
 そしてその感情は、恐慌状態に陥っていたラウラをかえって冷静にした。この混乱に乗じて、自分たちを襲ってくる獣人がいるかもしれないという考えが、真っ先に浮かぶ。すぐに周囲を見回し、少し離れた場所に、空家が目立つ建物群があるのを見つけた。手近な空き家に目星を点けると、フリッツの傷に響かないよう、彼の両脇に手を差し込み、慎重に引きずり始めた。


 勝手に上がり込んだ空き屋の二階のガラス窓は、くすんでいて何も見えなかった。鱗が特に厚い肘の部分でガラスを割り、窓枠から身を乗り出して騒乱をじっと観察していると、一際体の大きな獣人が担がれ始めたのが見てとれた。担ぎ手がその体に埋もれる程の巨体は、ユリウスくらいのものだろう。ラウラは階段を駆け下りた。
 玄関近くには、フリッツが横たわっている。フリッツの着ていた服で止血の真似事をしてからは、傍に居ても何もできないと繰り返し唱えながら、二階の窓より広場の様子を監視していた。すぐ戻るからね、と意識を取り戻さないフリッツに呼び掛け、外に飛び出した。
 外に出てしばらく走れば、すぐにまた、すえた臭いが鼻を突いた。どれだけの獣人が死んだのだろう。向かう場所から逃げてくる獣人たちにもみくちゃにされながらも、ラウラはユリウスを探し続けた。獣人の群れを抜け出すと、摩擦がなくなり体が軽くなった。ほっと息を吐き、開けた視界で周囲を確認する。よく見てみると、獣人たちは、ある一点を凝視していた。その一点では、狼獣人の半分にも満たない体格の二人の獣人が、狼獣人の爪を折ったり背中を蹴飛ばしたりして奮戦していた。人間に近い猫の獣人と、カンガルーの獣人だ。息がぴったりと合った彼らは、お互いを上手くカバーしあい、手数では狼獣人を圧倒していた。
 いいようにやられる狼獣人を見て、自分の中の醜悪な感情が少しだけ薄れたような気分になったラウラは、一瞬だけ、ユリウスやフリッツの事も忘れ、二人の獣人に感情移入していた。
「ラウラ!」
 そこで後ろから声が聞こえ、ラウラは視線を外した。後ろには、傷薬など孤児院の備蓄を抱え込んだマイケルと、ユリウスに肩を貸したエリアスがいた。ユリウスの重みに耐えきれず、今にも体勢を崩しそうなエリアスを見て、ラウラは慌てて駆け寄り、ユリウスの右脇に肩を入れた。自分のような弱い獣人でも、人間のエリアスよりは力がある。こんな些細なことでも自分と彼とに突きつけられた明白な違いを感じ、ラウラは少しばかり顔を俯けた。







 空き家の一階は、五人で眠るには十分な広さがあった。随分と昔に作られた建物のようで、木壁に囲われた部屋の中央には朽ちたテーブルがあり、脚の部分が崩れてただの板となっている。触ったら崩れてしまいそうなタンスの隣に腰を下ろしたラウラは、板だけとなったテーブルの上に眠っているフリッツを見つめていた。
 あれから狼獣人は、生きながらにして喰い殺されたらしい。孤児院で暮らす獣人の一人が一部始終を見ていたようで、教えに来た。孤児院のメンバーにはフリッツ以上に重症なものは居らず、戦っていた二人の獣人も無事だそうだ。治療を終えていたユリウスはその獣人にマイケルを預けた。そして負傷した人員はそれぞれ手近な空き家に避難して一夜を過ごさせるよう指示をして、少し眠った。その間、ラウラとエリアスは寝付けず、終始無言だった。
「迷惑をかけたな」
 部屋の隅での仮眠を終え起き上がり、あぐらをかいたユリウスが、軽く頭を下げた。
「そんな! 迷惑だなんて……。ユリウスさんのお陰で、フリッツも、殺されるかもしれなかった他の獣人も、助かったんですよ」
 思わず前かがみになって訴えたラウラのことを気に留める様子もなく、ユリウスは包帯の巻かれた右手を見つめ、握ったり開いたりしている。
「俺は何もしていない。俗物だと思っていたあの獣人が……あいつが割って入らなければ、無駄死にしていたくらいだ」
「本気で言っているんですか?」
 驚き混じりにラウラが声を上げると、テーブルのすぐ近くでフリッツが目を覚ますのをじっと待っているエリアスも口を挟んだ。
「ユリウスさん……あまり、自分の命を軽く見ないほうがいいですよ。あんなに獰猛な獣人がいる中であの施設の人たちが生き残っているのは、あなたがいるからなんです」
 いつも世話焼きな自分とは違い、島に来たばかりのエリアスに言われ、ユリウスは少し言葉に詰まった。
「そんなことは分かっている。……俺はこれから、孤児院に残っている連中の番をしてこようと思う。エリアス、ここはラウラ一人でいい、君も安全な場所へ……」
 エリアスは慌てて首を振った。
「こんなところにラウラ一人だけ残すなんて、できません」
「君は人間なんだ。襲われたらどうする」
「でも、僕なら、ちょっとくらいは戦えるし……」
「あのイェニーとの戦いに、君が入り込む余地があったか? 怪我人を嗅ぎつけた奴にここを襲われれば、どうしようもない。死人が一人増えるだけだ」
「そっ……そんな言い方じゃまるで」
「俺たちは寄り集まって生きているだけなんだ。何かあったら守るが、守れるものにも限度がある。どうしてもここに居たいと言うなら勝手にしろ」
 彼はそう言い、ゆっくりと立ち上がった。頭が天井につきそうになり、彼は首を竦めて玄関から出て行った。
 エリアスは彼の背中を見送ると、溜息を吐いた。
「ラウラ、君も何か言ったら? あれじゃ、襲われたら潔く死ねって言っているようなものじゃないか」
 フリッツを挟んでラウラと向かい合ったエリアスは、憤りを言葉に滲ませ呟いた。
「実際に、そうなのよ、エリアス。私達が住んでいるのは、そういう場所」
「そうは言ったって、冷たすぎる」
 なおも食い下がるエリアスに、ラウラは首をかしげた。自分と彼との違いがこんなところにまで顕れている。
「冷たい? ユリウスさんのどこが? さっきから何を言っているの」
「だーかーら、いつも家事をこなしてくれてるラウラにあの物言いは無いんじゃないか、って言ってるんだよ」
 ラウラに対して初めて声を荒げたエリアスは、言った後で、鼻を軽くこすった。鼻の下あたりには、うっすらとではあるがひげが伸び始めているようだった。
「別に、いいけどさ。ラウラがそれで納得してるなら」
 それから再び、静寂が場を支配した。ラウラは立ち上がり、フリッツのすぐ傍に座った。右腕の下部と左足のひざの辺りに巻かれた包帯に染み出した血は、もう止まっていた。さすがにこの場から動かすことはできなかったが、ユリウスによれば獣人の治癒力なら問題ないだろうということだった。
 ラウラは、フリッツがここに来る前には無かった、額から突き出した角にそれとなく触れた。例え昔の自分がエリアスとどんなに親しかったとしても、今はフリッツのほうがはるかに、自分と近しい存在に思えてならなかった。こう思っている自分を知っても、エリアスは自分の事を連れ戻したいだなんて思うだろうか。たった今も、些細なことで意見が食い違い、自分が反論すれば口論にさえなっていたかもしれない。まったく常識の異なる場所で過ごし始め、二年余りもの年月が流れているのだ。逃げ出して生活するとなると、もっと多くの相違点が見えてくる。根本的な相違点というのは、いつか積み重なって亀裂となる。それに耐えてまで、彼は本当に、自分と一緒に過ごすつもりなのだろうか。
 嫌な想像が、頭を過る。途中で、エリアスが自分を見捨てたとしたら。自分と一緒に居ることが重荷になり、見世物小屋にでも売り払われたりしたら。そんなことあるはずがないと断言できるほど、今のラウラはエリアスを信頼してはいなかった。彼との島の外での暮らしはとても面白そうだとは思っても、実際に一歩を踏み出すにはまだまだ時間が要る。
「はぁ……寒い。どこかから風が吹きこんできてるみたいだ」
 長い静寂により憤りが抜けたのか、呟きは普段通りのエリアスの声音になっていた。ラウラは考えるのを一旦止め、顔を上げた。
「二階からかもしれない。さっき見たら、階段近くのガラス窓が割れていたから」
 実際には自分が割ったが、わざわざ言って乱暴な女だと思われたくはなかったので、小さな嘘をついた。ラウラはそれを誤魔化すように、鼻の下辺りを擦った。
「関係ないけど、エリアス、ちょっとひげが伸びてる」
 エリアスはラウラと同じように鼻の下辺りを触ると、驚き混じりの声を挙げた。
「うわ、本当だ。ガラクシアに来てから一週間くらいは経ったからなあ……」
「ひげなんて生えるようになったんだね、エリアス」
「街の同年代に比べれば薄い方だよ」
 どこか恥ずかしそうに言って立ち上がったエリアスは、随分と形の古い洗面台まで歩いていき、ほこりを巻き上げながら、何かを探し始めた。
「カミソリを探してるなら、ないと思う。獣人は使わないし」
「そうか……猫とかは、わざわざ切らないでも適当に生え変わるもんなあ」
 自らが撒き散らしたほこりに軽くむせた彼は、
「やっぱり、ひげがあると目につく?」
 と言って薄汚れた鏡をのぞき込み、うっすらとしか生えていないひげを撫でつけた。
「ううん。少し、頼もしく見えるよ」
「え、あ、ホント?」
 嬉しそうな顔が洗面台の方から覗き、ラウラは笑みを零した。
「嘘」
「ええっ、嘘?」
 エリアスが調子外れな声を上げたのが聞こえ、またくすくすと笑う。
「このまえ試合の事でからかったから、お返し」


 ユリウスとの会話の後に漂っていた険呑とした雰囲気はとうに消え、二人は並んで座って、ぽつぽつと言葉を交わし合った。今も続けているホッケーの試合のこと、北方の国が打ち上げたロケットのこと、ラウラも微かに憶えている友人たちの失敗談。聞いていてどれも楽しかった。ラウラは余計なことは考えず、話だけに集中することができた。
「で、エミールは結局、三ヶ月しか持たなかったな」
 今しているのは、自分から告白しておいて、気持ちが冷めたと言って自分から振った男の話だった。この話を選んで失敗した、とでもいうように、エリアスの声のトーンは徐々に下がっていた。
「その子とは知り合いだったから、あんまりだって言ったんだけど。反対に、女と付き合ったこともないエリアスには分からないって怒られちゃったよ」
 そう結ぶと、寒いなぁと呟きながら、両手を擦り合わせるようにした。
「なんだか、後味の悪い話でごめん」
「エリアスは本当に、女の人と付き合ったことはないの?」
 ラウラがなんとなく訊いた言葉に、エリアスは過剰に反応した。
「いや、僕は、ほら……」
 上ずった声に訝り、ラウラは隣に座るエリアスを振り仰いだ。
「小学生の頃に、いいなと思ってた子は一人、いた。でも、急に居なくなっちゃって、さ」
 エリアスは小さな声で言い、ラウラから逃れるように視線を床へ落とした。
「それでも、その人の事がどこかで引っ掛かってて……」
 ラウラは彼の考えていることがなんとなく読めて、頬を掻いた。
「……こんな姿になっていて、かっかりした?」
 ラウラは小さく、小さく呟いた。エリアスの耳には届かなかったようで、何か言った、とでも問うように顔を上げた。







 昼になって、フリッツはようやく目を覚ました。ユリウスの見立て通り、重症ではあるが獣人の治癒能力というものが勝ったらしい。ラウラは傷にさわらないよう軽くフリッツを抱きしめて生還を喜び、早く孤児院に戻ろう、と提案した。
 ラウラはエリアスにも手伝いを頼むと、フリッツを再びテーブルの板に寝かせた。二人でタイミングを合わせて持ち上げ、担架の要領でテーブルを運ぶ。担架のような受け皿がなく時折落としそうになるが、なんとか調整して二人は歩いていった。
「もうすぐ着くよ」
 後ろ向きに運んでいるエリアスと、不安げに揺れに身を任せているフリッツにそう伝え、ラウラは孤児院へと続く路地に差し掛かった。しかしそこで目にしたのは、無残にも破壊された孤児院の姿だった。
「え……」
 二棟ある孤児院のうち一棟のあった辺りには砂煙が立ちこめていて、その周りを孤児院の面々が肩を落として囲んでいた。囲んでいるのはただの瓦礫の山だった。ラウラはフリッツが寝ているテーブルの板を取り落としそうになり、慌てて力を入れ直した。
「ラウラ、どうかした?」
 十分に孤児院に近づいた所で、ラウラは足を止めるように言った。瓦礫の山を、掻き分けている獣人たちがいる。ゆっくりと板を下ろすと、ラウラはエリアスの問いかけには答えず駆け出した。
「み、みんな、これ、どういう……」
 ラウラが息を切らしながら言うと端に居た獣人が振り向いた。
「ラウラ! 無事だったか」
 この孤児院でユリウスの次に年長者の獣人はそう言うと、両手を広げた。ラウラも近付いて、軽く抱擁を交わす。
「どうして、この棟が」
「討伐隊だよ。あの人間どもが……滅茶苦茶にしやがった」
 その獣人は体を離して瓦礫の山を掻き分ける若い獣人らに視線を戻すと、憎悪をにじませた声音で、呟いた。
「けど、今、ユリウスさんがどうにか見つかって……」
 彼は少し弾んだ声で言い掛け、そして絶句した。
「ユリウスさん!」
 若い獣人四人がかりで引っ張り上げたのは、血まみれで目を閉じたユリウスだった。場に居た殆ど全員が、叫びに近い悲鳴をあげた。
 すぐに、瓦礫の中から手分けして包帯を探し出し、ラウラなどユリウスが行う治療を手伝ったことがある者が、懸命に傷口の上を縛り上げていく。その横で見ていることしかできない獣人が、瓦礫を蹴りつけた。
「ピンセット持ってこい! 一番大きいやつ!」
 ユリウスの次に年長者の獣人がそう叫ぶと、一人が答えた。
「まだ瓦礫の中です!」
「なんでもいいから弾を取り出せる物だ!」


 結局、ユリウスの容体が落ち着いたのはその日の夜だった。
 孤児院の面々は、瓦礫に埋まっていたルーペルトを見つけ、ある程度の生活用品を探し出した後、崩壊した棟と少し離れた場所にある小さな棟に移った。二部屋しかない棟の一部屋は怪我人用のベッドが押し込まれていて、ベッドの上には七名、ベッドの間の狭い隙間を縫い、十二名の獣人が窮屈に体を縮こまらせ過ごしていた。半ば物置となっていた奥の部屋にも、六名の獣人が詰め込まれている。イェニーの死によって気の大きくなった獣人たちが街では無差別の殺し合いを始めていて、力の弱い獣人たちはここに留まっているしかなかった。加えて冷風が入り込まない程度にしか窓は開けられていないため、空気が薄い。排泄などで少し外に出ようとしただけで文句が出る状態で、それぞれが苛立っていた。
「事故みたいなものだったんだよ」
 一人の獣人が諦めに似た言葉で呟けば、別の獣人が声を上げる。
「これが事故で済むか? 少しは考えてものを言えよ!」
「やめろって。怪我人の体に響く」
 ラウラは繰り返される口論を聞き流しながら、ユリウスとフリッツの眠るベッドの間に陣取り、雑用をしていた。街での殺し合いが早く終わるよう祈り、時折、近くにいるエリアスとも、会話を交わした。フリッツは変わらずエリアスを敵視しているようで、フリッツとの会話にエリアスが加わると途端に口を噤む。なんとなく、気詰まりだった。
「ラウラ、エリアス、お客さん!」
 そんな中で、玄関口の獣人が怒鳴った。
「はい!」
 ラウラは精一杯大きな声で答え、ごめんなさい、と通り道にいる獣人たちに謝りながら、跨いでいった。
 外に出ると皮膚にしみる夜風に煽られたが、一日のほとんどを中で過ごしていた身にはとても心地よく感じられた。
「初めまして」
 その獣人は、丁寧に挨拶した。夜闇で殊更際立つ白い羽毛に包まれた左腕に、まず目を魅かれる。なんて綺麗な羽なんだろう。
「どなたですか?」
 ラウラは羽から視線を外して顔を上げ、その獣人に問いかけた。後ろからエリアスが追いついた気配がし、その獣人は二人の顔を代わる代わるに見つめた。
「エルヴィンといいます。あなた方が島の外に脱出する機会を窺っていると聞いて、尋ねました。脱出に興味があるなら、ひとまず俺についてきてください」

 一も二もなくエルヴィンの後ろについて歩き始めたエリアスに、ラウラは戸惑った。見失わない程度に距離を開け、歩いていく。この男の言っていることが本当なのかは分からないが、頭の中では考えが堂々巡りを起こしていた。エリアスと居ると楽しい、でもエリアスの笑顔は本当は表面上のものなのかもしれない。争いの無い島外への強い憧れはあるが、これから厳しい生活が続くだろう孤児院を放り出して行くことは、何年も暖かく接してくれたユリウスたちや、会えたばかりの弟への手ひどい裏切りになる。ついて行きたい、ついて行きたくない、ついて行くわけにはいかない。どれが本当の自分の意見なのかが、分からない。
 エルヴィンが立ち止まったのは、鉄柵が高くそびえる湖岸だった。彼はそこで振り返ると、ある場所を指した。そこだけ鉄柵が破られ、手前には、水に浸かる前の舟が置いてあった。
「今日、討伐隊がこの島に上陸したのは知っていますよね?」
「知ってます。ここも被害を受けました」
 舟を撫でながら、エリアスが答えた。
「そこに人員が割かれて、沿岸の警備が甘くなってると俺は踏んでます。そこでこの舟を使って、今夜脱出する」
「どうしてそんな大事なこと、初対面の私達に教えるんですか? 私達が逃げ出したいと思ってるって、誰から聞いたんですか?」
 舟の入手経路など気になることはいくらでもあったが、ラウラはあえてそれらの質問はせず、一番引っ掛かっていることを訊いた。
「一人より三人の方が生き残る確率が高くなるからです。朝に孤児院を訪ねたら、たまたまユリウスさんが話しているのが聞こえて……」
 そこで彼は、何か嫌なことを思い出したように言葉を止め、首を振った。
「いや、そんなことはいいんです。時間がない。逃げたいのか、逃げたくないのか。今はそれだけが聞きたい」
「逃げます。僕とラウラ、二人とも……」
「待って!」
 二人の素早いやり取りについていけず、ラウラは大きな声でエリアスの言葉を遮っていた。
「私は、行くとは言ってない」
 エリアスは驚いたように振り返った。
「え」
 人間に近い姿をとっているエルヴィンは、ラウラを黙って見つめていた。
「捕まったら、あなたは送還だけで済むかもしれないけど、私は殺される。仮に脱出が上手く行ったとしても、その人くらいなら、腕を隠すだけで済むかもしれない。でも私は、こんな……こんな姿になっちゃったのよ。内心ではエリアスも気持ち悪いと思ってるんでしょう? あんまり、目を合わせてくれないもんね。エリアスですらそうなら、脱出したって、どんな扱いになるかは目に見えてる。あなたが私と居ることに飽きたら、私は、島に戻ることもできずに、こんな姿で、人間社会を生きていくしかなくなる……」
 エリアスに脱出を提案されてから、ずっと考えてきたことを一息に喋り切り、ラウラは息を吐いた。
「あなたは、違う。その人が信用できるかは分からないけど……こんな機会、二度と来ないと思う。だから、私のことなんか忘れて、一人で街に戻って。きっとみんな、すごく心配してるから」







 漕ぎ出した舟を、ラウラはぼうっと見つめていた。濃い闇の中で、舟が少しずつ離れていく気配を確認すると、鉄柵に開けられた大穴に目を遣った。この穴は、ルーペルトという獣人が直しに来る、だから心配しないで良いと、エルヴィンは言っていた。
「どうして、行かなかったの?」
 エリアスは結局、舟には乗らなかった。
「理由なんかないよ」
 彼はそう言って、何事もなかったかのように歩き出そうとした。ラウラは腕を取り、押し留める。
「教えて」
 エリアスはため息を吐き、振り返った。
「……まだまだ考えが甘かった、と思ってさ。ラウラの事、一生懸命考えてたつもりでも、全然足りなかった。馬鹿だと思われてもしょうがないけど、この島の生活に慣れ過ぎて、ラウラのその姿が、排斥の対象になるなんて考えもしなかったんだ」
 その姿、というのは自分の体のことだろう。額の中心から左眉にかけて広がる鱗を除けば、顔の造形はほとんど人間と変わらないとはいえ、肌は薄い水色。耳の後ろにはヒレのようなものがくっついている。首や肩、足などはびっしりと鱗に覆われていて、ぬめり気のある銀色を放つ。そして髪は、眼前に広がる湖と同じ色をしていた。必死にこれらの特徴を押し隠して生活したとしても、ひとたび姿を見られようものなら、どうなるかは容易に想像がつく。
「それなら、私を置いて街へ戻れば済む話で……」
「どうしようもなくトラヴィーダへ戻りたくなったら、脱出する方法を考えるよ。それまでは、あの孤児院にお世話になる。獣人よりずっと手先が器用だし、何かと役に立てると思うから。その報酬代わりに、余った配給を恵んで貰う」
「だから、どうして! どうして、そこまでして、こんな所に」
 理解が出来なかった。脱出するのが怖くなったのだろうか。急にあの獣人が信用できなくなったのだろうか。それとも何かトラヴィーダで辛い事があって、こちらへ残りたいと思ったのか。痛みを抱えているならその傷を抉るつもりはなかったが、せめて一言だけでも理由が訊きたかった。
 そんなラウラの想いに反し、彼は突然、地面に腰を下ろした。そして懐を探り、何かを取り出す。


 それは不思議な形をしていた。全体的な形状が丸みを帯びていて、横に長い。余裕をもって両手に納まる大きさだった。物体には、横並びで、それぞれ大きさの異なった穴が不等間隔に開けられている。そしてエリアスは、丸みから迫り出した部分に口をあてると、穴を押さえて息を吹き込んだ。すると耳朶を震わせたのは、記憶の彼方に刻まれた、懐かしい音色だった。彼はなおも、物体を愛でるように指を動かし、音を紡いでいく。綺麗なだけでなく、どこか熱い感情の昂りを感じさせる音色が湖岸に響き、ラウラの記憶にも揺さぶりをかける。ラウラはエリアスの斜向かいに座り、時間を忘れて聴き入った。
 やがて彼は、最後の音を丁寧に吹き終えると、少し荒れた唇をその物体から離した。ラウラは自然に、拍手をしていた。拍手をするたびに、なぜだかとても哀しくなる。
「ありがとう。練習したんだ。自分なりに」
 彼は照れくさそうに言うと、口をつけていた部分を袖で拭き、その楽器をラウラに差し出した。
「ラウラがいなくなったあと、おばさんから貰ったんだ。返そうと思ったら、記憶を失くしてて、なかなか言い出せなくて」
 ラウラはその楽器の名前すら覚えていなかったため、戸惑いながら受け取った。
「あ……練習してたのはもちろんこれじゃないよ。ちゃんと自分用のを買った」
 彼は自分が口をつけたのを嫌がっていると勘違いしたらしく、弁解するように言った。ラウラは戸惑いが霧散していくのを感じ、笑みを零して、その笛に口をつけた。ラウラはその場に立ち、どうすればいいのかしばらく迷っていたが、やがて、いつもの習慣をこなすように、指が自然と動き始めた。ラウラは音を噛み締めるように、目を瞑る。息を吹き込むたびに、唇が微かに震えるのが分かる。自分の奥底に眠っている何かを揺り起こす音色が、自分の奥底から湧き上がってくる。
 曲が終盤に差し掛かった頃、ラウラは目を開けた。そこには、音に酔うように聴き入るエリアスの姿があった。ふと、頬を、何かが伝った。それをきっかけに口許が震えて美しい音色が乱れ、何事かとエリアスが顔を上げた。
 次第に息を吹き込むことすらできなくなり、ラウラは『土笛』から口を離す。
「おかしいな……なんだか」
 ラウラは鼻をすすって、服の袖で顔を拭く。嗚咽が漏れ始め、我慢しようとすると余計に酷くなった。
「随分昔にも、こんなことが、あった、気がするの」
 力が抜けていくのを感じたラウラは、土笛を胸元に強く抱き寄せ、その場にへたり込む。エリアスが慌てて立ち上がったのが視界の端に映った。
「エリアス」
 ラウラは嗚咽の合間に彼に呼び掛けた。
「吹いて。もっと、長い曲」
「わかった」
 ラウラが土笛を差し出すと、エリアスはラウラの頭を優しく撫でてから、受け取った。


 身を裂く懐かしさはなかった。聴いた覚えのない、新しい曲だ。ラウラはその曲が演奏されている間に少しずつ嗚咽が収まっていくのを感じ、しっとりと舞い降りてくる音々に身を委ねた。彼が土笛を吹いて、自分がそれに聴き入る。言葉を交わすこともなく、じっと、心地の良い静寂に身体を沈める。それだけでよかった。ただこうしているだけで、こんなにも心が安らぐ。これが彼の答え。これ以上の理由は、何も要らない。
 ラウラは俯き、強く、強く唇を噛み締めた。




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