あぁ、クソ……っ。何だ、一体何が起こったっていうんだ。
 煩い、あのけたたましい騒音は何だ、この島には火を吹く奴もいるのか。……いや、違う、そうだ、父さんが言っていたじゃないか。神殿……神殿の者は俺たちとは違う、何でも人間という別の生き物らしいが……そいつらは俺たちの知らない武器を使うと、そう言っていた。あれがそうか……しかし、しかしそれにしても、いくらなんでも酷すぎる……。父さんは決して弱い獣人じゃなかった、母さんだって、いつも俺を守るために、野蛮な獣人どもを蹴散らしてくれていた、それなのに、あんなにあっさりと……。
 あぁ煩いな! さっきからがちゃがちゃと……いや、違う。神殿はもう帰ったよ。どうも混乱しているな……俺は。この音……この音は俺が走る音だ。俺の体を覆うこの金属のような皮膚だか鎧だか区別のつかない部品が立てる俺の音だ。
 あいつらはもう帰ったよ。あの火を吹く武器に撃たれて、そう、俺も死んだと思ったんだ。あぁ、そういえば俺は生きているな。いや、どうだろうな。母さんが庇ってくれた分、直接あの火を食らうことはなかったが……。
 はっとして俺は足を止める。周囲を見回し、塵の集積所へ飛び込んだ。直後、横道から獣人たちが飛び出してくる。大丈夫だ、俺の体はガラクタでできてるようなもんだ……気付かれはしない。こいつら、野次馬か……俺には目も留めず、俺が逃げてきた方へと走り去っていった。……無意味だな、そっちへ行ったところで……もうそこには誰もいないよ。だが島の連中は皆騒ぎがあるとそこへ集まっていく。
 また獣人が現れた。でかい熊の獣人だ。熊という動物に似た獣人はよく見るが、これほどの巨躯を持ち合わせている奴は見たことがない。
 見間違いか、……熊の目が一瞬だけ道端の俺の姿を捉えたような気がした。しかし立ち止まることはせず、顰め面の熊はやはり俺の横を走り去っていく。


ルーペルトについて



 真夜中の静まり返った小部屋に、がちゃり、と金属音が鳴り響いた。危ない危ない。可能な限り気配を潜めなければ。……今の音は俺の体が鳴った音だろうか? それともこの短銃か? だとしたら慎重にならなければ。チャンスは一度きりなのだ。
 それにしても。俺は手元の短銃を見つめる。丁度一年前のこの日、俺の両親の命を奪った悪魔の武器も、手に取ってみれば何のことはない、実に単純な構造の機械だった。しかし、強力だ。こいつが島内にあったら一波乱起こりそうだな。倉庫にはあれだけ並んでいたんだ、何本かくすねて持って帰ってやろうか。大体があの島で強い奴ってのは図体がでかいか爪が鋭いかとか、その獣人の外見で大体わかるもんだが、そういう奴は大抵指先が不器用だったり指がなかったりするもんだから、こんな小さな武器は扱えないだろう。今まで虐げられてきた獣人がこいつを扱えたとしたら、ひょっとしたら情勢が逆転するかも……。
 あぁ、また余計なことを考えているな、俺は。島を荒らして何になる。そりゃ俺もあの島の連中には色々頭にきている。俺はまだ生まれてから一年と数ヶ月しか経っちゃいないが、あの島の悲惨さは十分理解した。奴らといったら獣そのもので、いや、俺が本で知った獣の社会よりも無秩序で、ただ凶暴なだけで何も考えちゃいない。そうさ、話の通じる奴はいない。本能に従って生きているからな。あんな奴ら相手にしても、何にもならないんだ。
 部屋の外に人の気配を感じる。まだ遠い。遠いがこちらへ近づいてきている。俺は戸棚の陰に身を隠し、扉のほうを伺いながら短銃を構えた。
 ──クラーシェという名なのだそうだ。一年かかって突き止めた、俺が真に仇とするに相応しい存在。
 島の連中は何も知らないもんだから、俺は足繁く湖岸の街へ通って情報を集めた。街の人間どもは島の連中よりも鈍感で、俺の姿を見つけたとしてもどこが顔かすらもわからない様子だった。こいつら、何故か島のことを普段はあまり気にしていないらしく、なかなか話を集めるのに苦労したが、どうもこういうことらしい。
 島の獣人は、街の住人が神殿という組織によって姿を変えられたものらしい。神殿はまた島と街を統治してもいる。その神殿の統治者は──この統治者という者の存在が今ひとつ街の住人に強く認識されていないのが引っかかるが──クラーシェという女で、こいつを中心に神殿という組織は回っているという。
 部屋のドアノブが回る音がする。俺はいつも塵に紛れてそうするように気配を殺す。但し銃は構えたままで。
 そっと部屋に入ってきたのは、髪の長い女だった。細長い目に生気のない顔つき。街の住人のイメージと一致している。こいつがクラーシェか。俺は引き金に添えた手に力を込める。照準をクラーシェの胸元へと合わせて。
 クラーシェは何気ない動作で小卓の上のティーカップを手に取った。それと同時に小さな部屋に懐かしい発砲音が鳴り響く。
 だが一年前とは違い──その銃声の後には誰の悲鳴も続かなかった。
 ……どういうことだ。残響が遠くへ過ぎ去っていくのを聞きながら、俺は次の弾を込められないでいた。狙いが外れたのか? 何かに弾かれた? しかし、確かにクラーシェを打ち抜いたと……。
 髪の長い女は姿勢を変えずじっとしていたが、徐に俺のほうを振り向いて言う。
「……誰か……?」
 その目は周囲をさまよい、やがて戸棚の陰に身を潜めている俺の姿を見定めた。しかし彼女は銃を撃ったのが俺だということは理解しても、俺が何者であるかは外見からは判断がつかなかったらしく、
「……そなた……何者か……?」
 と低い声で尋ねた。
 俺ははっとして慌てて弾丸を補填する。クラーシェの妙にゆったりとした口調に調子を崩されている。……やりにくい、何なんだこの女は。くそっ。
「やめておけ……」
 クラーシェが静かに言った。俺に見せ付けるように空でティーカップを傾ける。その中から小さな鉛の玉が転げ出て、床の絨毯にぽとりと落ちた。
 俺の手が止まる。そのときになって俺は初めて自分が目の前の得体の知れない女に対して恐怖を抱いていることに気付く。恐怖……というよりは畏怖のような……このトロそうな女に対してというより、もっと大きな何か……。
「次、もし私が……防がなければ……そなた、湖に……殺されるぞ……」
 クラーシェは脅しとも忠告とも取れない淡々とした口調でそう告げた。
『……湖……?』
 俺の口からがちゃがちゃという音と共にこぼれた声を聞いて、クラーシェは僅かに眉を上げた。
「そなた……口が利けたのか……」
『あっ……たりまえだろうが……っ。お前、お前なぁ……!』
 惚けた物言いをするクラーシェに対する怒りが、この一年間俺の中で培われてきた感情の渦が恐怖を押し殺していくのを感じる。
『俺が、俺が誰だか知らないってか、え? そうかい、そうだろうな、クラーシェよぉっ! 手前ぇはな、やっぱり手前ぇだな、手前ぇを殺すのが一番だったな! え、あのことも忘れてるのかい、一年前……! 島で殺された、神殿の連中に意味もなく殺された獣人たちのことも、手前ぇは覚えてないっていうんだろう、え! 手前ぇだ、そうさせたのは手前ぇのはずだってのに!!』
 今度は銃口をクラーシェの額に突きつけるが、彼女は冷然とそれを受け流す。
「……何のことか……一年前……見当がつかぬ。……はっきりと言え」
 怒りに任せて俺はまた引き金を引く。だがやはり彼女は微動だにしなかった。やや俯き何か考えを巡らせる顔のまま、手にしたティーカップの中から銃弾を床に零す。
「……そうか、もしやそなた……」
 何かに思い当たったのか、彼女は顔を上げ俺を見た。
「……あの島で生まれた、者……か……? 一年前、そう……神殿の者を遣わせ……確か、皆片付けたと報せを受けたが……。……そうか……」
『あぁ、あぁそうだ! おいおい、覚えているじゃないか。そうだよ、俺は手前ぇに殺された獣人のガキだよ、クラーシェさん……』
 会話を繋ぎながらも俺は内心で焦っていた。この女にはどういうわけかこの武器は効かない。ならどうする、他に何か……。小部屋を見回してみるが武器になりそうなものは見当たらない。そもそもここに刃物があったところで俺に上手く使いこなせるとも思えないが……。
 俺の心を見透かすようにクラーシェは言う。
「両親の、仇を討つと……そういうことか……」
 彼女は俺を──いや、俺が構える短銃の銃口を真っ直ぐに見つめている。、
「だが……繰り返すが、やめておけ……。私は、湖によって生かされている……。……湖の守りがある限り……私は、殺せぬよ……。そなたにも何者にも、……そして歳月……私自身にも……」
『湖ぃ? 何言ってる……あれか、適当なことを言って……』
 クラーシェは俺の言葉を聞き流すように踵を返すと、寝台の脇にある大きな窓に歩み寄った。窓枠に手をかけ両開きの窓を開け放つ。水気を含んだ夜気が湖のほうから部屋に流れ込む。
「……復讐者……。……そなたが、私に対して……他の何者に対しても、……両親の仇討ちを、望むというのなら……そなたは、街、神殿、そして……あの島を陥落させなければならない……」
 夜風に長い髪を靡かせながら、クラーシェは背中越しに語る。その窓からは遠くに島を望むことができるはずだ。彼女は今、島を見ているのだろうか。
「全ては……この、湖によって……いや、湖の話は……そなたに語る必要はあるまい……。いずれにせよ、私に直接手を下すことなどできぬし……無意味だろう。……仮に私を屠ることに成功したところで……湖は、代わりのクラーシェを立てる……それだけのこと……」
 ひとしきり語り終えると、クラーシェは言葉を失った俺を尻目にすごすごと寝台へと引き下がり、カーテンの奥へと姿を消した。寝台を囲む重そうなカーテンの向こうから、小さな声が聞こえてくる。
「……夜気は体に毒だ……。……出て行くのなら、窓は閉めていけ……」

 結局、俺はそれ以上彼女に向けて発砲することはできなかった。彼女の脅しに怯んだというのもあるだろうが、何よりもそうするだけの気力が既に俺の中から失われてしまっていた。とりあえず窓は開け放しのまま、俺は島へ向けて飛び立った。
 ふらふらと覚束ない飛行の末、島の薄汚い路地裏に俺は落下した。あの日から一年間、張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったかのようだった。あぁ、駄目だな。こんなんじゃぁな、とても復讐だなんて、言っていられない。
 直接彼女を殺せないのなら、他の方法を探っていけばいいだけの話だ。俺は、俺の復讐はまだ終わっちゃいない……。だから立ち止まってたらいけないんだ、早く次の計画を、方針を練らなければ。
 どしり、と異様に重い足音が遠くで聞こえた。獣人だ。こんな夜遅くに出歩いている奴にロクな奴はいない。とっとと逃げ出すか……いや、ここは丁度ガラクタが散乱しているし、じっとしていればやりすごせるか……?
 やがて獣人はすぐ近くへとやってきた。どこかで見覚えのある、でかい図体の熊の獣人だった。そいつは俺のところまで来ると足を止め、
「随分とやつれているな。……そろそろ限界だろう、どうだ。俺のところへ来るか」
 と出し抜けに言った。どう見てもこの熊は俺を獣人と認識して話しかけているようだった。
 しばらく黙って様子を見ていると、獣人はため息をついて不意に俺の体を抱え上げた。
『やっ、めろっ』
 手足をばたつかせて暴れるが、熊は気にした風もなく歩き出す。どこへ連れてくつもりだ、この熊は。……とりあえずのところは俺を襲って食う気はなさそうだが。
「お前みたいなのが一番面倒なんだ。助けを求めるでもなく、ほっといたら勝手に死んでいったりして……まぁ、とにかく大人しくしてろ」
 熊はぶつぶつと文句を垂れるようにそう言うと、そういえば、と立ち止まった。
「お前、名前は? 親には何て呼ばれていた?」
 言われてはたと思考をめぐらせる。俺の名前は何だっただろうか? 両親が死んでから、まともに会話と呼べるような会話をした相手はクラーシェだけだ。一年前は、俺は何と呼ばれていたか……。そう、確か……。
『……ル……ルーペルト、だった、か、……多分』
「そうか、ルーペルトか。……よかったな、ちゃんと名前があるじゃないか」
 熊はそう言ってまた歩き出した。

 久しぶりに見た神殿の主の私室は、しかし相変わらず殺風景で何一つ変更点が見られなかった。獣人の俺が言うのも変だがこいつは本当に人間らしくない。
 扉の外に人の気配を感じる。俺は扉のすぐ横で銃を構え、扉が開き彼女が姿を見せると同時に発砲した。彼女は立ち止まり、小さなため息をついてそっと俺のほうを見る。
「……神殿は……夜は、私と宿直の者しかいないが……銃声は、存外に響くものだ……。……いい加減に、諦めろ……」
 クラーシェはそう言うと前髪を手で梳き、髪の間に挟まった鉛の弾を絨毯の上へと落とした。俺はここへ来るたびに毎回手を変え品を変え様々な方法で彼女を殺そうとしているのだが、悉く失敗している。これが湖の力ってやつか。どんな守られ方をしているんだ、この女は。
『久しぶりだな、クラーシェ。元気でやっていたか?』
「何も……変わらぬよ。そなたは……どうなった……。……以前言っていた……計画とやらは……どれほど進んだか……?」
 クラーシェは音もなく寝台に腰掛けると、そっと天蓋の支柱に寄りかかった。
 初めてここへ来たときは単純に胸糞悪い奴だと思っていたが、幾度と訪問しても彼女に対する印象は混乱するばかりだった。何を考えているのかわからない。ただ俺を見下し、脅威とも思っていないのは確かだ。
『あぁ、あの話だな。そうだ、まぁまぁ使えそうな駒が見つかってな。もうすぐ面白いことが起こるよ。……どこまで神殿を揺るがすことができるか、楽しみにしているといい』
 どうやったら神殿という巨大な存在を揺るがすことができるのか。あれから色々と考えた後、俺は一つの方向性を見出していた。島で暮らす獣人には望郷の念を捨てきれていない奴もいる。そんな奴に声をかけ、島を脱出する手助けをしてやる。俺が街から少しずつ島へ運び込んだ工具を使って、俺は小さな舟を作った。実作業はほぼユリウスの手によるものだが。巡回船のタイミングを見計らえば、恐らくこれで島から脱出することができるはずだ。
 あの犬と翼人の獣人……どちらも島で暮らせない程ひ弱な獣人には違いないが、しかしうまくすれば街の中へ溶け込むことができるはずだ。この片方を神殿に捕らえさせ、もう片方にその救出をさせる。迂遠な手段だが、上手く街の不穏分子を味方につけることができれば神殿の一角を崩せるかもしれない。
「そうか……。……それは、楽しみだ……。楽しみすぎる……」
 クラーシェは興味なさげに呟いた。いや、本当は興味があるのかもしれないが、この女の言動からその真意を推測することは難しい。
 ……案外、本当に楽しみにしているのかもしれないな。復讐を掲げる俺を捕らえられる位置にいながらも見逃しているのは、もしかしたら……。
 以前この女が言っていた言葉を思い出す。俺や何者にも彼女を殺せない。彼女自身にも。
 もしかしたらこいつは……俺が神殿を崩壊させることに期待しているのか……?
 ……いや、そんなはずはない。こいつは島を、街を支配する神殿の王なのだ。

 孤児院の裏口の扉を叩くと、しばらくして中から「はーい」という甲高い声が聞こえた。くそ、あの声はラウラか。舌打ちして俺は物陰へと身を隠す。すぐに裏口が開き、魚の獣人が姿を現した。誰もいないのを見て首を傾げながら孤児院の中へと戻っていく。
 しばらく待ってみても後から裏口の戸を開ける者はいない。あいつは出かけてるのか、と俺が帰ろうとしたとき、
「ルーペルトか」
 今度は野太い声がして、大柄な熊の獣人が姿を現した。こいつは名をユリウスという。この島で一人では生きていくことができない弱者に声をかけ、孤児院と呼ばれている少し大きめの建物に集め共生しているという、なんとも変わった奴だ。
 ユリウスは塵置き場の陰に隠れている俺をすぐに見つけ、さっと周囲を確認すると屈みこんで言う。
「またそんなところに隠れて……。入ってくればいいだろうに、いい加減」
 凶暴そうな熊面に不似合いな心配顔を浮かべるユリウスに、俺は体の部品を鳴らして笑って見せた。疲労がたまっていたため筋肉が嫌な軋みを上げる。
『俺はな、こんなところで何もしない何もできない連中とつるんでいられるほど暇じゃないんだよ。忙しいのさ、色々とな』
 俺の言葉をユリウスははいはいと等閑に受け流し、足元に置かれていた箱の中から小さな袋を俺に差し出した。俺は1メートルほど浮上してそれを受け取る。袋の中を見ると、いつも変わり映えのしない食料が入っていた。
「ちょっと古いが、まぁ我慢しろ」
『味なんて気にせんよ。俺の体はそんなに上等にはできてないんでな』
 実際俺は雑草を食ってもある程度腹を満たすことができるが、しかしこの体も一応は生物の特徴を最低限持ち合わせているらしく、雑草ばかりでは関節が曲がらなくなったり羽根に力が入らなくなたったりする。神殿の目から逃れて生き延びてきた俺には当然他の獣人のように配給などない。そこへこの熊が持ち前の世話焼き根性を燃やしてまともな食事を分け与えてくれる、というのがここ数年の俺の凌ぎ方だった。孤児院に暮らす獣人への配給の残りだったがまぁ悪くはない。
『……ユリウス』
「何だ」
 ユリウスは裏口の戸を閉めて俺の隣に腰を下ろした。俺は硬いパンを頬張りながら、今日こいつに会ったら確認しようと思っていたことを口にする。
『……あの舟のことなんだがな』
「あぁ、俺もそれについて聞きたいことがあったんだ。……脱出ってのは成功したのか? あいつらは……ちゃんと街へ行けたか?」
『ん。あ、まぁな、そいつは多分な』
 何だか言葉を濁してしまう。脱出用の小舟は、獣人を脱出させる手段を作るという名目で俺がユリウスに造らせたものだ。脱出と言っても外で暮らしていけるような姿をした獣人など滅多にいるものではないから、仕様用途は限られるだろうが、ユリウスは自ら進んで舟の製作に打ち込んだ。きっと街への郷愁が残ってしまった獣人を数多く見てきたからだろうと思う。……とはいえ、最初の渡航者は予め神殿に捕らえられることを前提としていたのだが……これはユリウスには言っていない。
「それなんだがな……お前、戻ってきた舟を回収したか?」
『え? お、何でお前そのこと……俺もそれを、ちょっと言いに来たんだが……』
 驚いてユリウスの顔を見る。ユリウスはほっとしたようにため息をついた。
「……よかった、巡視船に押収されていたら大変なことになっていた」
『ちょ、ちょっと待てよ。だから何でお前、そのことを』
 そう、犬と翼人の獣人を乗せて湖を渡ったはずのあの舟が、その晩のうちにガラクシアへと戻ってきていたのだ。慌てて俺はそれを島内へ回収しにかかったのだが、体重の何倍もあるような舟を一人で引きずって隠したんだ、お陰で昨晩はろくに眠れもしなかった。
「それがなぁ。実は……」
 ユリウスが語ったところによると、驚くべきことにあの舟を使って街から島へ渡ってきた人間がいたらしい。島から獣人を逃がすために使った舟で街から人間がやってくるだなんて、妙な話もあったものだが……。
『そうかい……まぁ、舟を処分する手間が省けたと思っておくかな』
「そうだな。良い偶然じゃないか、しかもそのやってきた子どもってのが、うちの子と知り合いときたもんだ」
 またそれは話が込み入っているな。
『へぇ。……誰と?』
「ラウラだ。彼女を街に連れ帰るんだって、エリアス……あぁ、人間の子の名前だが……彼もまたはりきっていてな」
 ラウラか……。まぁ、普通に考えてそれは無理だろう。ラウラはかなり人間とかけ離れた外見をしている。二足歩行なだけまだましといったところだ。とても外の世界では暮らしていけそうにない。
「……もし、エリアスが街に帰ることになったら。……いや、いずれは帰さなければいけないんだが」
 ユリウスは俺の隣で頬杖をつき、難しい顔をして言う。
「そのときは、あの舟を……使わせてやってくれないか」
『冗談』
 俺はきしきしと笑い声を上げた。
『あの舟はまた俺が目をつけた奴にくれてやるよ。そのガキを戻したきゃ、ユリウスがまた作ればいいじゃないか、え? 工具貸すくらいなら協力してやるからよ』
「……そうか、お前、また他の獣人を逃がす気でいるのか」
 ん? どうした?
 ユリウスの声色が不意に下がった気がして、俺は隣に座る熊を見上げる。俺の視線に気付くと、ユリウスは取り繕うように手を振った。
「いや、不満はないさ。あの舟の所有者はお前なんだ、どう使おうが文句は言わん」
 重い腰を上げ、熊は「じゃぁな。また腹が減ったら来い」と言い残すと巨体を揺らして孤児院の中へと消えていった。
 何だ、妙に引っ掛かる言い方をするな。どう使おうが文句は言わない。奴の言葉を反芻していると、俺はふとある考えに至った。もしかしてあいつ、俺がやろうとしてることに薄々気付いているんじゃないのか。考えてみれば俺が神殿を恨むのは事情を知っているあいつから見れば別に不思議なことじゃぁないだろうし、そうか。となるとなんであいつは何も言ってこないんだろう。お節介に毛が生えたような奴なのに……。いや、必ずしもそうとは言えないのかもしれない。俺のことをあいつは前から知っていたのに、最初の一年間は声を掛けてこなかったし。……ただ単に俺がほかの獣人と違うからか。案外、俺の姿を薄気味悪く思っていたのかもしれないな。ユリウスに限ってそれはないか。
 表のほうから子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。相変わらずにぎやかな家だ。島の中でここほど明るい雰囲気を保っている場所もない。
 俺は食べかけの食料を袋の中にしまうと、立ち上がって路地の暗がりのほうへと歩き出した。
 まぁ、いずれにせよ俺がここにふさわしくないのは確かだ。とりあえずは一人でやっていくさ。今まで通り。

 ……さて、これでどうだろうな。
 人々が寝静まった街を回りこむようにして、俺は夜の森の中を飛ぶ。神殿へ行くときは湖畔からは見張りが厳しくて入れない。木の間を飛ぶのは余り好きではないが、まぁ少なくとも人の目は避けることができる。
 犬の奴は、まぁ望み薄かもしれない。一応発破をかけてみたつもりだが……正直あそこまでふ抜けるとは予想していなかった。ただあの婆さんには期待できそうだ。歳は食っているが気丈そうだし行動力もあると見た。あの顔。孫が死んだと言ってやった時のあの表情といったら、ようやく目が覚めたって感じだったなぁ。そうだよ、街にもいるんだ、ああいう顔のできる奴が。誰もが皆神殿の支配下にあるってわけじゃないんだ。これからは街の人間に接触することも考えていったほうがいいのかもしれないな。ただあの婆さんに関しては、犬が変な気を起して却って妨害にならなければいいのだが。
 それにしても、昼間のイェニーの不自然な暴走。あれは一体何だったんだ? ここ二、三日、奴がちょっとおかしいって話はユリウスからも聞いていたが、しかしまさに配給日にあんな騒ぎが起こるなんて。また、神殿の連中が何かろくでもないことをした気がしてならないが……クラーシェは何か知っているだろうか。まぁ知っていたところでおいそれと俺に話したりはしないだろうが。
 俺はいつものように細い通風口を抜けて神殿の内部へと侵入した。神殿はとっくに一日の活動を終えて静まり返っている。クラーシェも寝ているかもしれないな。一週間ぶりに顔を見ていこうと思ったのだが、あいつは一度寝たらどんな騒音を立てても目を覚まさない。
 クラーシェの私室には誰もいなかった。俺は針金を取り出して鍵穴に差し込み、いつものように解錠しようとして手を止めた。おかしい。いつもはクラーシェがいてもいなくても鍵がかけられているはずなのだが、今日は開いている。首をひねりながらも部屋に入ると、部屋の中には誰もいなかった。となると鍵をかけ忘れて出て行ったのか……。
 俺はふと足元に視線を落とした。白い埃のようなものが落ちている。何だろう、これは。拾い上げるとそれはどうやら羽毛のようだった。俺が持つ蝙蝠の羽とは違い、綺麗で柔らかな鳥の羽根だ。クラーシェは私室に自分以外を入れることは(俺を除いては)絶対にないはずなのに、ではこれは一体……?
 疑問を感じつつも俺はその部屋でしばらくクラーシェを待ったのだが、一向に彼女が帰ってくる気配はなく、俺は諦めて空が白み始める前に神殿を後にした。

 その翌日は、普段より少しだけ島内から活気が引いていた。恐れて外へ出ようとしない者や、イェニーの暴走に巻き込まれて負った傷を癒している者もいる。だがまぁ一時的なものだ、皆すぐに忘れる。暴れるのが好きな連中は、これまでイェニーが占めていた地位を巡ってしばらく小競り合いを続けるだろう。それがこの島の社会なんだ。
 孤児院へ立ち寄ると、やはりそこも幾分か静かだった。というより人が少ない気がする。そりゃぁ犠牲者も出たわけだし、当然か。
 裏口で待っていると、今日は一番にユリウスが出迎えた。
「……ルーペルトか」
 低いトーンで姿を現したユリウスは全身のあちこちに包帯を巻かれていた。随分と痛々しい姿だ。エプロンをつけているところを見ると今日は家事を任されているらしい。タフなやつだ。
『あまり無理するなよ』
 柄にもなく気遣うような言葉が俺の口から出た。ユリウスは意外だったらしくきょとんと目を丸くしていたが、
「あぁ、ありがとうな」
 と変な笑いを浮かべた。そんなに似合わないか。
「……ちょっと入れ。あぁ、他の子は遠ざけておいたから」
 ユリウスはそう言って俺に手招きをした。何か話があるらしい。
 俺は用心しつつも裏口から孤児院の中へ入る。裏口は台所とそれに繋がる食堂へと通じていた。ここまで水周りが整備されている獣人の住居は滅多にない。一緒に暮らす獣人の数が多いから少しずつ改装していくうちにこうなったのだそうだ。
『にしても……なんかやたら少なくないか? そんなにやられたのか』
「ん? あぁいや、別にそうじゃないさ。幸運なことにうちは誰もやられちゃいない。……まだ、一応な」
 何、そうだったのか。じゃぁフリッツも生きているということか。
『じゃぁ連中は? ガキどもは部屋か?』
「部屋でじっとしてろって言っているのもあるし、半分くらいはあれだ、配給所の近くに空き家があるだろう、あそこを借りて怪我をした子を看病してるんだ。……かなり手ひどくやられた子が多くてな。ここまで運ぶのは危険だったから……俺も後で様子を見に行こうと思っていたところだったんだが」
『なるほどな』
 ユリウスの話し方からは疲労が滲み出ていた。昔から苦労の多い奴だ。人が良い分この島では厄介な目にあう。まぁこいつに言わせればそれも持ちつ持たれつ、一人で暮らすよりも肉体的、精神的に色々と楽らしいが。
 考え込むように黙ったユリウスを横目で見、それで、と改めて切り出した。
『何か用があるんだろ。何だよ』
 ユリウスは、ん? あぁ、とどこかはっきりしない反応を示す。
「……それが、お前に客が来てるんだ」
『何?』
 俺に客だと?
 訝る俺を尻目に、ユリウスは立ち上がって廊下へと続く部屋の扉へ向かった。扉を開け、入って来い、と廊下にいる誰かに向かって手招きをしている。
 あぁ、もしかしてあいつか。ユリウスがその客を連れてくる前に俺はそのことに思い至った。……まぁ俺に会いに来るのは別段おかしな話じゃないが……どうして俺がここにいると?
 ユリウスに連れられて入ってきた獣人は、人間の少女の姿をしていた。左腕の代わりに白い翼を携えていることを除いては。俺が逃がしてやった、あの二人組みのうちの片割れだ。すんなりと俺の言葉を信じ、むざむざ見張りに見つかりにいって捕らえられ、こうして島へ送還された。犬が特にこいつを助けようとしなかったせいで無駄な犠牲になる予定だが、まだ生きているか。
 どうもこいつは犬の言葉に従っていただけであまり自主性というものが見られなかったが、そんな奴が俺に何の用だろうか。
『ほぅ。久しぶりだな、おい。街はどうだったよ、え?』
 エルヴィンは俺の前に立ち、まっすぐに俺のほうを見て言う。
「お久しぶりです。……ルーペルトさん。今日は話があって来ました」
 ふと違和感を覚える。エルヴィンの物言いが、俺の中の印象と少し違っていた。まぁこいつは殆ど俺と話をしたことはなかったが、……思ったより芯のある物言いだ。
『……とりあえず座ったらどうだい。見下されるのには慣れてるがな、お前も話しにくいだろう』
 俺に促され、エルヴィンは椅子を引いてそこへ腰を下ろした。気を利かせたのかユリウスは部屋から出て行こうとする。
『いいよユリウス。お前もいろ。一応関係者なんだから。だろ?』
 エルヴィンは不思議そうな顔をしたがユリウスを拒みはしなかった。ユリウスは無言で部屋の隅に立ち、エルヴィンの言葉を待つ。
『……で。何だい』
「……街へ戻って、神殿に捕えられました。地下牢に閉じ込められて、酷い扱いを受けました」
『そりゃぁ気の毒に』
 エルヴィンは俺の言葉を気に介さず続ける。
「けど……クラーシェ様が俺をそこから救い出してくれました。神殿の人は俺のこと、良く思ってなかったみたいだけど……でも、俺はこの一週間、クラーシェ様に匿ってもらっていたんです」
 ……なるほどな。俺の顔がもし表情というものを持っていたら、今俺は目の前の半獣人に強烈な軽蔑の眼差しを向けていただろう。
『何か。お前はつまり俺にこう言いたいわけか。クラーシェに復讐するのをやめろと』
 エルヴィンは「そうです」とはっきりと頷いた。何があったか知らないが、どうにもこいつは……クラーシェに何か吹き込まれたな。心をほだされてやがる。
「……あなたのことは聞きました」
 俺は部屋の隅で腕を組んでいる熊に目線を送った。だが彼は頷くことも頭を振ることもなくじっとしていた。……いや、今はこいつが言ったかどうかなんてどうでもいい。
『もう少し話を聞こうじゃないか。言ってみな。俺は俺のやりたいようにやるがな、何故それを阻むんだ』
「神殿への復讐は……意味がないとは俺からは言えません。でも……それでも、もうやめてください。あなたは一体、何に復讐したいというのですか? クラーシェ様は……あの人は何でもありません。一人の市民に過ぎません。あなたの両親の命を奪った神殿の者ですか? それが許されることだとは思いません。けど──」
 あぁ鬱陶しいな、こいつは。
『待て待て。いいって、そんなに話を広げなくても。素直に言えよ、お前が守りたいのはあの女だけだって。個人的な動機を正義みたいな屁理屈にすり替えてんじゃない』
 エルヴィンは奇妙な顔をした。俺の言葉を受け流すでもなく受け入れるでもなく、図星を言い当てられたのか全く見当違いの言葉を言われたのか、本人も理解できていないような中途半端な顔だ。
『……まぁ何でもいいよ。そうだな、俺は確かにあの女を憎んではいるよ。あいつは神殿の王に着飾った傀儡だよ、そのくせ俺ら獣人を見下しているし──』
「それは、クラーシェ様は……っ」
『話を遮るな……! 俺はもうあいつ個人を潰そうとしているわけじゃないんだ。いいか、俺がぶっ壊したいのはあの街と神殿、そしてこの島全てなんだよ。え、坊主? 神殿にだってあの女にだって、等しくそれ相応の報いを受けてもらわなきゃならないからなぁ。俺ぁどんなに時間がかかっても──あぁ死んでもそれを成し遂げるよ、こちとらいたく個人的な理由があるんでな』
「……この島も、壊す……?」
『そりゃぁな。あの女を殺すってこたぁそういうこったろ。大体はっきりしてるじゃないか……配給がなくなればここの獣人どもは互いに争って自滅するさ』
 また、ちらりとユリウスのほうへ目を寄越す。熊は先ほどから立ったまま眠っているかのように微動だにしなかった。……こいつは何を考えているのだろう。俺が神殿に復讐を誓っていることを知っているはずだが、今日に至るまで何らそのことに口を出してはこなかった。
「……何も変わらないじゃないですか」
『この島の歴史が幕を下ろすさ』
「違います。あなたは……何も得られないじゃないですか、そんなことをしても」
 そういう問題じゃない、と言おうとして、しかし口を閉ざす。俺が何も得られない……そうか。違う、そんなことは最初からわかっている。何かを得ようとして生きているわけじゃない、どうせ俺には心が休まる場所なんてないんだ……そう考えている。そう考えているが、そうだ、それを口にできないのはどうせエルヴィンには言っても理解できないからだ。
 俺が黙っているのを見てエルヴィンは言葉を繋ぐ。
「得たものなんて何もない、失ったものは全て……です。そうじゃないですか、この場所だって、神殿の配給が止まったらいずれ……」
『お前には関係ないよ』
 これだけは。
 いくら身勝手な言葉を口にしようとも、これだけは憚られる。ユリウスは相変わらずじっと壁にもたれかかっている。それでも聞いている。俺が、こんな孤児院のことなんて知るか、と言ったら、奴はそれを間違いなく耳にする。それだけはできない。してはいけない気がする。
 だから俺は矢継ぎ早に言葉を浴びせる。
『何もかもお前には関係ないことだよ。あぁ、お前どうやってここまでこれたか知らないけど、もうここが殆ど終点になるだろうからな。神殿の連中、獣人どもにお前の噂を流してるよ。島を脱出した獣人を送還したって。その後に言うことは決まってら、このことにより配給を停止する、どうなるかわかるだろうよ、え?』
「それは……覚悟の上でここへ来ました」
 言葉は頼もしくもエルヴィンは自らの片腕を抱えている。やはり、獣人たちによる私刑が恐ろしいのだ。俺は畳み掛ける。
『この島が将来どうなってもお前はそのときにはもういねぇよ。俺が今ここを出て情報を流せば、お前は明日も迎えられない。なぁ覚悟の上ならわかるだろうが、お前はもうこれ以上なんだって──』
「ルーペルト!」
 ユリウスが、低く重い声で俺の名を呼んだ。
 俺は思わず身を硬くした。ユリウスの声には怒気はこもっていなかった。だが、強い意志を持って俺の名を呼んだことは確かだ。
 ユリウスはエルヴィンのほうを見ると、
「済まないが……少し外で待っていてくれないか」
 と扉へと促した。
 エルヴィンは暫しの間俺とユリウスの様子を伺いながら逡巡していたが、やがて何も言わずに部屋を出て行った。
 ユリウスは壁から背を離し、机の椅子を引いて俺の向かいに座った。そして切り出す。
「……悪いな、大きな声を出して」
 俺はユリウスの顔を見ずに返す。
『慣れてるよ』
「そうか。大体はわかっていたんだ」
 ユリウスは唐突にそう言った。数秒経ってようやく俺はユリウスの言葉の意味を理解する。
『だろうな。……お前に限って、復讐を見逃すどころか知ってて手を貸すなんて、ないと思っていたんだが……勝手な思い込みだったか』
「何で俺は……できた奴だなんて思われてるんだろうなぁ」
 ユリウスは力なく頭を掻いた。
「俺自身、あんまり自覚はなかったんだ、きっと。だが確かに俺は……神殿を憎んでいる。お前はあまりここへ来ないから、ここにいる奴らの名前も大して覚えていないかもしれないが……実際、結構な頻度で入れ替わっていくんだよ、ここの子は」
『……そうか』
 何でも受け入れるお人好しかと思っていたが、いや、しかし考えてみればこいつが神殿に恨みを抱くのも当然のことだ。神殿による最も憐れな犠牲者を間近で見続けてきたのだから。
「お前が舟を作ろうとしてるって言ったのを聞いたとき、こいつは街へ獣人をもぐりこませて、何かやる気だろうとは察しがついたさ。けど俺は……自分が共犯になるのが怖かったんだろう。獣人を逃がすためなら手を貸す、なんて体のいい逃げ口上まで使って。……我ながら情けない」
『よせ、気にしてないよお前がどう思っていたかなんて。結局舟はできたんだからな』
 自分の声の張りに自信がない。俺はユリウスのような獣人が罪の意識を恐れていたことに動揺していた。俺にとって、いや、こいつを知っている者にとって、この獣人は強きを挫き弱きを助ける、そんな揺ぎ無い巨木のような存在だったはずなのに。いや、違う。それは違ったんだ。俺らが勝手にこいつに信頼を置いていただけ。
 ……この動揺が伝わらなければいいが。
「……俺が、こんなことを頼める立場じゃないってことは承知している」
 ユリウスの口ぶりが硬くなった。
『何だよ、改まって』
「エルヴィンを、あの子をまた街へ戻してやってくれないか」
 その言葉を聞いて、ふっと俺の心が軽くなるのを感じる。
 なんだ、やっぱりこいつはどんなに罪の意識に苛まれていようと……結局どうしようもないお人よしじゃないか。
「お前の言ったとおりだ。あの子はこの島じゃ生きていけない。エリアスはともかくあいつはもう存在が他の獣人に知られてしまっているし……顔をちょっと見られただけでもリンチに遭うのは避けられない」
 真剣な顔つきで嘆願するユリウスを見て、俺は心の中でため息をついた。こいつはこうしてこれからもいらない気苦労や枷を自分から背負っていくのだろう。救われない馬鹿だ。だからこそ慕われる。だからこそ、こんな島の中でも彼を頼る者が現れるのだ。……俺のように。
 だが、それでも俺はこの頼みを聞き入れてはいけない。
『折角また戻ってきたあの舟を、もう何の役にも立たない奴にやると思うか?』
「無理を言っているのはわかっている。だが頼む。あの子には……それしかないんだ」
『知ったことかい。大体あいつは俺に復讐を諦めさせるために来たんだろう、本人が納得しないよ』
 痛いところを突かれてユリウスは苦い顔になる。
「……俺が言い聞かせる。どうにか納得してもらう」
『はっ! 結局お前はどっちの味方なんだよ』
 ユリウスは頭を抱えた。意地が悪い言い方かもしれないが、こいつとはいずれ対立するとわかっていたんだ。いくら神殿を恨んでいようが、こいつは復讐者にはなれない。
「念のため聞かせてくれ。……お前は、復讐を諦める気はないか」
『今更だな、まぁ今回は不発だったが方法ならまだいくらでもあるだろうよ、え? 俺には譲れないもんがあるってことさ、そのくらいわかってるだろうが』
「俺にも……譲れないものがある。目を逸らすことができないんだ、追い詰められた奴からは……」
『知ってるよ、そんくらい』
 暫しの沈黙が訪れる。双方互いに譲らない地点まで話が迫ったのだ。廊下で待たされるエルヴィンもいい迷惑だろうが、この平行線は恐らく平行のままだ。交わることはない。俺たちは結局距離を置いたまま、それでも一緒に進むしかないんだ。
「どうしても、駄目か……?」
『……頼むだけかい』
 いい加減俺は呆れ果てていた。
『救いのない馬鹿だな、お前は。俺は殆どここで食いつないでるんだ、言うこと聞かなきゃ配給を回さないとか、そういう交渉はお前のその頭じゃ思いつかないもんかい』
 ユリウスはきょとんとした顔をして、すぐに苦笑いを浮かべて首を振った。
「それができたらとは思う。そんな勘定のできるお頭があったら、あのときお前を拾ってこんな厄介背負い込むこともなかったんだがな」
 どきり、と体のどこかが鳴ったような気がした。かしゃかしゃと大げさに笑い声を上げる。
『よく言うよ。ったく……』
 ユリウスはきっと冗談のつもりだったんだろう。けれどそれは真実だ。
 結局のところ、俺は誰かに助けられて生きていくには向いていないし、誰かを助けることなんてできやしない。俺にとって助けというものの全ては、あの日神殿の連中に掃射された。そう考えると気が楽になった。ようやく。俺はようやく自分の足で歩き出すことになるのかもしれない。
『図面と工具をくれてやる』
 そう言って俺は椅子から飛び降りた。
『お前にゃ何書いてあるかわからんだろうが、まぁ街から来たっていう人間にでも見せれば大体の作り方は掴めるだろうよ。材木はまた探せ。あんまり目立つところのを伐ると神殿に目をつけられるかもしれないから慎重にな』
「ルーペルト……」
 俺はユリウスの声を気にかけずに裏口へと歩き出す。流石に図面と工具を隠してある場所はユリウスにも教えられない。
「おい、ちょっと」
『慣れてきたら、出てもやっていけそうな奴をお前の裁量で逃がしてやってもいいかもな。ただ前の時も言ったが、いつでも出れるってわけじゃない。いつもは湖面に出たその場で見つかっちまうだろうが、巡視船の航路と天候に気をつけて時期を見計らえば──』
 俺の考えが伝わったのか、ユリウスは急に不安げな声を出す。
「ルーペルト、……どうするんだ、お前は」
『俺か?』
 蝙蝠の羽を羽ばたかせて裏口の取っ手をひねる。
『俺は俺でやっていくさ。まぁ、月並みだが……世話になったよ。じゃぁな』
 俺は裏口の戸を開けた。ユリウスは俺を引きとめようとするだろうか。俺はちらりと背後を振り返った。
 そのとき。
 どたどたと騒々しい足音が廊下のほうから聞こえ、ばたんと部屋の扉が開かれた。
「にっ、逃げてください!! 討伐隊が──!!」
 エルヴィンがそう叫んだ直後だった。
 突然の衝撃と轟音が周囲を包み、俺の体は灼熱の爆風に飲み込まれ視界と上下を失った。

 恐らく意識を失っていた時間はそれほど長くはないだろう。俺が最初に考えたのはそのことだった。我ながら冷静極まりない。……あのときもそうだった。俺の体は小さい割に頑丈な装甲に覆われている。だからこそ辛うじて生き延びた。生き延びながら、両親が自分に覆い被さるようにして息絶えていくのをじっと見つめていた。
 討伐隊……あぁそうか。さてはエルヴィンを追ってきたな。相変わらず乱暴な連中だ。ちょっとこれはやりすぎじゃないか? それだけ俺を恐れてるってことなのか……。どうも俺は裏口に待機していた討伐隊の連中に攻撃を受けたらしい。爆音が聞こえたから、どうも銃で撃たれたというわけでもないらしいが……今になって内臓が痛み出す。
 それにしてもここはどこだろう。暗い上に粉塵が僅かな光を遮って視界が殆ど利かない。瓦礫の下に埋もれたか……声を上げようとして、口元が割れているのに気付いた。これは思ったより傷が深いかもしれない。くそっ……。
 と、そのとき。頭上(と思われる方向)から誰かの話し声が聞こえた。話し声といってもそれは酷く険の立った攻撃的な声だった。
「……く……しろ! 隠し立てすると貴様も……!」
 甲高く張り上げるように討伐隊と思しき声は言った。それに野太く猛々しい声が応対する。
「何故……! 俺たちが……誰も……っ!」
 ユリウスだ。心からの怒りを露にした、俺の記憶にはないほど野性的な声で何かわめいている。
 会話の内容はよく聞こえない。もしかしたら耳も多少やられてしまっているのかもしれない。だが両者の気息が昂ぶっていくのは感じられる。次第にユリウスの声は俺でも恐ろしくなるほどに力を帯びていき、俺の体を瓦礫越しに揺さぶった。
「……にを……何もかも……! あいつを……皆を……っ!」
 よせ、やめろ!
 制止しようとするも声は出ない。そうしている間にもユリウスの声は荒ぶるばかりだった。馬鹿が、奴らを恐れさせるな……! 奴らに恐怖を与えてはならない!
 何とかしてこの瓦礫の下から抜け出せないかと体に力を入れてみるが、激痛が増すだけで俺のがらくたの装甲は言うことを聞かない。
 ユリウスの咆哮が大地を揺さぶった。
 獣だ。
 怒りに我を失った、それは獣の咆哮だった。
 忘れたか、ユリウス。
 獣は人間に狩られるんだぞ──
『ユ……リ、ウス……っ!!』
 鉄の咆哮が頭上に渦を巻いて響き渡った。轟く銃声は雨音のように途切れなく辺りを包み込み、俺の感覚の一切を支配していく。

 ごとり、と頭の近くで音がした。
 その音を聞いて、自分がまだ世界を知覚することができることに気付く。……当たり前だ。俺は大した傷を負ったわけじゃない……。
 はっと我に返ると同時に、俺の目に眩しい陽の光が飛び込んできた。すっかり闇に順応していたらしい俺の目は眩み、
「あっ! ここに……!」
 と誰かが頭上で声を上げたことはわかってもその姿はぼんやりとしか認識できなかった。
 そうだ、討伐隊の襲撃を受けて孤児院が倒壊して……俺はその下敷きになったのだった。そこまで思い出したところで、翼に激痛が走る。普段は畳んでいるのだが、あのとき確か俺は運悪く翼を広げていたのだった。……だがどうやら千切れて何処かへ行ったわけではないらしい。ほっと息をつく。
 って、それどころじゃない! 一体、事態はどうなったんだ?
「くっ……ごめん、誰か手伝って! 一人じゃ……」
 俺の頭上の瓦礫を除けた者は、よく見ると獣人ではなかった。思わず背筋が凍りついたが、すぐに神殿の関係者でないことに思い至る。
『お前……エリアスとかいったか……』
 俺の発声はどうにか言葉として伝わったらしい。
「え? あ、はい。そうですけど……」
 こいつか。ご丁寧にあの舟を島まで運び戻してくれた人間とやらは。全く、どれだけ肝の据わった奴かと思えば、街にうようよいる弱々しいガキじゃないか。俺の姿を見て物怖じしないのは……単に獣人が見慣れていないだけか。
 エリアスは応援に駆けつけた獣人のガキどもと一緒に俺を圧迫していた瓦礫をどかした。砂塵が舞い上がり、咳き込む声が聞こえる。
『おいお前。言え、何がどうなった。俺が閉じ込められてから……討伐隊は? 孤児院は?おい……ユリウスは……?』
「げほっ、げほ……あ、あぁ……討伐隊はもういません。俺が来たときにはもう……あなたを仕留めたと思って引き上げていったそうです」
「あいつら、多分怖くなって逃げたんだよ。ユリウスがあんまり怒ったもんだから……俺もあんな怒ったユリウス、初めて見た。怖かったなぁ……」
 エリアスを手伝った獣人の子どもが身震いする。名前は忘れた。
『そうだ、ユリウスは……あいつはどうなったんだ』
 俺がそう尋ねると、エリアスも獣人の子どもも暗い表情になる。
「ユリウスさんは……今、隣の棟で寝てます。……俺、ユリウスさんに言われてあなたを探していたんです。多分生きてるだろうって……」
『ってことはあいつは無事なのか?』
「えっ?」
 エリアスは聞き返した。俺が余りに早口で問い詰めたために聞き取れなかったらしい。だが隣の獣人は意味を解したらしく、
「……大丈夫だと、思います、けど……。一番酷い傷を負ったのは、ユリウスで……ううん、ユリウスなら、大丈夫です。絶対……」
 と煮え切らない様子で言った。その表情で大体の状況は掴める。
 案の定、ユリウスは惨憺たる有様だった。エリアスと獣人の子に手を借りつつユリウスのいる部屋へ入ると、鋭い血の匂いが俺の鼻をついた。部屋に敷き詰められたたくさんの寝台の一つに、血と包帯でわかりにくくなったユリウスが横たわっていた。
「ひっ……。そ、その……方は……」
 か細い声が聞こえる。見ると、ユリウスの寝台の横で彼を介抱していたらしい獣人の少女が俺を見て怯えている。ラウラだ。
『気にするな。ユリウスはどうなった』
 ラウラは俺の姿が恐ろしいらしく若干しり込みをしていたが、しかし精一杯といった様子で状況を説明する。
「ユリウスさんは……突然孤児院へ押し入った神殿の方々に、全身を撃たれたそうです。私、そのとき孤児院にいなかったから、後でここにいた子たちに聞いたんですけど……」
 見ると、ユリウスの周囲にも多くの獣人が横たわっている。めいめい体に傷を負っているが、皆ユリウスほど酷くはなさそうだった。
『で。今はどうなんだ』
「……さっき、一時だけ意識を取り戻したんです。孤児院の瓦礫の下に獣人が埋まっているかもしれないから、探してきてくれって。またすぐに意識を失って……まだ気がついていません」
 俺は空いていた隣の寝台に乗ると、改めてユリウスの様子を見る。
『……体のほうは』
「正直……わかりません。いつも子ども達の怪我はユリウスさんが治していましたから……」
『面倒だなっ、お前が見た感じどうだって聞いてるんだよ!』
 俺が声を荒げると、ラウラはびくっと肩を震わせた。
「あ、あの……」
『悪い。……畜生、ひでぇな……』
 恐らく、ラウラや他の獣人たちは手を尽くしているのだろう。だがこいつらにできることといったら、せいぜい傷口に包帯を巻いて止血するくらいだ。全身に血の滲む包帯の巻かれたユリウスを見ていると、その努力は感じられる。だが、それまでなんだ。
『ユリウス……』
 寝台を押し潰さんばかりの巨体を持つ獣人は、荒く細い呼吸を繰り返している。額に氷嚢が当てられているのを見ると熱が出ているらしい。いくらこいつでも、この状態は危険だろう。
 あのとき、こいつは何に対して怒りの咆哮を上げたのだろう。孤児院の子はユリウスほど酷い怪我を負っていないという。となると俺か……俺がやられたと思って……? どうだったろう。いや、俺はきっかけに過ぎないのだろう。あの怒りは元々こいつの中にあったものなんだ。
 え、ユリウスよ。多分あのときのお前は、……あれが本当のお前だったんじゃないのか。姿を獣に変えられながら、あんたはそれでも理性を失わずにやってきた。でもそれは……獣人とか人間とか、そういうことは別にして……自分ってものを押さえ込んでいたってことなんじゃないのか。
 ユリウスは未だ目を覚まさず、荒い息を繰り返している。
 ……獣人か。獣でも人でもない俺からしてみりゃ、どうにも面倒極まりない生き物だ。人も獣もそれぞれ社会を持って、その中で暮らしているのに、獣人にはそれがない。何時まで経っても理性と本能の間で揺れ動く、足場のない連中。
 俺は部屋にいる連中の顔を見た。……犬猫のガキはものを運ぶのに適していないし、人間の方は迂闊に外に連れて行けない。
『おい、そこのお前』
「えっ? わ、私ですか?」
 突然俺の視線を受けてラウラは動揺している。だがまぁ一番動きやすいのはこいつだ。
『俺の寝床から医療品を持ってくるから手伝え。人間用のものだからどこまで効くかわからないが……このままほっとくよりは随分ましなはずだ』
「は……はいっ!」
 いい返事だ。
 エリアスが心配そうな顔をしている。この期に及んで俺がラウラに何かするとでも思っているのか。
『あと……そこの人間。多分ここで一番手先が器用なのはお前だ。治療はお前がやれ』
「え……わ、わかりました」
 そのとき、寝台のほうからがさり、と重い音がした。続けて微かな呼び声が聞こえる。
「ルー……ペルト……?」
 見れば、ユリウスが息も絶え絶えといった様子で俺のほうを見ていた。気がついたか。つくづくタフな野郎だ。
「無事……だったか……。ルーペルト……」
『まぁな』
 ユリウスの体から力が抜ける。人の心配してる場合じゃないだろうに。
「よかった……」
 ユリウスは心底ほっとしたように深い息を吐いた。目を閉じ、再び意識を失ったのか何も言わなくなる。まるで俺の安否を確かめるためだけに息を吹き返したかのようだ。こいつ、人が良いっていうより世話焼きが本能なんじゃないか?……呆れた野郎だ。どうしようもない……。
 俺は舌打ちし、ラウラを促して扉を開けさせた。ため息交じりに言葉を残していく。
『俺はまだよくない。……ちょっと待ってろ』
 翼をしまい、がちゃがちゃと煩い音を立てて地面を歩く。体の節々が痛んだが気にはならない。何故だろうか、身を包むゴミクズの甲冑が、今は少しだけ軽い。


 手狭な小部屋に薄らと月の光が差し込んでいる。その光の下に、艶やかな長髪を持つ女が一人佇んでいる。女は俺に背を向け、何やら戸棚をあさっている。
『何してたんだ、この間。……あの地震、あんた何か関係あんのか』
 女は振り向かず、低い声で答える。
「あるといえば……あるし……、……いや、自然現象だ……」
 ふむ。
 突然いなくなったと思ったらこの女、何事もなかったかのように戻っていやがった。夜の神殿を出歩いていたとも思えないし、何かあったのは確かなのだが。何となく彼女の雰囲気も以前と違っている。何というか、……少しだけ言葉をはっきり言うようになった。尤もそれは微妙な発音の問題で、俺の気のせいかもしれないが。
「そなた……。……あれは、もういいのか……?」
『あれ?』
 クラーシェは手を止め、肩越しに俺を振り返る。
「私を……討とうと、していただろう……。……先日は、もうすぐ……何かしでかすと、仄めかして……いたようだが……」
 こいつ、俺の話を聞いていたのか。暖簾に腕押しだと思っていたが、これは意外だ。
『あぁあれな。あいつはやめだ。駒が両方逃げちまったからな。だがこれで何もかも終わりじゃねぇ。次はもっと確実に……』
「そうか」
 ……珍しくクラーシェが俺の言葉を遮った。やはりこいつ、何か様子がおかしい。
『……妙だな。何かあったのか、え?』
 そう問いかけると、クラーシェはゆっくりと振り向きながら、
「……少し、……私は、少し私なりに……考え、そして、決めた。……考えを閉ざすことを、深い眠りに就くことを……よしとせず、何か……。……なすべき何かを……見つけ、そして……」
 と語る。その声は俺に向けられているというよりは独り言のようで、俺はますます怪訝に思う。
 と、突然クラーシェが右手を挙げ、俺に向かって突き出した。
「何か、というものが、あればの話だが……」
 衝撃とそれに被さる銃声が俺を部屋の端へと弾き飛ばす。したたかに顔面を壁に打ちつけ、視界が暗転しかけた。おいおい、何だよ。何だよいきなり……。ったく。
 俺は慌てて翼を広げ、開け放たれていた窓から夜空へと舞い上がった。クラーシェは無言で窓を閉め、どうやら鍵をかけたようだ。……何だ、俺を拒むということはあれか、宣戦布告か。いいだろう、何があったか知らないが……やる気になったのなら乗ってやる。
 それにしても畜生、痛ぇな。あの女……。またしばらく孤児院の世話にならなきゃいけねぇじゃねぇか。




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